no.21
翌日、一樹は練習に参加しなかった。
布団から出てこようとしなかったのだ。
「一樹、具合でも悪いんすっか?」
茂が訝しがっている。
「まぁ、そんなとこ。今日は俺が付きっきりでおまえの練習付き合うから。一樹のことは気にしなくていいよ」
結局、茂のベースの練習を大輔がみて、真琴と玲菜はなんとなく時間をつぶす。
オープンテラスの椅子に掛け、前庭で撮影をしている映像研の皆を眺めていた。
「真琴、今は不安かもしれないけど、佐伯に任せるしかないよ」
真琴は頷くしかなかった。
真琴が今、一樹にどんな弁明をしても、一樹は聞く耳を持たないだろう。
逆に一樹の気持ちを逆なでするようなものだ。
一樹は、朝食はもちろん、昼食にも顔を出さなかった。
午後になって、佐伯が動いた。
一樹の部屋に入る。
一樹は、不貞寝していた。
「一樹、起きてるんだろ」
声を掛けたが、頭まですっぽり布団を被ったままの一樹から返事はない。
「起きてるよな。まあ、いい。そのまま、話を聞いてくれ」
佐伯は、ベッドの横に椅子を持ってくると一樹に向かって座った。
一樹は一向に動こうとしない。
「真琴とのことは……美織……俺の娘だが、小学一年でね。苛めにあっていたのを真琴が助けたのが、昨年の10月だった。俺は美織が苛めにあっていることを知らなくてね。真琴が何度か助けてくれて、それが始まりだった」
佐伯は淡々と話をした。
美織が強情に何も言わず、真琴ばかり頼りにし、自分は情けない父親をさらけ出してしまっていた。
しかし真琴のお陰で苛めがなくなった。
「母親は美織が一歳の時に亡くなっていてね。美織は真琴を頼りきっていた。俺もどうしていいのかわからずに真琴に頼っていたんだ。俺の中で真琴の存在が他の生徒と変わってきて。自分の気持ちに気付いた時、一度は距離を置こうと思ったんだけどな。美織が間に入って、結局、逆に距離が縮んで……いつの間にかお互い失えない存在になってた」
そこで佐伯は一旦、話を辞めた。
腕を組んだまま、じっと狸寝入りを決め込んでいる一樹に視線を送ったまま、動かない。
一樹もまた動こうとはしなかった。
「教師と生徒だからな。超えてはならない一線を俺達は越えた。俺は、真琴と付き合うことを決めた時に、既に心の準備はしている。教師をクビになろうとなんだろうと、真琴を守る。どんなことをしてでも真琴を守るよ」
静かに語っていた佐伯は、椅子を元に戻すと、
「あとはおまえ次第だ」
そう言って部屋を出て行った。
一樹は、布団の中で悔し涙を流した。
勝てるわけがない。
佐伯の気持ちに自分の気持ちが勝てるわけがないと、何度も繰り返した。
その夜、佐伯に呼び出された真琴は、また東屋にいた。
ぽっかり浮かんだ月と小さな幾千もの星が瞬いている。
澄んだ空気が真琴の中に入り込んでくる。
けれど重たい心は、重いままだった。
「真琴、悪いな、呼び出して」
「ううん」
「一樹には話をした。あいつがどんな風に動くかはわからんが、心配するな。おまえのことは守る」
佐伯は真琴を抱きしめた。
大きな暖かい温もりに真琴も心を決めた。
何があっても失えないものを守ろうと。
「センセ、なに話してきた?」
「いや、内申書、悪く書いてやると脅してきた」
「おい、そりゃ職権乱用だろう」
真琴に笑顔が戻った。
「まあ、あとは一樹を信じるしかないけどな。バレれば、俺はクビだ。無職になる」
「そしたらあたしが働いて養ってやる」
「バカなこと言ってるな。まだおまえはあと一年、卒業まで頑張れ。どんな仕事をしてでもおまえと美織を守って行く。心配するな」
「あと一年かぁ」
真琴は、このまま何事もなく一年が過ぎればと心底思った。
翌朝、朝食の時間に少し遅れて、一樹が現れた。
「ちくしょー。腹、減った」
そう言いながら食堂に入ってきて、自分の席に着くと、黙々と食べている。
大輔は、その横でヒヤヒヤしている。
あっという間に自分の分をたいらげた一樹は、大輔の卵焼きに箸をつけると
「昨日の分、俺、食ってないから、これは貰う」
そう言って、一口で卵焼きを食べてしまった。
「一樹、もう体調大丈夫なのか?」
何も知らない茂が聞いてきた。
「もうなんともねーよ。今日はバシバシ練習するからよ」
そう言って、先に食堂を出て行ってしまった。
固唾を呑んで一樹の様子を見ていた真琴と玲菜は、顔を見合わせた。
「なんかふっきれたみたいだけど」
そう言った玲菜に真琴も頷いた。
一樹がその気持ちにどう折り合いをつけたのかは、わからなかったが、その日の午前中の練習には何事もなかったかのように出ていた。
