no.31
車が動き出すと、狭い空間に二人なのだと思い知らされる。
けれど今はそんなことを考えている場合ではない。
商店街の入り口だから、まだ人通りはあるし、危険なこともないだろう。
それでも美織は、暮れなずむ知らない場所で一人、心細いに違いない。
車はあっという間に商店街の近くに来た。
「商店街はこの時間帯、通行止めになってるから入れないよ。どこか手頃なところに車停めて」
「わかった」
佐伯は視線を巡らし、小さな空き地を見つけて、そこに車を停めた。
そこからすぐにお稲荷さんだった。
美織は一人ぽつんとお稲荷さんの前に立っていた。
「美織!」
「お姉ちゃん、パパ……ご、ごめんなさい、ごめんな、さい……」
真琴は美織を抱きしめた。
その腕の中で美織は散々泣いた。
その間、真琴も佐伯も何も言わず、美織が落ち着くのを待ってやった。
「お姉ちゃんに会いたくて。美織、お姉ちゃんが美織とパパを嫌いになっちゃったら嫌で……でも、どうやったら好きでいてもらえるのか、わからなくて……」
「バカだな。美織のこと嫌いになんかなってないよ」
「でもお姉ちゃん、来なくなっちゃったし。嫌いになっちゃったのかなって。だからごめんなさいしようと思って」
佐伯が大きく溜め息を着いた。
「そうだな。まずはごめんなさいからだったな」
そう言って、美織の頭を撫でると、真琴に向き直った。
「真琴、すまなかった。俺が悪かった。謝るよ。許してくれ」
「ちょ、ちょっとなんなんだよ、いきなり」
真琴は、いきなりの成り行きについて行けない。
美織も二人を見上げてなんのことやらわからない。
「許してくれるまで謝る。何度でも。俺がおまえを傷つけた。おまえを守ってやれなかった。おまえが怪我をさせられた時、生きた心地もしなかった。あんな思いは二度とごめんだ。だから謝る。すまなかった」
佐伯は、頭を深々と下げた。
「美織もお姉ちゃんにごめんなさいする。ごめんなさい」
美織まで頭を下げてくる。
「ちょーっと、待った。もういいから、頭、上げてくれよ」
まだ人通りのある商店街の入り口だ。人の視線が痛いほど集まってくる。
「頼むから、こんなところで辞めてくれよ」
「許してくれるまで頭は上げられない。ごめん、真琴」
「ごめんなさい、お姉ちゃん」
美織は訳がわからないまま、謝っている。
「わーった、わーったから、もう辞めてくれー」
膝ががくがくしてきた。
真琴は、悲鳴にも似た声を上げていた。
「許してくれるのか、真琴?」
「許すも許さないも、ないじゃん。なんなんだよ。とにかく車、戻ろうよ。真美ちゃんだったけ? そこんちの人も心配してんじゃん」
「ああ、そうだった」
佐伯は慌てて、スマホを出すと、連絡を入れる。
すぐにまた連れて行くと話した。
それでやっと車に戻れたのだ。
真琴と美織は後部座席に座った。
「美織、一人でウロウロするのは、もう辞めてくれよ。心配するだろ?」
「ごめんなさい」
美織は俯いた。
「もういい。心配かけたのは、こっちだしな。あたしも受験生なんだ。美織、わかるか? 大学に行くのに勉強しなくちゃならないんだぞ」
「一杯勉強するの?」
「そう。だから忙しかったんだ。これからもまだ大学に合格するまでは、忙しいんだよ」
「そうなんだ。美織、お姉ちゃんがパパと喧嘩して、パパも美織も嫌いになっちゃったんだと思って」
それは、一理あるか。
真琴は苦笑いした。
ちらっとバックミラー越しに佐伯がこちらに視線を移した。
視線が合ったが、佐伯がすぐに正面へと視線を移してしまった。
「美織、また真美ちゃんちに行って大丈夫か? パパもあたしも学校で勉強があるんだ。あと二日」
「うん。大丈夫」
「よし。いい子だ」
それからまっすぐ真美ちゃんの家に向かう。
真琴は隠れるようにして後部座席で体をうずめ、佐伯が美織を連れて、謝りに行った。
すぐに戻ってきた佐伯は、しばらく走ってから、真琴に助手席に移るよう言った。
それから秋篠公園の駐車場に車を停める。
「戻らなくて大丈夫なのかよ」
「もう少しくらい大丈夫だろう」
そう言って、佐伯はまっすぐ真琴を見つめてきた。
「本当にすまなかった。俺は、おまえを守ると言っておきながら、守ってやれなかった」
駐車場を照らす街灯の明かりをぼんやり眺めながら、真琴は言葉を探した。
なにがどうしてこんな風になってしまったのか。
逃げ出したのは自分だ。
「あたしのほうこそ、ごめん。逃げたのはあたしだよな」
「いや、そんな状況を作ったのは俺だし。それだけおまえを苦しめたってことだから。守ると言って苦しめた」
「センセは守ろうとしてくれてたよ。それなのに私は怖くなって逃げた」
真琴の中で、佐伯は失えない存在になっていた。
それでもまだ今なら傷は小さくて済むのじゃないかと思っていた。
失くして生きられないほどの存在になってしまったら、そうなってから失ってしまったら、自分は壊れてしまう。
それが怖かった。
佐伯もまた同じだった。
真琴を失えない存在として思いながらも、守りきれない自分の立場が歯がゆかった。
