no.5
真琴は久々に佐伯の家に来ていた。
駐車場にバイクを停めたものの、フルヘルメットを脱がずにバイクに寄りかかった。
『来てはみたものの、なんて言ったらいいんだろうな』
このままでいいはずはない。
親子断絶なんて洒落にならない。
けれど、美織はあのころの自分と同じだ。
誰かに何か言われたからといって、そんな簡単には変われないだろう。
どうしたものかと考えていた。
それがどのくらいの時間だったかはわからない。
駐車場に見慣れた車が入ってきた。
出てきたのは、佐伯だ。
「お前のバイク、でかすぎだろ。校則違反にならないのか?」
「でかく見えるけど250だし」
「そーなのか」
真琴のバイクが入っているから、車を入れて、駐車場はぎりぎりだった。
「で、なに? 美織に会いに来たんだろ。上がれよ」
「あ、ああ」
家に上がると佐伯は黙って、キッチンに入り、インスタントコーヒーを入れて持ってきた。
美織の姿はない。
「美織は?」
「多分、自分の部屋だろう。あいつがここまで強情だとは思わなかったよ。何を聞いても話さない。ここしばらくは飯の時間以外は顔を合わせようとしないし、無視されてる」
「こりゃ、ほんとに親子断絶だな」
「簡単に言うなよ。こっちは深刻なんだから」
「そりゃそうだ。でもさ、ここまで気付いてやれなかったセンセも悪いんじゃね?」
「わかってるよ」
いつも飄々としている佐伯が、嘘のようだった。
「センセ、父親だろ?」
「そうさ。でも美織は何も言ってくれない。おまえにはなんでも話してるんだろ?」
「まあね」
沈黙が下りた。
これは本格的にまずい状態だと真琴は感じていた。
自分の時は、祖母の死がきっかけになって、苛めを撃退できたが、美織にそんな力があるとは思えない。
かといって、美織自身が話したくないと言っているのに、佐伯に話すのはまずいだろう。
「父親だから話しにくいってのもあるかもな」
「どういうことだよ」
「うーん、嫌な思いさせたくないってか、困らせたくないってか、なんつーのかな、まあ、要は言いにくいんだな」
「美織はまだ六歳だぞ」
「それって都合よくねー? まだ六歳って言ってながら、その娘一人にして、普通親がやってることさせて。この子は年の割にしっかりしてるとかさ。これってただの親の都合じゃねーの? 子供はそれに振りまわされてるんだ」
佐伯は言葉を失っていた。相当堪えたようだった。
大きめのクッションに胡坐をかいて、両手の中にあるマグカップに視線を落としたままだった。
そんな佐伯の姿に真琴は胸が痛くなる。
学校では飄々として、こんな姿は絶対に見せない。
今、目の前にいるのは、一人の父親で一人の男だった。
「どうしたらいい……」
佐伯の姿は、明かりのついていない部屋に忍び込み始めた夕陽に消えてしまいそうだった。
「普通、生徒にそーゆーこと聞くかねぇ」
真琴は溜め息をつき、決心したようにマグカップを置くと、二階の美織の部屋に行った。
「美織、あたしだよ、入れて」
ドアをノックして声を掛けると、カチャリと鍵が開く音がした。
鍵まで掛けてんのかよと真琴は思う。
部屋に入ると美織はうさぎのぬいぐるみを抱きしめて、ベッドに座っていた。
