no.9
「ほら、早く美織のところに行って安心させてやれ」
「あ、ああ、うん」
佐伯が開けた玄関を通りぬけ、二階の美織の部屋に入った。
「美織……」
声を掛けたが、返事がない。
近づいてみると、美織はすやすや眠っていた。
額のガーゼが痛々しい。真琴は、そっと部屋を出た。
「美織は?」
リビングに行くとインスタントコーヒーを入れた佐伯が待っていた。
「眠ってた」
「そうか。薬のせいかな。ほら、コーヒー。とりあえずあったまれ」
「うん」
気付かなかったが、体がいつの間にか冷えていた。
暖かいマグカップが体に沁みる。
両手の中にあるマグカップは、いつものとは違っていた。
良く見ると佐伯と色違いのように見える。
その視線に気づいたのか佐伯がコホンと咳払いをして口を開いた。
「美織がこの間の休みに買い物に行って、これを絶対買うんだと言って聞かなくてね。しかも名前入りだ」
そう言って、マグカップの底を指差した。真琴はマグカップを翳してみる。そこには「俊平」と入っていた。
「あれ、これ間違ってんじゃないの? そっちのがあたしのじゃない?」
「いや、これでいいんだそうだ。赤っぽいのがおまえで、青っぽいのが俺。名前はお互い逆に書いてある」
「なんだ、そりゃ?」
「珍しく一緒に買い物に行くって言うから、連れて行ったんだが、どうも学校で流行りらしい。その店に連れていかれて、これ買わされたわけ」
「今時の小学生って怖い……」
「なに考えてるんだかな、ほんとに」
そう言いつつ、それにコーヒー入れてくるあんたもあんただよ、と真琴は思った。
なんとも居心地が悪くて、勝手にテレビをつける真琴だった。
そんな真琴を佐伯は、コーヒーを飲むふりをして見つめていた。
つい最近までは確かに生徒の一人でしかなかった。
前から気にならなかったかと言ったら嘘になるかもしれない。
他の生徒とは少し違って、きゃあきゃあ騒ぐでもなく、口数は少なめなのに存在感はあった。
文化祭での軽音部のボーカルも感動ものだった。
いつしか佐伯の中で真琴は、生徒以上の存在になり始めていた。
いきなりリビングボードの上に置いたスマホが音を立てて、無口になっていた二人を驚かせた。
「はい。あ、はい……はい……はい、わかりました」
話しながら、真琴をちらちらと見る佐伯に、なに?と視線を送る。電話を切った後、佐伯は深く溜め息をついた。
「お前のお母さんからだ」
「えっ?」
「すぐ、帰してくれとさ。きっと気付いて……いや、とにかく早く帰った方がいいな。気をつけて帰れよ」
「あ、ああ。でもなんで母さんがセンセに電話するかなぁ。まだ門限になってないじゃんか。ったく」
ぶつぶつ言いながら、真琴は、佐伯に手を振って家を出た。
家に帰ると、母親はキッチンで料理をしていた。
「なんだよ。わざわざセンセに電話しなくたっていいじゃん。まだ8時だろ」
「時間の問題じゃないのよ。先生のお子さんのことは、先日、聞いたわ。怪我をしているところを助けたって。それ以来何度か先生のお宅に行ってるって話も」
事故った時か、センセ軽口すぎるよと真琴は思った。
「もう先生のお宅にいくのは辞めなさい」
真琴は母親のその言葉の重さにうろたえている自分に気付いた。
「なんだよ、それ」
「変な噂でもたったら困るでしょ。一人の生徒が先生の家に入り浸ってるなんて」
「変な言い方するなよ。あたしはただ美織が心配で……」
「それは先生のお宅のことでしょう。あなたが関わることじゃないわ」
真琴は自分の中で大きくなっていく佐伯への思いを母親に気付かれたのかと思った。
だから佐伯の家に近づけさせまいとしているのだと。
しかし実際、母親は真琴の気持ちには気づいていなかった。
事故の夜、湿布を貼って戻ったリビングで、覗き見をするつもりはなかったが、閉まり切っていないドアから佐伯が真琴の頭の上に手を乗せて真琴を見つめている姿を見てしまっていたのだった。
その表情だけで母親には充分だった。
母親が入ってくるのに気付いて佐伯は腕を引っ込めた。
それをしっかり見ていたのだ。
「先生だって男なんですからね」
「……」
真琴は言葉を失った。
「とにかく変な噂でもたって、佐伯先生が学校にいられなくなったりしたら困るでしょ。そうなったら、あなただっていづらくなるでしょ。教師と生徒はあくまでも距離を保つべきなのよ」
「ばかばかしい!」
「噂をバカにしちゃだめよ。煩い人もいるんだから。先生も先生ですよ。そのくらいわかるでしょうに」
「いい加減にしてよ! あたしが美織を心配して行ってるんだ。センセのせいじゃないだろ」
「あなたはそれでいいかもしれないけど、先生は……」
母親はそのあとの言葉を飲み込んだ。
言ってしまうのは簡単なことだ。
けれど佐伯の気持ちに気付いていないように見える真琴に対しては言えなかった。
「なんなんだよ、もうっ!」
