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おいしい林檎  作者: 湖森姫綺
43/50

no.43

 翌日、もう大丈夫だから仕事に行ってと真琴が言うのに、母親は行かなかった。

 口では、そういったものの、正直、父親と二人きりになるのは、避けたかったので、安心していた。


 けれどその思いはあっという間にかき消された。

「今日は、佐伯先生、来るから。お父さんが呼んだのよ。話があるって」


 そう言って母親が部屋を出ていくと、静けさが降りてきた。

 真琴の中で不安が増幅していく。

 

 今まで何も言わなかった父親だが、我慢できなくなったのだろう。

 真琴は落ち着かなくなり、ベッドから出ると窓の外を眺めた。


 雲一つない晴天で、空は青く澄んでいた。

 こんなにいい天気なのに、これから嵐が来るのかと思うと、恐怖にも似た感覚が真琴を支配し始めた。


 真琴がどれだけそんな時が来るなと思っても、時間は過ぎていく。

 そして佐伯がやってきた。


 真琴も呼ばれる。

 今日は、リビングだった。

 和室では、真琴が座るのに辛いだろうと母親が言ったからだった。


 ソファに座った佐伯は、きちんとスーツを着て来ている。

 正面に座った父親もワイシャツ姿だった。


 真琴は部屋着のままだったが、着替えるのがつらいので、そのまま佐伯の横に座った。

 お茶を入れてきた母親が父親の隣に座ると、父親が口を開いた。


「わざわざ来てもらったのは、言わんでもわかるだろう」

 高圧的な父親の言い方に真琴は反感を抱いた。

 なんでこの人はこんな言い方しかできないんだろう。


「わかっています」

 佐伯が静かに答えた。


「では、話を聞こうじゃないか」

 父親は腕を組んでソファに深く座りなおした。

 その横で母親が不安そうな顔を真琴と佐伯に向けている。


「真琴さんにとって今大切な時期ですし、ご両親にお話しするのは、受験が終わってからにしようと思っていたんですが、そうもいかないようなので、お話しさせていただきます」


 佐伯は、一旦話を止めると、真琴のほうを見た。

 話すぞと目が言っている。


 ここまで来たら、黙っていても揉めるだけだとわかっていた。

 真琴は佐伯に頷いてみせた。


「単刀直入に言います。真琴さんとは付き合っています」

 母親が項垂れた。

 今まで感づいてはいたものの、そうはっきりさせられて、父親が黙っているはずはない。


「どういうことですかな。担任の君が生徒の真琴と付き合ってるっていうのは、おかしな話じゃないんですかね」


「はい。本来あるべきことじゃないことはわかっています。ですが真琴さんとは学校以外で会う機会がありまして。私の娘、美織と言いますが、苛められているのを真琴さんに助けてもらいました」


 佐伯はまっすぐ父親を見て話している。


「美織は私には、苛めにあっていたことを話そうとしませんでした。いくら聞いてもなかなか話してはくれなかった。ですが真琴さんには、なんでも話していたんです」


「その話は、聞いている」

 父親は、母親のほうに視線を送ってから佐伯に視線を戻した。

「君の娘を助けたからと言っても、真琴は君の生徒だろう」


「確かにその通りですが、真琴さんが美織を苛めから救ってくれました。私は父親として美織を守ってやれなかった。守ってくれたのは真琴さんだったんです。そんな風に真琴さんと関わっていくうちに気持ちが変わっていきました。気づいた時には、もう失えない存在になっていたんです」


「それでも君が教師なら、それを態度に出すべきじゃなかったんじゃないのかね」

 父親は、煙草に火をつけると佐伯から視線を外した。


「待ってよ」

 真琴は我慢できなくなって口を出した。


「真琴はいいから……」

 横で佐伯が話を遮ろうとしたが、真琴は「言わせて」と小さく呟き話し出した。


「美織を助けたのはあたしが同じ場面を体験してたからだよ。美織と同じ頃にあたしも苛められてた。あたしも家に帰ってひとりで悔し涙を流してた。美織を放ってはおけなかったから、センセの家に行くようになった。たまたま美織の父親がセンセだっただけだよ」


「真琴……」

 母親は寂しそうな顔を真琴に向けた。自分が気づいてやれなかった後悔から、言葉が出ない。


「妻は美織を産んで間もなく亡くなりました。一人で育てていて、美織の変化に気づいてやれなかった。それを真琴さんが救ってくれたんです。真琴さんのお陰で苛めもなくなりました。生徒としての真琴さんじゃなく、私と美織を本当の親子に戻してくれた真琴さんが私には、大切に思えた」

 

 父親は何も言わず、煙草を灰皿でもみ消している。


「教師という立場でありながら、それでも真琴さんの優しさが私にとって失えないものになっていたんです。ご両親に反対されるのは、わかっていますが、それでも私は真琴さんと付き合うのを辞めません。これだけは引けません」


