no.6
一週間以上、過ぎるのに、佐伯から美織の話はなかった。
まだ強情に話さないのか、苛めがなくなったのか、真琴は気になったが、佐伯に声を掛け損ねていた。
家を訪ねるのにしても、なんだか今までにない壁が出来てしまったようで、躊躇してしまう。
思うように行動できない苛立ちを紛らわそうと、真琴はバイクを走らせた。
行く宛てがあるわけでもない。
学校から帰って、既に夕方近くだったので、少し走ったら帰るつもりだった。
なんとなく走り続けて、随分遠くに来てしまっていた。
夜半から雨になるという天気予報も当たって、雨が落ちてくる。
Uターンを決めたが、雨脚は急速に強まり、あっという間に土砂降り状態。
はじめて雨の日に運転することになった真琴は、さすがに緊張していた。
暗くなってしまった上に、雨。
スピードを抑えて走る。
『この分じゃ家に着くのは、何時になるかわからないな』
そう思った時だった。
前方の右カーブを大きくはみ出して、対向車が現れる。
車のヘッドライトの眩しさに一瞬目が眩み、スリップ。
横倒しになって、濡れた路面を滑る。
衝撃を受けて、バイクは止まった。
ガードレールが目の前にあった。
その先は木々が茂っているものの、急傾斜でその下には川があったはずだ。
これでスピードが出ていたら、ガードレールを突き破って下まで落ちるところだった。
「ゲーッ。死ぬかと思った……」
真琴は体を起こす。
急ブレーキの音がして、テイルランプがゆっくり近づいてきた。
対向車が気付いて戻ってきたのだ。
「大丈夫ですか?」
運転席の窓が開いて、若い男が顔を出した。
「大丈夫です。心配入りませんから、行ってください」
男は躊躇しながらも、大丈夫と繰り返す真琴に、謝ってから去っていった。
テイルランプが遠ざかってから、真琴はフルフェイスのヘルメットを外した。
なまじ女と知られると過剰に心配されるか、女伊達らにと思われる。
どちらも真琴の嫌いなパターンだった。
街灯はあるものの、薄暗くてよかったと胸をなで下ろした。
けれど正直なところ、バイクの下になった右足はかなり痛む。右腕も。
路面を擦った側がダメージを受けていた。
それでも動かしてみると痛みはあるが動く。
骨がポッキリなんてことはなさそうだと思った真琴は、バイクを起こす。
「こいつ、一度コケると起こすの苦労するんだよなー。起こしてもらうのだけでも手伝わせるべきだった」
やっと起こしたバイクを見つめる。
街灯の下でよく見るとお気に入りのフルカウルに傷がついていた。
革のライダースーツも右側がかなり傷ついていた。
それでも肘や膝のクッションがあったお陰で大した怪我にもならなかったのだろう。
それでもショックだ。
「新品なんだぞ。買ったばっかなんだぞー」
しかしこんな何もないところで落ち込んでいる場合ではなかった。
雨はますます激しくなり、髪もびしょ濡れである。
遠出をするつもりもなかったし、雨の日に運転する勇気もなかったので、レインウェアを携帯していない。
このままでは体が冷え切ってしまう。
真琴は、ヘルメットを着けると、スピードを抑えて家路を走った。
途中、自動販売機を見つけて、ホットの缶コーヒーを買って温まる。
本当ならコンビニにでも入って暖かいものを買いたかったが、さすがに濡れ鼠では入れない。
暖かくなったのはつかの間で、雨脚が弱くなったところで走り出した。
『あの角を曲がればうちだ』
そう思って気が緩んだのか、角を曲がろうとして、今度は後輪が滑った。
「あつっ!」
慌てて着いた右足に激痛が走る。
「真琴!」
やっと立っている真琴の前に佐伯が姿を現した。
「なんでセンセがこんなとこにいるんだよ?」
「おまえのうちから電話があって。こんな時間なのに帰って来ないし、連絡も取れないって言うから」
「ああ、あっ、そっか……」
真琴は、バイクに乗るときは、ライダースーツを着て、ヒップバッグに財布やスマホを入れる。
もともとあまり頻繁にスマホを見るほうじゃないので、うっかりしていた。
一言連絡を入れておくべきだったと、後悔した。
家に入って、着替えてリビングに降りると心配顔の母親と佐伯が待っていた。
時計を見るともう12時を過ぎている。
「心配かけてすみませんしたっ」
真琴は、怒られる前に謝った。今回のことは、自分が悪い。
「まあ、無事に帰ってきてくれたんだから、よかったわ。心配掛けないでよね」
母親は、真琴の分のコーヒーを入れてくる。
「真琴、ちょっと……」
佐伯が、真琴の右腕を掴んだ。
「いてっ」
思わず声が出てしまう。
「やっぱり。おまえ、怪我してるな」
母親でさえ気づかなかったのに、佐伯は真琴が自分の右側を庇っているのに気付いていた。