もしこれが同じ高校生同士なら、もっと正面からぶつかり合っていける。
真琴にとって教師である自分で本当にいいのか。
自分はこれからも真琴を守っていけるのか。
一度、大切なものを失っている経験もあり、そんな思いは二度としたくないと思っていた。
今ならまだ引き返せるのではないかと。
真琴には真琴にあった誰かがいるのではないかと。
二人は、黙ったまま、誰もいない駐車場の街灯を見つめていた。
お互いがお互いを思い、それを失う怖さから逃げていたことを再確認していたのだった。
「もう失えない存在になっていたのにな。今なら間に合うかもなんて、ずるい考えだよな」
「あたしも同じ……なにもいらないって思ってきた。なのにいつの間にかセンセはあたしにとって失くせない存在になってた。そのセンセを失うかもしれないって思ったら、怖くなった。それで逃げたんだよ。センセが離れていく前に自分から逃げたの」
真琴は涙が溢れてくるのを止められなかった。
こんなに自分は弱いのか。
今までにこんなに不安になったことなどなかった。
「真琴……」
佐伯は、真琴を抱きしめた。細い肩が震えている。
「頼りないかもしれないけど、また傍にいてくれないか。やっぱりもう失えない存在なんだ。おまえを失うことなんて考えられないんだ」
「……でも、私はそんな強くないよ。また逃げるかもしれない……」
「そしたら、強引にでもおまえをつかまえる。もう離せないから」
そう言って佐伯は腕に力を込めた。
「あたしでいいのか?」
「おまえじゃなきゃ、だめなんだ」
「あたしもセンセじゃなきゃ……」
二人は唇を重ねた。
静かな夜だった。
誰もいない駐車場の車の中、二人は、抱きしめあっていた。
離れていた間を取り戻そうとするかのように、お互いに温もりを感じていたかった。
「そろそろ戻るか。あんまり遅いと不振がられるしな」
二人は、学校の宿泊所に戻った。一度、職員室に行った。
「点滴していたものですから、時間が遅くなりました。検査の結果、特に問題ないそうで、本人ももう痛くないと言いますし」
「大丈夫なのかね?」
学年主任が真琴の様子を見つめる。
「大丈夫です」
真琴は、しっかり答えた。
もともと腹など痛くないのだから。
痛かったのは、心だ。
それももう治った。
「無理はしないほうがいいんじゃないかね?」
「本人がどうしてもと言いますし、あと二日ですから、夜はあまり無理しないように本人にも体調管理をさせますから」
「そうですか。まあ、折角の貴重な機会ですからね。無駄にしないように体に無理のない程度で、がんばってください」
「はい」
二人はそこで職員室を出た。
宿泊所に行く渡り廊下の手前で、佐伯が真琴を抱きしめた。
「センセ、学校だよ」
「誰も見ちゃいないよ。真琴、ほんとうに俺でいいんだな?」
佐伯は、真琴の目線に合わせて屈むとまっすぐ見つめて言った。
「センセもあたしでいいんだな?」
二人ともしっかり頷いた。佐伯が手を出した。
「握手。改めて、よろしく」
「ああ。こちらこそ、よろしく」
二人は、心からの笑顔を取り戻していた。
握り合った手からは、お互いの思いが伝わってきた。
もう離すことなどできない手だ。
コホン。
誰かのわざとらしい咳払いに気付いて、慌てて二人は離れた。
「あっ、高野先生」
「今からお風呂。ところで仲直りできましたの?」
「はい?」
「誤魔化してもダメですわよ。真琴さん、あなたお風呂まだでしょ。一緒に入っちゃいましょ」
「あっ、は、はい」
入浴時間はとうに過ぎている。
でも高野がそう言ってくれたので、助かった。
佐伯とそこで別れて、真琴は慌てて部屋に戻り、風呂の用意をして、浴室に行った。
高野は既に浴室に入っているようだった。
急いで着ているものを脱いで入る。
「よかったわね、元に戻れて」
「はい」
「ここしばらく様子がおかしかったのは知っていたけど、こじれなければいいと思っていたのよ」
「ご心配かけてすみません」
真琴は恥ずかしくなって、お湯の中にぶくぶくと口元まで入ってしまった。
「あなた達の場合、高校生同士の一時的な恋愛とかでもないし、リスクを承知で付き合ってたんだもの。それでこじれでもしたら、元に戻すのは大変だわよ」
「美織のお陰です」
「お嬢さんよね。引き合わせがお嬢さんなら、仲直りのきっかけもお嬢さんなわけね。大切にしないと」
「はい」
「この私が手を引いてあげたんだから、あなたのその手の中にあるものが、どれほど大きなものか、ちゃんと覚えておいて。もう離さないでちょうだいよ。それじゃ、先に上がるわね」
高野はそう言って先に風呂からあがってしまった。
真琴は、両手でお湯をすくいあげた。
溢れたお湯が手から落ちると、その両手の中には、少ないけれど、お湯が残る。
本当に大切なのは、その残った僅かなものなのだ。
それをも失ってしまったら、何も残らない。
大切に大切に両手で包んでいくしかないのだ。
どんなことがあっても。
手を離しちゃいけない。
真琴は、その手の中にあるお湯を見つめるのだった。




