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おいしい林檎  作者: 湖森姫綺
28/50

no.28

 一学期も終業式になった。

 これでしばらく佐伯の顔を見ずにすむのだと真琴は、複雑な思いを抱く。


 校内だけでも顔を見ていたいという思いがまだ心の中に芽生えるが、それを必死で打ち消している自分があった。

 未だに揺れる心にどうすることもできない。


 そんな様子は、玲菜や大輔にも伝わってきていた。

 式も終わり、ホームルームも終わってあとは帰るだけだ。


「ねえ、真琴、少しこのまま待ってて」

「なに?」


「ちょっと待ってろや。俺ら用事済ませてくるから」

 帰り支度をしていた真琴を残して二人は職員室に向かった。


 佐伯に話があると言って、指導室に連れて行く。

 閉め切られた指導室は、暑くてたまらない。佐伯は、窓を開け放った。


「何の用だ」

「真琴のこと、このままでいいのかよ」


「あの子と付き合うことにでもしたの?」

 玲菜は嫌味を言った。


「残念だな。あいつはもう何もしてこないよ」

「あいつとのことは終わったのか?」


「終わらせた」

 そう答えて、佐伯は、両腕を組んで窓際に立った。


「なら、真琴のこと、なんとかしろよ」

「先生もまだ真琴のこと好きだよね? 真琴だって、忘れてない。苦しんでる。このままでいいわけない」


 佐伯は答えない。

 黙ったまま動かない。


「黙ってないでなんとか言えよ。いつもそうだ。さも大人でございますって取り澄ましやがって、頭にくんだよな、そーゆーの。ざけんなよ!」


 大輔が振り上げた腕を玲菜が押さえた。

「大輔、ダメ!」

「こんな奴、一発殴らなきゃ、収まらねーよ」


「そんなことしたって……先生、真琴を後悔させないで。真琴は自分から絶対に動かないよ。無理にでも、なんでもいいから、真琴を取り戻してよ。真琴の心、これ以上壊さないで。助けてあげてよ」


 玲菜は流れ出した涙を拭いながら話した。


「真琴はね、先生のこと未だに好きで仕方ないんだよ。真琴は、大切だから失えないって何度も言ってた。それを失ったら、真琴を支えるものがなにもなくなっちゃう。真琴を支えられるのは、先生しかいないんだよ。他の誰でもない、先生だけなんだよ」


「あんただって、失えないんだろ? なら真琴をちゃんと捕まえて離すなよ。男だろ。あんたが動かなきゃ、ほんとにこのまま真琴を失うぞ。それでもいいのか?」


「嫌だね」

 それまで黙っていた佐伯が鋭い視線を大輔に向けて言った。


「真琴は教室にいる。行けよ」

 佐伯は、立ち去り際に大輔の肩に手を置いた。

 二人は指導室を出ていく佐伯を見送った。


「これで大丈夫だよね、大輔」

「大丈夫だろ。二人とも気持ちは同じなんだ」


「真琴には笑っていてもらいたい」

「ああ。しかしほんと手のかかる二人だよな」

 涙でくしゃくしゃになった玲菜の顔を大輔は、抱きしめていた。。


 指導室を出た佐伯は、教室に向かった。

 玲菜と大輔のお膳立てで何度助けられただろう。

 あの二人がいなかったら、真琴とのこともうまくはいかなかったかもしれない。


 今、こんな状態のまま、真琴を失うことなどできないと思っていた。

 けれど一度逃げた真琴をどうやって取り戻したらいいのか、佐伯は、その手段が思いつかない。


 それでもここで動かなければ、このまま夏休みに入ってしまう。

 顔を合わせない時間が長くなればなるほど、真琴が遠くに行ってしまいそうで堪らなかったのである。


「真琴」

 教室には、真琴しかいなかった。突然現れた佐伯に真琴は動揺した。


「真琴、来い」

 腕を掴まれて、立たされる。


 真琴は慌てて鞄を掴んだ。

 振り切って帰ろう、そう思ったけれど、言葉がでない。


 そんな真琴を引っ張って佐伯は真琴の下駄箱で靴に履き替えさせると、そのまま外に出て、職員棟の後ろに停めてある車へと来た。


「乗って待っていろ。絶対に動くな!」

 佐伯は鍵を掛けると、去って行った。


『センセ、バカじゃね。鍵かけたって、中から開けられんじゃん』

 鞄を抱えて、真琴は外を眺めていた。


 こんなことして、皆、何考えてんだよ。

 今更じゃないか……。


 佐伯はすぐに戻ってきた。

 荷物を後部座席に放り込むと、黙って車を出した。


 真琴は下を向いて、人に見られても自分だとわからないようにしていた。

 今は、そのくらいしか出来ない。


 佐伯は何をしているんだ。

 真琴をこんな風に堂々と乗せて、学校から出るなんて自殺行為に等しいだろう。

 

