no.8
病院に着くと、救急処置室に連れて行かれた。
「ご家族の方ですか?」
「いえ、知り合いで。すぐ父親呼んできます。美織、大丈夫だからな。すぐセンセ連れてくるから」
「うん」
涙ぐむ美織の頬に手を当ててから、踵を返して、またバイクを走らせる。
学校の西門から自転車置き場にバイクを乗り入れると、そのまま職員室に走り込んだ。
「センセ、美織が……」
息が切れて言葉が繋がらない。
「美織がどうした。ってか、お前、その格好で学校はないだろう」
「美織、怪我して、病院……早く」
真琴は、佐伯を自転車置き場まで連れてくると、
「乗って!」
とヘルメットを被りながら言った。
「いや、車出すから」
「車じゃ、時間かかる。こっちのほうが早いから。乗れー」
真琴の気迫に佐伯も思わず乗ってしまったものの、バイクが発進してから気付く。
「おい、捕まるだろうが。俺、ノーヘルだぞ」
「細かいこと言ってんじゃねー。裏道通るから心配はいらないよ」
「おい、真琴、安全運転しろ!」
「急ぐんだ!」
「危ない!」
「うるさい!!」
「事故ったらどうする。落ち着け!」
「後ろでごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ!!」
病院に着くまで、二人は怒鳴りあっていた。
病院に着いたころには息も上がっている。
「だいたい、電話って、もんが、あるだろーが。お前の迎えじゃ、生きた心地しないぞ」
「あ、ああ。電話、忘れてた……こっち」
救急外来の受付を通って、待合に入ると、ちょうど看護婦が出てきた。
「ご家族の方ですね。こちらにどうぞ」
看護婦が、治療室のドアを示した。
息を切らしている真琴に看護婦が気づいて「大丈夫ですよ」と優しく微笑みながら言葉を掛けてくれた。
それに重なるようにして佐伯の大きな手が真琴の頭に置かれた。
佐伯は優しい瞳で真琴を見つめている。
真琴の体から一気に力が抜けた。
もう大丈夫だと安堵するが、その気持ちはあっという間に怒りへとすり替わった。
「真琴?」
表情の変化に気付いた佐伯だったが、もう一度看護婦に促され、返事をしているうちに真琴は、病院を飛び出していってしまった。
美織の怪我は結局、額の傷を二針縫っただけで済んだ。タクシーで病院を出た美織は、真琴の姿がないことに気付いた。
「お姉ちゃんは?」
佐伯は、看護婦から大丈夫だと聞かされた後、飛び出していったと、美織に話した。
「パパ! お姉ちゃん、悪い事しちゃうかも……」
「悪いこと?」
「お姉ちゃんが悪い人になっちゃう前に止めて!」
美織は佐伯に縋りついた。
「どういうことかわからないよ、美織。ちゃんと順番に話してくれないか」
美織が戸惑っている間に家に着いた。佐伯は美織をベッドに入れると話を促した。
「パパは、美織がとても大切だ。だから美織と仲良く暮らしたい。仲良く暮らすには、内緒はなしにしないとな。そして真琴も大切だから。すべて話してくれないか?」
美織はコクンと頷き、静かに話し出した。
苛めにあっていたこと。
それで怪我をして真琴に助けられていたこと。
今回の怪我も苛めっ子達にやられたこと。
「ごめんなさい、パパ」
「美織が謝ることはない」
「だって、黙ってて……」
「言いにくかったよな。パパこそ、ごめんな」
「パパ。お姉ちゃん、トモ君ちに行ったかもしれない。トモ君のお兄ちゃん達が苛めてたって知ってるから」
「わかった。真琴のことは心配いらない。美織は、ゆっくり休んでいなさい」
真琴が病院から飛び出して、しばらく経っている。
けれど真琴はトモ君の家を知らないはずだ。
彼の家は、佐伯の家の近くにあった。
何事もないことを祈って、佐伯は家を出た。
その頃、真琴は、佐伯の近所にいた子供達をつかまえては、トモ君の家を聞き歩き、やっと見つけた彼の家に来ていた。
母親の後ろに隠れるようにして、二人の男の子が立っていた。
真琴は男の子達をまっすぐ見ている。
いつも美織を苛めていた体格のいい男の子がそこにはいた。
「宏樹と友樹になんの用ですか?」
母親が不審がっている。
「美織に何をした?」
「俺、何もしてねーよ」
宏樹と呼ばれた、いつも美織を苛めていた男の子がそっぽを向いて言った。
「ふざけるな! ついさっきのことだろーが。もう忘れたのか!」
真琴は怒りを両手の拳で必死で抑えている。
そこに、たまたま休みだった父親が顔を出した。
「どうしたんだ」
「美織は額に怪我をしたんだぞ!」
父親の声にかぶさるように真琴が叫んだ。
「うちの子たちが何をしたって言うんですか。なにもしていないって言ってるじゃないですか」
母親は子供たちを庇うようにして答える。