真琴はダイニングテーブルに両手を打ちつけた。
勝手に自分の価値観を押し付けてくる母親に、はらわたが煮えくりかえっていた。
その母親の価値観に応えるのが娘の自分のあり方だと思っていた頃もあった。
寂しい思いを抱えながらも必死で母親に縋るように応えていた自分は今はもういない。
親の都合で振りまわされてばかりいたんだという思いがそれにすり替わったのはいつごろなのか、もうそれすらわからない。
そんな思いを抱いているなど微塵も感じていないのだろうと、真琴は思った。
「もういいわ。食事にするから着替えてきなさい」
「いらないよっ」
真琴は、ダイニングテーブルの上にあった林檎をひとつ掴み取ると、ダイニングを出ていってしまった。
母親もうまく伝えられないもどかしさに苛立ちを覚えていた。
真琴が佐伯の娘のことを心配していることはわかっている。
けれど佐伯を嫌ってはいないだろう。
嫌いなら家まで行ったりはしないはずだ。
いつか、そう遠くないうちに佐伯の気持ちに気付くだろう。
そうなる前にどうにかしたいと思うのだが、真琴は聞く耳持たずで話にならない。
キッチンにひとり残された母親の脳裏に事故の日のリビングでの様子が蘇る。
真琴が気付いていなくとも、佐伯の姿からそれは確信できた。
頭に血が上った状態の真琴には、なにを言っても無駄だろう。
佐伯本人に伝えるしかない。母親は受話器を取った。
部屋に入った真琴は、ヒップバッグを机に放り出し、ベッドにドサッと倒れ込んだ。
両手の中の林檎を弄ぶ。
怒りがなかなか収まらない。
『こっちだって気ー遣ってんだからな』
佐伯の家に行くときは、必ず家で着替えてから行っている。
生徒だとは分からないようにしているつもりだ。
『たまたま助けた美織の父親がセンセだっただけじゃん。美織とセンセがうまくいけばなぁと思っただけじゃんか』
自分と重なる美織を放ってはおけなかった。
美織の事で悩む佐伯を放ってはおけなかった。
ただそれだけだ……本当にそうだろうか。
最初は、確かに純粋に放ってはおけないと思っただけだった。
けれど今の自分には、また別の思いがあるような気がする。
楽しいのだ。
美織と佐伯といる時間が楽しかったのだ。
自分を必要としている誰がいて、そこに自分の居場所を見つけたような感覚だった。
真琴にとって、それはもう失うことのできないものとなっていた。
翌日、学校に行くと、早速、真琴は佐伯に指導室に呼ばれた。
「センセ、あんま度々こんなとこに呼び出すなよ。あたし、別に何もやってないんだからさ」
「悪いな。だが他に場所がないから」
「で、なんだよ。美織になにかあったのか?」
「いや……」
佐伯は、言いにくいことをどう切りだそうか、言葉を選ぶのに間を置いた。
「はっきり言えよ」
昨日からのうっぷんがたまっている真琴は、苛立っていた。
「美織のことは心配いらない。もううちに来るのは……辞めたほうがいい」
佐伯の言葉に、真琴にも察しはついた。母親が何か言ったのだろう。
「なんだよ。どいつもこいつも。あたしはただ……」
昨夜母親に捲し立てたことをまた繰り返しそうになって、真琴は、佐伯を見つめた。
視線を避ける佐伯の姿に、言っていることと本心とが違うことが見て取れる。
「センセ、母さんに何か言われたんだろ。あたしも帰ってから言われた。センセの家に行くなって。でもあたしは行く。美織のことも心配だし、センセのことも心配だから。センセはどう思ってるんだよ。あたしはセンセの気持ちが知りたい。センセが迷惑だって言うんなら行かないよ」
真琴の言葉に佐伯が視線をあげた。真琴は言葉が返ってくるのを待った。
「真琴、正直に行動したいと思う。しかし今はそれが正しいかどうか俺にもわからない」
「答えになってない! どうしてそうやって逃げるんだよ!!」
「大切なものを守りたいから。傷つけたくないから」
「バカ……バカ!! 本当に大切なら、正直に行動して、それで守ってみせろよ! 正直に行動しないから傷つくんじゃないか! どうしてわからないんだ!! あたしは……」
「真琴、大声を出すな」
佐伯は、喚き散らす真琴の頭を抱え込んだ。
「美織はあたしと同じなんだ。だからあいつの気持ちが痛いほどわかる。あいつを一人にしたくない。それにセンセだって同じだよ。傍にいてやりたい。ただそれだけなんだ」
佐伯の腕の中で真琴は、自分の気持ちを曝け出した。佐伯は、真琴を抱く腕に力を込めた。
「俺におまえくらいの強さがあったら……守り通す自信があったら……」
「あたしはそんなに強くないよ。本当に大切だから失うのが怖いから……。あたしがやっと見つけた居場所だよ。失くせないよ、そんなの怖いよ……」
真琴はそれだけ言うと佐伯を突き飛ばして、指導室を飛び出した。
悲しいのか悔しいのか、そう言った感情がないまぜになって、涙が止まらない。
次の授業は、体育館の後ろに隠れてすっぽかした。