「真琴は今受験生で、恋愛だなんだと言っている場合じゃないと思うがね」

「受験生かどうかってことは問題じゃないだろ」

 真琴は、父親を睨んで吐き捨てるように言った。


「大きな問題だ。受験に失敗してみろ。それがどれほどのものだったか思い知らされるぞ」


「真琴さんの受験に影響が出ないように、それは私もちゃんと考えています。真琴さんには希望の大学に受かってもらいたいですから」


 佐伯が優しい眼差しを真琴に向けた。

 沈黙が降りた。


 父親は、目の前にいる二人をそんな易々と認めるわけにはいかなかった。

 まだ真琴は高校生である。

 それなのに子持ちの担任と恋愛をしているなどと、気持ちで消化できるものではなかった。


 母親は、目を伏せ、諦めにも似た感情を抱いていた。

 真琴はたまたま好きになったのが担任だっただけなのだ。


 いつの間にか親子の間に壁を作っていた真琴がその壁を崩し始めたのは、佐伯のお陰なのだと感じ取っていたのである。

 自分も恋愛をして変わったのは高校の頃なのだと思い出していた。


 佐伯は、両親の理解を得るのは難しいだろうと思っていた。

 けれど真琴と付き合っていたことが明らかになったせいで、真琴と両親の関係がこれ以上悪いものになっては困ると思った。


 父親が言うように受験で大事な時期である。

 落ち着いて勉強のできる環境が必要なのだ。


 真琴は開き直っていた。

 周りで恋愛をしている人たちはいくらでもいる。


 自分の場合、たまたま好きになったのが教師だっただけだ。

 その愛を失う怖さは知っている。

 二度と手放す気はない。


 両親が何と言おうと佐伯と付き合っていく。

 真琴にとって今は、両親よりも佐伯や美織を失うことのほうが恐ろしいのだった。


 沈黙を破ったのは、母親だった。


「私は真琴が好きになった人ならいいと思いますよ。真琴はいい加減な気持ちで人を好きになったりするような子じゃないです。真琴が佐伯先生と付き合っていくことが気持ちを穏やかにさせてくれるのであれば、そのほうがいいと思える。ここで無理やり別れさせても逆に受験に身が入らないようなことになるんじゃないですか?」


 母親は、父親に向けて言葉を紡いだ。

 真琴の笑顔が蘇ってくる。

 真琴に笑顔をくれる佐伯から、切り離したりしてはダメなのだと思えた。


「教師となんて、そんな簡単に認められるかっ!」

「今、すぐに認めてくださいとは言いません。真琴さんの受験に差しさわりがないように、ご両親との関係を悪くしたくありません。ですが別れるつもりもありません」


 佐伯はまっすぐ父親に視線を向けている。

 父親も佐伯を睨み付けたまま、手にしていた湯呑をごとりとテーブルの上に置いた。


「認めんと言ったら認めん!」

「わかりました」

 佐伯は、そういうと真琴に向き直った。


「真琴、このまま家で落ち着いて勉強できるか?」

「えっ?」


「お母さんは理解してくれているけど、お父さんには理解してもらえない。そんな中でいいか? それともうちに来るか?」

「えっ?」

 真琴も戸惑っている。


「本当は、真琴には両親との関係を修復してもらって、大学に受かってからご両親に申し込みに来ようと思ってた。順番が逆になってしまったから。今、真琴に一番必要なのは、落ち着いて勉強ができる環境だろう。真琴が一番落ち着ける環境がどこなのか、それを考えてもらいたい」


「あたしは……」

「ずいぶん無茶なことを言うな」

 父親が声を荒らげた。


「確かに問題になっているのは、私が真琴さんと付き合っているということですが、今、この状況で真琴さんに一番必要なのは、落ち着いて勉強ができるかどうかです。ご両親と気まずいままで落ち着かなく勉強ができないのであれば、無理を承知で私のところに連れていきます」


 佐伯は、父親がどんな言葉を投げつけようとも、諦めることはしなかった。

 自分がなんと言われようと真琴を守る態勢を崩さない。


 真琴はそんな佐伯の傍で不安だった気持ちがやんわりと解けていくのを感じていた。

 守られているという安心感をはじめて知ったような心地だった。


「そんなリスクの大きいことができるはずがあるか!」

「リスクが大きくても、真琴さんを優先します」


「馬鹿なことを!」

 そしてまた沈黙が降りた。


 結局、父親との話は膠着状態のまま、進まなかった。佐伯と真琴は、リビングを出た。


「センセ、今日は強気だね」

「真琴を守ると約束したから。どんな状況でも一番に真琴のことを考えるよ。どうする、うちにくるか?」


「本気?」

「ああ。本気だ」

 真琴はクスリと笑った。


「大丈夫だよ、センセ。父さんはどうせ赴任先に戻るし、毎日顔を会わせてるわけじゃないから」

「勉強できそうか?」


「心配いらないよ。センセのために受かってみせるから」

「俺のためじゃなくお前のためだぞ」


「じゃ、二人のために」

「そうだな」


 佐伯はまた来ると言って帰っていった。

 真琴は、話の進展はなかったものの、暖かなものを感じていた。

 大きな温もりに包まれているような、そんな心地だった。

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