no.41
翌日の夕方には、真琴は集中治療室から普通病棟の個室に移された。
救急患者が入って集中治療室が満杯になったからだった。
まだ検査結果の出ない真琴は、ナースステーションの前の病室だ。
昼間やってきた両親が一度家に帰って夕方またやってきた。
集中治療室では使えなかったスマホが個室でなら使えるというので、持ってきてもらったのだ。
ついでに参考書類も。
時間はたっぷりあるのだから、勉強しない手はない。
「頭の中身は大丈夫だったぞ。でもまだ体が本調子じゃないんだから、これはあまり根詰めてやらないように」
夕方、医者がやってきて、真琴の手にあった参考書をさして言った。
「ほら、お医者様もそう言ってるんだから、真琴、病院にいる間は、ゆっくり休んで」
母親は、参考書を取り上げた。
本当はそんなにむきになって勉強したいわけじゃない。
両親がいて、なにもしゃべりたくないから、参考書を見ているフリをしていただけだった。
間が持たないのである。
父親は、いてもむっすりとして椅子に掛けているだけだし、母親は何をしていいのかわからず、立ったり座ったりしている。
それではちっとも落ち着かない。
医者が病室を出て行ったあと、
「もう大丈夫だから、帰ってもいいよ。ここにいても何もすることないし。頭も大丈夫だって言ってたしさ」
「そ、そうね。また明日来るから」
母親は、黙ってなにも言わない父親の腕をとって、病室を出て行った。
両親が佐伯とのことを気にしているのは、わかっていた。
それなのに何も言わない事が真琴にとっては不気味で、不安は募るばかりだった。
翌日は日曜で、佐伯が美織を連れて見舞いに来てくれた。
「美織がどうしても真琴に会いたいと言うんでね。ご両親がいたら、帰ろうと思ったんだけど、ナースステーションで聞いたら、誰も来ていないって言うから」
「うん、まだ来てないよ」
「お姉ちゃん、痛い?」
「大丈夫だ。足がちょっとね。でもすぐに治るよ。検査の結果も大したことないみたいだから、このパンパンに腫れた足が治れば退院できると思うんだ」
佐伯は大きく溜め息を漏らした。美織は、真琴の傍によって、涙ぐんでいる。
「心配かけて悪かったな、美織」
真琴は手を伸ばして美織の頭を抱きしめた。
小刻みに震えて泣く美織。抱きしめながら背中をさすってやった。
「本当にごめんな」
真琴がそういった時だった。
病室のドアが開いた。
真琴は、美織を抱きしめたまま、視線をドアに向ける。
両親が立っていた。
なんてタイミングが悪いんだ。
そう思うことしかできなかった。
黙って入ってきた両親に、佐伯が黙って頭を下げる。
空気が妙に張り詰めた。
母親は真琴の着替えなどを整理した後、黙って何も言わない父親を引っ張って、病室を出て行った。
「なんかやっぱりまずかったかな」
佐伯が頭をかきながら真琴を見つめる。
「いや、もう別にいいよ」
真琴は感づいているであろう両親に今更、隠しても無駄だろうと思った。
「美織を連れてきたのも変に思うだろうな」
「母さんも父さんもなにも言ってこないんだ。感づいてはいると思うんだけどな」
「そっか。俺は嫌われたな。こりゃ、前途多難ってことか。真琴に辛い思いはさせたくない。なにかあったら、一人で抱えずに俺に言うんだぞ」
「わかった。ねえ、センセ、その林檎、とってくれる?」
真琴は棚の上にあった林檎を指した。
「食べるのか? 切ってやるか?」
「いや、いい。そのまま食べるから」
真琴はシャリシャリと音を立てて、林檎を二口ほど食べた。
「はー、うまくないんだよな、これ」
「そっか。香りもいいし、艶もいいけどな」
「林檎は好きで毎日食べるんだけど……うまい林檎が食べてー」
真琴はそういいつつも林檎を齧っていた。
しばらくして母親だけが戻ってきた。
売店でプリンを買ってきて
「美織ちゃんだったわよね。これ、食べて」
そう差し出されたプリンを受け取って美織は、佐伯の顔と真琴の顔を交互に見る。
美織は美織なりにこの不穏な空気を感じ取っていたのである。
冷蔵庫に買ってきたものを入れながら母親が
「あら、飲み物、これじゃ足りないかしら」
そんなことを言っている。
「美織が買ってくる」
美織は手にしたプリンを棚に乗せると、母親を見た。
「大丈夫?」
「ひとりで行けるから」
「じゃ、お願いしようかな」
そう言って、母親はお金を美織に渡す。
美織はそれを握って病室を出た。
病院に入ってすぐのところに売店があったのは、見ていた。
エレベーターで一階に下りて、売店に行く。
お姉ちゃんは、飲み物何がいいのかなと売店の棚に並んだジュース類をしばらく眺めてから、家に来たとき飲んでいたりした飲み物を三本買って、売店を出た。
売店の横はガラス張りになっていて、外には公園のように木々が植えられ、ベンチなども置かれていた。