「えっ、真琴?」
「いや、ちょっと滑っただけだよ」
と言っている間に、佐伯が真琴の袖を捲りあげた。
腕が赤くなっている。
「真琴ったら。ちょっと来なさい」
母親は救急箱を持って、真琴を連れて真琴の部屋に行った。
「だからバイクなんて危ないって言ったのよ」
「悪かったよ。今回のは自分の不注意。わかってるから」
「まったく、ほんとに……」
そう言いながら、母親は、真琴の右腕と右足にびっしりとシップを張った。
シップの匂いをぷんぷんさせながら、リビングに降りると、佐伯はコーヒーを飲んでいた。
「大丈夫なのか?」
「打撲だから。大したことない」
「心配掛けるな。ただでさえ、あんなでかいバイク乗ってんだから」
「悪かった。こんな時間まで、ほんとに。美織はひとり?」
「そりゃそうだ」
「ごめん。帰ってやって。美織にまで心配掛けたくない」
「ああ。おまえが無事帰ってきたから、帰るよ」
佐伯が席を立つと、
「ほんとに無事でよかった。体大事にしろよ。おまえはたったひとりのおまえなんだから」
そう言って真琴の頭に手を置いた。
真琴は、冷え切っていた体が一気に熱くなる。
頭の上にある佐伯の手がひどく大きく感じられた。
そこに母親が入ってきた。
微妙な空気を感じ取ってはいたが、母親は素知らぬ顔で大量のシップシートをごみ箱に捨てた。
「先生、本当にご迷惑おかけしました」
何度も頭を下げる母親に真琴も頭を下げて、佐伯が帰っていくのを見送った。
「なにもセンセに連絡することないだろっ」
リビングに戻った真琴は母親を咎めた。
よりによって怪我をして帰った時に佐伯がいるなんてと思う。
「だって、真琴の友達とか知らないし、今日はバイトの日じゃないし、それなのに11時過ぎても帰って来ないから」
真琴は学校のことも友達のことも母親には話さない。
基本的に会話自体が少なかった。
それでも小さな頃は、なにかあると食事の時などに話していたようには思う。
それも中学くらいから段々少なくなって、今では、ほとんど話さなくなった。
母親が真琴の友達を知らないのは当たり前だったのだ。
部屋に戻った真琴は、スマホを見た。
玲菜と大輔からラインが入っていた。
佐伯が連絡を取っていたのだろう。
心配していたらしいので、ラインの返信をしてから、だるい体を横にして、あっという間に眠ってしまった。
翌日、学校に行くと、玲菜が早速捲し立てる。
「心配したんだからね。連絡取れないし、なにしてたのよ。真琴のバカぁ」
「ごめん。ちょっとドライブ。雨降ってきちゃったりしてさ、帰り遅くなったんだ」
「なんか、お前、シップ臭くねー」
「くんくん、ほんと、匂う」
右足、右腕に目いっぱいシップをしているのだから、バレないわけがない。
「あっ、うん。ちとコケた。まあ、大したことないから」
「真琴、大きなバイク乗ってるからー」
「あれでコケたら、死ぬ覚悟いるんじゃねー」
「まぁね。でも雨降ってたし、暗くなってたから、スピード落としてたんで助かった」
「もぉ、真琴、やだー」
玲菜は半泣きで真琴に縋りついた。
「痛いんだよ、玲菜。右側全部……」
「あっ、ごめん。こっち側なんだ」
「まぁ、コケたんだから、そんくらいですんで良かったって考えるべきだよなー」
「ショックだよ。ニンジャに傷つけちゃったしなー」
「そっちかよ」
そうなのだ。
真琴にとって、自分が痛いのより、バイクに傷をつけたことの方がショックだった。
夏に購入して、大事に大事に乗っていたバイクである。
白と青の配色が気に入っていた。
購入するまでは、派手かなと思っていたが、購入してしまえば、もうすっかり虜になっていた。
購入した時、バイク屋の店長に「店の前でコケる人もいるから気をつけて」と言われたし、バイト先の店長からも「大事に乗れよ」と言われていた。
それなのにと思う。
昼休みには、体がだるくなっていた。
机に突っ伏した真琴に玲菜が心配顔で言う。
「真琴、ほんとに大丈夫?」
「なんかめっちゃだるいわー」
結局、保健室に行くことになった。
熱を測ってみれば38度もある。
すぐ帰るように言われた真琴は早退した。
家に帰って大人しくしていればいいのに、真琴は、バイト先には休む連絡を入れて、バイク屋に直行した。
「このくらい大したことないよ。大事に乗ってもらってバイクも嬉しいだろう。すぐに直してやるよ」
バイク屋の店長は、明るくそう言ったが、真琴にしたら、それは大きな傷だった。
体の傷も確かに痛い。
熱のせいでふらつきもする。
バイク屋から歩いて帰るのに、苦慮した。
「あーあ、ついてないな」
そんなぼやきが口をついて出る。
仕方ないからしばらくは大人しくしてるかぁと、思うのだった。