「パパ、悩んじゃってるぞ」
美織は唇をかみしめて何も言わない。
「話したくないって顔してるな。わからないでもないんだけどさぁ。実はさ、あたしも昔、苛められてた時があってさ」
何が悲しくて自分で昔なんて言わなくちゃならないんだと思いながらも、真琴は二人の関係をこのままにはしておけないと思った。
美織の横に腰掛ける。
美織は言葉なく真琴を見つめていた。
「なに?」
「ほんと?」
「そんなに信じられない? まっ、いいけどさ。あんたくらいの時に、苛められててさ。ばあちゃん死んじゃって、辛かった時、なんであたしばっかーっとか思って、苛めっ子を張り倒しちゃったんだ。そしたら苛められなくなった」
「私もお姉ちゃんみたいに強くなれる?」
「強くねぇ。多分、なれる。なんてったって、強情にパパにはなにも言わないんだからなぁ」
「……うん」
美織は真琴から視線を外して俯いてしまった。
「でもさ、パパ、かわいそうだぞ」
真琴は自分で言っておいて、その言葉に胸が痛くなった。
今、この家にいるのは教師の佐伯ではなく、一人の悩める父親なんだと改めて思う。
自分の中でそれが大きくなりつつあるのにも気づいた。
「ねぇ、お姉ちゃん、パパのこと、好き?」
「はぁ?」
いきなりのフリに真琴は、戸惑った。
「だってパパのこと気にしてるでしょ?」
『こいつ、ほんとに六歳かよ』
真琴は思わず身を引いてしまう。
「あのさ、なんでそうゆー話題になるわけ? 一応さ、あんたのパパはあたしの担任なわけ」
「じゃ、美織がママが欲しいってパパに誰かお嫁さんが来てもいいの?」
「そ、そりゃ、別にかまわないよ。あんたがママが欲しいって言うんなら。でもそんな簡単にママなんて見つからねーぞ」
「やっぱりヤなんでしょ」
美織は意味ありげな笑顔を浮かべて、真琴の袖を掴んだ。
「お姉ちゃんがママになってくれてもいいよ」
なんでそうなるかなぁ、と六歳児の思考についていけず、真琴は頭を抱えてしまった。
「ねぇ、お姉ちゃんはパパが好きなんでしょ?」
「あのなぁ、そういう話じゃないだろ。苛めをどうするかって話だ。パパと相談してこれからのこと考えないと」
「ヤダ」
美織は即答して、そっぽを向いた。
「わーた。話したくないのは、わかる。だけどさ、無視するのは辞めな。パパはなにも悪いことしてないだろ?」
美織はしばらく考えてから小さく頷いた。
「いい子だ。美織はいいことと悪いことと、ちゃんとわかる人間だよな」
美織は今度はしっかりと頷いた。
真琴は、美織の頭を撫でて、部屋を出た。
一階のリビングに戻ると、佐伯はマグカップを持ったまま、動かずにいたようだった。
「美織は?」
「今はまだ話したくないみたい。取りあえず見守ってあげるしかないんじゃない? 無視するのだけは辞めろって言っといたから。その間に信頼回復するんんだね、パパさん」
「ああ」
気のない返事に
「そう落ち込むなよ、センセ」
真琴は、佐伯の肩を叩いた。
「いてーな。おまえ、女だろうが」
「そーゆーあんたは、父親だろうが。さっさと夕食の用意でもして、美織と仲直りするんだね。あたしは帰る」
「帰るな」
へっ?