「ちょっと待て。美織ちゃんって言ったか。先日、謝りに来た子じゃないのか」
「そうですよ。友樹が怪我させられて」
「ちょっかい出したからだろ。だけど今日のは許せないからな。美織は滑り台の下で、額から血を流してた。あたしが気付かなかったら、どうなってたと思うんだ!」
「うちの子達が関係してるんですか?」
父親は冷静に対応していた。
「公園の方から駆けだしてくるのを見てる。いつも美織を苛めてるのも見てるよ」
「まぁ、ひどい。うちの子達がそんなこと、するわけないじゃないですか。言いがかりもいいところですよ」
母親はヒステリックに言ったが、父親は、子供たちの目線に合わせてかがむと、尋ねた。
「宏樹、この人が言っていることは本当なのか?」
「あたしは嘘なんてついてないよ! 美織に何をしたんだ、答えろ!」
必死で抑えてはいるが、どうしても語気が強くなる。
それに宏樹がピクンと体を震わせた。
「本当のことを言いなさい、宏樹」
父親に言われて宏樹は俯いて、口を開いた。
「俺、じゃないよ。シュンが押したんだ。そしたら落っこちて……。本当だよ、俺、押してないよ。俺じゃないよ」
苛めていたのかという父親の問いに宏樹は、小さく頷いた。
「それで怪我の具合は?」
「わかんないよ。まだ病院だ!」
「なんてことを。本当に申し訳ない。なんと言ってお詫びしていいか……こんな子に育てた覚えはないんですが」
オロオロしている母親の横で父親が頭を下げた。
「あんたの言い訳なんか聞きたくない。美織の怪我は日が経てば治るだろ。けど心に受けた傷は一生引きずっていくんだ。それをあんた達は治せるのか! 母親がいないからとか勉強ができるからとか、そんなことで苛められて。それって美織はなにも悪いことしてないだろ。一生懸命やってるのに苛められて、美織はどうしていいかわからなくなってたんだぞ! 小学一年の子が、どんな思いでいたか、あんた達にわかるかよ!」
言葉を失くした両親だった。
その時、チャイムがなった。
そしてすぐにドアが開いた。
「真琴!」
今にも振り上げそうになっている真琴の腕を飛び込んできた佐伯が押さえた。
「すみません。真琴がご迷惑掛けました」
頭を下げた佐伯に、仰天している両親は、最初、誰なのかわからない様子だったが、佐伯が顔をあげるとそれが一度会っている佐伯だと気付いた。
「お嬢さんの怪我は?」
「大したことはありません」
落ち着いている佐伯に、真琴が激昂した。
「ふざけるな! 美織はずっと苦しんできたんだ。苦しめて苦しめて、こんな怪我までさせられて、なんでそんなに落ち着いてられんだよ!」
「真琴、落ち着け。とにかく帰ろう。美織が心配してる。どうもお騒がせしました」
「いや、あの、なんとお詫びしたらいいのか……」
「いえ、それについてはまた後日。それじゃ、失礼します」
佐伯は無理やり真琴を玄関から引っ張り出した。
「なんでセンセが謝るんだよ。悪いのはあいつらだろっ!」
真琴はバイクの横に立って、震えていた。
こんな風に激昂するのは、自分が苛めっ子をやっつけた時以来かもしれない。
それからはどこか冷めた目で物事を見るようになっていた。
けれどこの時、心の奥底に押し込めて、自分でさえも忘れていた感情が堤防を壊して流れ出した川のように勢いよく広がり、もう止めることができなくなっていた。
「いいから、帰るぞ」
真琴は拳をバイクのシートに叩き付けた。
「真琴、愛車だぞ、辞めとけ。ほら、行くぞ」
佐伯は慣れない手つきで、バイクを押し始めた。
「なんでそんなに冷静でいられるんだよ」
「ああ、玄関の外まで響いてたぞ。俺が言いたいこと全部おまえが言ってたしな」
「美織が怪我させられたんだぞ。今までずっと……」
「ああ、全部聞いたよ。なぜ美織が話したと思う? 真琴に悪い人になってほしくなかったそうだ。怒りに任せて殴りかかりでもしてたら、問題になっただろう。美織はそうなってほしくなかったんだ。俺もだ」
「なんだよ、それ」
バイクを押して歩く佐伯の後ろを冷静さを取り戻しつつあった真琴が着いていく。
「真琴、ありがとな。俺が言いたいこと全部言ってくれて、すっきりしたよ。それに美織が心配してるような事態にならなくてよかった。俺はもうそれだけでいい。あとは美織を安心させてやってくれ」
そんなことを言っている間に佐伯の家に着いた。
佐伯がバイクを駐車場に停めてくると玄関で佇んでいた真琴の頭に手を置いた。
「ほんとに、ありがとな」
時々、佐伯の手は大きく感じられる。
包み込むような優しいその手は、真琴にとって今までに感じたことのないものを伝えてくれた。
『不思議だよな。小さく見えたり、大きく見えたり、一人の人間なのに……』
真琴は、自分の中に生まれた不可思議な感情に戸惑っていた。