 町中を抜けた頃、やっと真琴は顔を上げた。

 車窓を見ていて、あの海に向かっているのだろうとわかった。


「センセ、停めてよ。降ろして」

「ダメだ」


「降ろせよ!」

「黙って乗ってろ!」


 いつになく強い声音で佐伯は叫んでいた。

 真琴は、もうなにも言わなかった。


 言っても聞く耳を持たないのだと諦めた。

 鞄を抱きしめる腕に力が入っていた。


 自分で手放したものの大きさを知っている。

 何もなかったモノクロの景色に色彩を与えてくれたのは、佐伯だった。

 

 その佐伯を自分から手放したのだ。

 車窓の流れる景色を眺めながら、涙がこみ上げてくるのを耐えた。


 約一時間走って、あの海に着いた。

 今は海水浴客で賑わっている。

 そんな駐車場でやっと停められるスペースを見つけて、佐伯は車を停めた。


「来い」

 そう言って、真琴の腕を掴み、車から引きずり下ろす。

 痛いほどの力である。


「嫌だ」

「いいから、来い」


 行きたくなかった。

 佐伯を手放したあの場所には今、悲しい思い出しかない。


 それでも無理やりに佐伯は、真琴をあの堤防に連れて行くと、座らせた。

 

 浜辺では、親子連れが波打ち際で戯れ、カップルが海の中で手を繋ぎ、色とりどりのパラソルが砂浜には立っていた。


 真琴の目には、それらはまたモノクロに見える。

 打ち寄せては返す波の音と海水浴客の賑やかな声が聞こえてくる。


 あの日のあの夜とは、全然違った海。

 それでも同じ場所なのだ。


 佐伯はなにも言わず、ただ燦々と降り注ぐ太陽に輝く海を見つめている。

 ただ座っているだけでも汗が流れるくらい太陽の日差しは強かった。


 痺れを切らした真琴が口を開いた。

「なんなんだよ。なんの用もないんなら帰るぞ」


 帰ると言ってもここまで車で連れてこられたのだから、一人では帰れないのだが、それでも歩いたって帰ってやると思った。


「いいから、座ってろ」

 それ以外、佐伯は言わない。


 ただ座っている二人の前で、時間は流れていく。

 人が動き、パラパラと帰り支度をはじめ、海に出ている人が減り……いつの間にか、賑わっていた浜辺にはパラソル一つなくなっていた。


 ぽつぽつと残っていたカップルも姿を消す。

 海が夕暮れから、夜の闇に変わろうとしていた。


「いい加減にしろよ! 尻が痛い」

「……海、綺麗だな……」


「……!」

 海を見つめたまま、呟く佐伯に真琴は我慢の限界だった。


「帰る。無駄に時間を使えるほど暇じゃない」

 真琴が立ちあがった。


「俺といるのは、無駄な時間か?」

 佐伯は静かに問うた。


「ああ、無駄だよ! なんなんだよ。こんなところで何時間も座らせて。意味、わかんねーし。ふざけんなよ!」


「元には戻せないのか、あの時間に戻せないのか?」

「戻るかよ、今更!!」


 真琴は勢いで叫んでいた。

 これが本心ではなかった。


 戻せるものなら戻したいと何度、切に願ったかわからない。

 それができないから、苦しいのだ。


「わかった。悪かったな」

 佐伯が立ちあがる。


 佐伯もまた失ったもの大きさを痛感していた。

 妻を失くした時、もう二度と大切なものを作ることはしないと決めていた。


 失くした時の苦しみがどれほどのものなのかを知ってしまっていたからだった。

 それでも佐伯の中で真琴は、いつの間にか大切なものになっていて、失くせないものになっていた。


 それなのに今、この手で必死ですくい上げようとしても、それは零れ落ちて行ってしまう。

 もうこの手には戻らないのか。


 二人は夜の闇がおり始めた海を後にした。

 帰路の車中では、息をするのも苦しいほどに、真琴も佐伯もなにも言わなかった。


 家の手前で手頃な辺りで降ろしてくれればいいと、家に近づいたころ真琴が言ったけれど、佐伯は真琴の家の前まで車を走らせた。


 真琴は急いで降りようとすると、佐伯がその腕を取った。

「本当にこのまま……」


 真琴は佐伯に最後まで言わせず、その手を引き剥がした。

 そして走って家の中に飛び込んだ。


 なんなんだよ、今更!

 どうしろって言うんだよ。

 言えるかよ。

 失えないなんて、今更、言えるかよ!


 あたしが自分で手放したんだよ。

 それをやっぱり嫌だなんて言えやしないじゃないか!!

 もうほっといてよ!!


 真琴は、部屋に入るとベッドにドサッとうつ伏せになると今まで必死で我慢していた涙が一気に流れ出すのを止めることもせず、嗚咽を漏らして泣いた。


 佐伯は、真琴の部屋の明かりがつくのを待っていたが、なかなかつかない。

 諦めて、車を出した。


 失ってしまったものを取り戻すことはできないのだろうか。

 本当にこのまま失くしてしまうのだろうか。

 こんなに手の届くところにいるのに、なぜ気持ちは届かない。


 拳をハンドルに叩きつける。

 暗くなった町並みは、ぼんやりと滲んでいた。

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