真琴は振り返った。
「二人じゃ、気まずい。飯、食ってけ」
「なんだよ、それ」
「……頼む」
全く情けないなぁ、と思う反面、普通生徒には見せないであろう姿を見せてくる佐伯が、真琴には堪らなくかわいいと思えたのだった。
キッチンに入って、リズミカルに包丁の音を響かせている佐伯の後ろ姿は、やはり父親だった。
ばあちゃんと重なる。
おばあちゃん子だった真琴にとって、母親は母親らしく、父親は父親らしくある姿をあまり見なかった。
そんなことを思って眺めていると
「いってぇー、ちくしょー」
佐伯の声が聞こえた。
「なにしてんだよ」
「指、切っちまった」
「まったく、なにやってんだか」
真琴は、救急箱を持ってくると、ティッシュで押さえていた佐伯の手をとる。
消毒をすませ、絆創膏を張る。
「ほら、できた」
親子して、手のかかる奴らだと真琴は顔をあげた。
その先にあったのは、真琴を見つめる佐伯の視線だった。一瞬、時が止まる。
「だーっ、めんどくせえ。あたしが作ったる。あんたは座ってな」
真琴は照れ隠しで喚くと、勝手に冷蔵庫を開けて中を確認して、料理に取り掛かる。
後ろのダイニングテーブルの椅子に佐伯が腰掛けて見ているのがわかる。
視線がこそばゆい。
それでもなんとか料理は出来上がった。
「すごいな、おまえ」
「大したもんだろう。料理もこなせるぞ」
つまみ食いをした佐伯の手をパシッと叩いて
「行儀の悪いことすんな」
「行儀に煩い母親みたいだぞ、おまえ」
「ふん。しつけの悪いガキみたいだよ、センセ。美織ーーー、飯出来たぞー。降りてこい!」
真琴は、大声を張り上げる。
なんだか照れくさい。
そこに美織が下りてきて、なぜかホッとする。
「美織、すごいぞ。今日はごちそうだ!」
「あんたがエバるな、あんたが!」
佐伯の背中を叩く。
「いてえな、叩くなよ」
「さあさあ、座って。あったかいうちに食べようぜ」
「お姉ちゃんもご飯食べてってくれるの?」
「ああ、あたしが作ったんだからな」
「やったー」
佐伯は、椅子に乗っている荷物を避けると、三人で夕食をとった。
美織は、すっかり元に戻っていた。
明るい笑顔で美味しいと食事をして、佐伯が何気ないセリフを言ってもそれに応えていた。
これなら大丈夫だと真琴は思った。
食事が終わって、佐伯が片づけものをしている間に風呂にお湯を入れる。
真琴は、コーヒーを飲みながら美織を相手にゲームをしていた。
佐伯が片づけものを終えた頃に、風呂のお湯が入り、
「美織、風呂、入ってこい」
「はーい」
元気よく美織は返事をしてリビングから出ていった。
「よかったな、センセ。これで無視されなくなったぞ」
「おまえのお陰だ。助かった」
佐伯は自分のマグカップを手にリビングに入ってきた。
「俺なぁ……」
と佐伯が語り始めた。
「美織の母親が死んだ時から悩んできたんだ。あいつの母親が死んだのは美織が一歳の頃で、男手ひとつでどうするかってさ」
そりゃ、そうだろう。仕事もあるし、男一人じゃ難しいだろうと真琴は頷いた。
「俺にはもう両親いなかったしな。母親の両親に相談したんだが、父親を辞めるなら引き取ると言われた」
「辞めるって?」
「父親として会いに来るなって。無関係になれってこと」
「信じらんねー!」
「もともと俺らの結婚に反対だったんでね。若かったしさ。でも俺だって、美織を手放す気はなかった。だからなんとしてでも男手ひとつで育ててやるって。まあ、俺のエゴだけどな。保育所に預けられたり、幼稚園では延長保育は当たり前で、周りは皆、母親がなんだかんだやってくれる中で、あいつはしてもらえなかったんだからな。それでも俺なりに美織のために頑張ってきたつもり……」
「もういいよ、センセ。男手ひとつでも美織は立派に育ってるじゃん。両親揃ってたって、問題起きるときは起きるんだしさ。いけねー、もうこんな時間、そろそろあたし帰るわ」
「ああ、悪い。こんな時間まで付き合わせて」
「いや、愚痴ならいくらでも聞くからさ。あんま、思い詰めんなよ。美織のことも時々様子見に来てやるからさ」
「なんだか情けねえな、俺」
「いいんじゃねーの、人間らしくて。あたしは、そのほうが好きだよ」
何気なく言った言葉に佐伯が何も言わず、じっと見つめ返してくるのに気付いて、真琴は今、自分が何を言ったのか恥ずかしくなった。
廊下に出るとちょうど風呂から上がった美織がいた。
「美織、もう遅いから帰るな。また来るから」
「うん。お姉ちゃん、待ってるからね」
「ありがとな、真琴」
「うん、じゃね」
外は静まり返っていた。
そんな中でバイクの音だけが響いていた。
一応、門限は十時。充分間に合う。
閑静な住宅街を走り抜けた。