その一つに真琴の父親が座っているのが見えた。
美織は手にした袋を見つめてから、思い切って、外に出てみた。
美織は、真琴の父親の前まで来たが、なんと言って声をかけたらいいのかわからなかった。
父親は、目の前にいる美織が、今さっき母親から話を聞いた佐伯の娘であることに気づくと、
「座りなさい」
そう言って、自分の座ったベンチの横を手で示した。
母親の説明では、真琴がたまたま美織が苛められているのを助けて、それから真琴は、佐伯の家に行くようになっていたという話だった。
教師と生徒としてだけでない関係が真琴と佐伯の間にあるのだと知らされて、ショックを受けていた。
美織は買ってきたジュースを抱え込みながら、真琴の父親の横に座った。
「おじさんは、美織のパパを嫌いなの?」
父親は見上げてくる美織に何も答えられない。
母親の説明では、美織が真琴をかなり頼りにしていたらしいということだった。
もちろん、母親の感で佐伯と真琴の間に教師と生徒以上の感情があることはわかっていたが、それは聞かされていない。
「美織のパパ、悪い人じゃないよ。パパは優しいし、お姉ちゃんも優しい。美織、お姉ちゃんがパパのお嫁さんになってくれたらいいなって思ってる」
父親はその言葉に美織を見つめた。
「ダメなの?」
「そんなことは……」
どちらとも取れない言葉を父親が返す。
「……美織がいるから、ダメなの? 美織はパパとお姉ちゃんが結婚するといいなって思ってる。でも美織がいるからダメなら……」
美織は、両手に抱えた袋を持った手に力を入れた。
何も言わない父親にどうしていいのかわからない。
「三人で一緒にいるととっても楽しいんだよ。三人でいるといつもニコニコできるの。だからお姉ちゃんが美織のうちに来てくれたら、すっごく楽しい家族になるのになって……おじさんは、それはダメって思ってるの? パパが嫌い? 美織も嫌い?」
美織は下を向いたまま、涙ぐんでいる。
父親は、小さく肩を縮めて話す美織に、小さなころの真琴を重ねてみていた。
このころの真琴は、父親から距離を置き始めていたように思う。
こんな風に自分の思っていることを素直に話してはくれなかった。
「そんな簡単なことじゃないんだよ」
父親は、両手を組んで膝の上に置いて、遠くを見つめた。
「パパとお姉ちゃんが結婚できないのは、美織のせい? 美織がいるから……」
美織は、必死で泣きそうなのを我慢している。
「パパを嫌いにならないで。美織がいけないなら、美織、よそんちの子になってもいい。パパとお姉ちゃんが幸せになるなら、それでもいい。だからおじさん、パパを嫌いにならないで」
美織は我慢していた涙を流しながら、父親の腕にしがみついた。
父親は、そんな必死な美織に戸惑っていた。
「いいから。君はそんなこと気にしなくていい。これは大人の問題だよ。君がなにをどうしたからって、変わるものじゃない」
「美織は、お姉ちゃんと家族になりたい。毎日ニコニコして、楽しく……家族になりたいだけなの」
美織はそういうと走って行ってしまった。
一人残された父親は、目の前を歩いている家族に視線が止まった。
母親が車いすに乗っている。
その車いすを押す父親、車いすの横には二人の小さな子供、みんな屈託のない笑顔を見せている。
なにやら子供の一人が言って、爆笑している。
あんな姿が理想の家族なんだろうな。
真琴は、家では笑ったりはしない。
笑顔をどれだけ長いこと見ていないかわからないくらい。
でも佐伯の家では、笑っているのか。
家にいるより佐伯の家にいるときのほうが真琴は笑顔を見せられるのだろうか。
どんなふうに笑うのだろう。
真琴の笑顔を見たいと切望せずにはいられなくなった。
病室に戻ってきた美織が泣き顔だったので、真琴は心配になって
「どうした、迷ったのか?」
「ううん」
美織は、首を振り、ジュースを差し出した。
「ありがと、美織。助かったよ」
真琴はそう言って美織の頭を撫でた。
そんな姿を見ていた母親は、真琴が美織をどれほど大切にしているのか、思い知らされた。
「長居してはなんですから、そろそろ帰ります」
会話もなく不自然でいた真琴と母親と佐伯だったが、美織が戻ってきたのをいいタイミングだというように佐伯は美織を連れて、帰っていった。
しばらくして父親が病室に戻ってきた。
電車の時間もあるからと言って荷物を持つと赴任先に戻っていった。
「真琴……佐伯先生とのこと……」
「今は何も言いたくないよ」
「真琴……」
母親が切り出そうとしたのを真琴は遮って顔を背けてしまった。
母親は会話を続けるのを諦めて、また明日来ると言って、病室を出て行った。
真琴は、窓の外に広がる空に視線を向けた。
もう隠してはおけないのだろう。
佐伯とのことは反対されるのは明らかだ。
けれどどんなに反対されたとしてもこれだけは引けないと思うのだった。