午後になって、機材をトラックに積む。
合宿もこれで終わりだ。
「真琴さんは、電車に酔うから、佐伯先生、お願いできますか?」
「はい。真琴はトラックのほうに乗せて帰ります」
真琴は、佐伯とトラックで帰ることになった。
そろそろ出発というころになって、佐伯と一樹の姿が見えなかった。
「どこ行ったんでしょうね」
高野が心配していると、二人が山小屋の後ろから現れた。
「すんませーん。遅れました」
しれっとした顔で、一樹が言った。
「じゃ、私達は、出掛けましょう」
バス停まで歩いて行く皆を見送る佐伯と真琴。
皆の姿が曲がり道で見えなくなった途端
「ってー」
佐伯が腹を押さえて呻いた。
「どーしたの?」
「やられた」
「えっ?」
「腹の虫が治まらないから一発殴らせろって言うから、顔かと思ったら、腹、殴りやがるんだもんな。一樹の奴」
佐伯は身長180を超えている。
一方、一樹は170くらいだ。
顔を殴るよりは腹だろう、と真琴は二人が対峙している姿を想像して思った。
「ダイジョブかよ」
「まぁ、このくらいで済むんなら、仕方ないさ」
佐伯は、そう言ってから、山小屋の主人に挨拶をしに行くとすぐに戻ってきて、トラックに乗った。
真琴も乗り込む。
「本当に大丈夫?」
「ああ。まだ疼くけどな。鳩尾に一発は効くなぁ」
エンジンを掛けながら、佐伯は苦笑いした。
山道を下っていた一行を追い越して、トラックは山並みから田園風景へと入った。
「センセ、こんなデカイの運転出来るんだ」
「大型の免許持ってるしな。ほかにもいろいろあるぞ。取れる時に取っとけって色々資格は持ってる。だから俺は教師をクビになっても食っていける」
「なるほどね」
「だけどな。俺がクビになるだけじゃ済まないだろ。おまえだって噂になるわけだから」
「だよね」
いつぞや、噂になった隣のクラスの女子と吉田のことを思い出す。
学校側もなにもしないというわけにはいかないはずだ。
はやり佐伯がクビになると同時に真琴も学校にはいられなくなるだろう。
「だが、一樹の奴、多分大丈夫だと思うぞ」
「ほんと?」
「ああ。あいつなりに気持ちに決着をつけたようだったから。釘も刺しておいたしな」
山小屋の裏に呼び出されて、一発殴らせろと言われた時、佐伯は、その前に一言言わせろと言って
「真琴に手を出すな。クビを覚悟で俺はあいつを守る」
そう宣言しておいたのだ。
それを一樹は黙って聞いていた。
その後、一樹の一発が佐伯の鳩尾にヒットしたのだが。
高速に入ってから、パーキングエリアで一息ついた。
「俺も普段はこんなデカイやつは運転しないから、疲れる」
佐伯はトラックを降りながらぼそりと言った。
それはそうだろう。
普段はオンボロのセダンに乗っているのだと真琴は苦笑した。
二人はコーヒーを買って、外の木製のベンチでそれをゆっくり飲んだ。
空にはちぎって散らしたような雲が少しあるだけで、天気も上々だ。
春休みとあって、人も結構いたが、二人は穏やかな空を眺めて、二人の時間を味わった。
その後、渋滞にも巻き込まれず、学校に到着した。
一足遅れで、電車で帰ってきた一行が学校に着く。
すぐに機材をそれぞれの部室に移動させて、合宿は終わった。
「無事に終わってよかったですわね、佐伯先生」
「そうですね」
高野の言葉に、佐伯は苦笑いしながら答えた。
そしてとうとう真琴達も三年である。
「今年はおまえ達の人生がかかってる大切な一年だ。悔いのないように過ごすように」
三年になって、クラスも担任もそのまま持ちあがりである。
佐伯の短い挨拶があって、皆は体育館での始業式に臨んだ。
「ねえ、真琴。なんの噂も立ってないみたいだけど、一樹、なにも言わなかったのかな」
落ち着きなく始業式の間も視線をあちこちに巡らせていた玲菜が、教室に戻る時に真琴に聞いてきた。
「みたいだね」
「真琴ってば他人事みたいに」
「あいつなら大丈夫じゃねーの。今朝も何もなかったような顔しておはよって言ってたぞ」
大輔は、頭の後ろで掌を組んでそう言った。
玲菜の心配をよそに休み時間になると、いつもの四人組になって新入生勧誘の話で盛り上がった。
「俺らがいなくなって軽音部なくなるって悲しくねー。だから一人でも多く、勧誘しようぜ」
一樹はくったくのない笑顔で言う。
「そーだよな。俺ら卒業したらなくなりましたってのは、あんまりだよな」
「だろ。折角、真琴がいて人気出たのにさ、そのあと継ぐ奴がいないんじゃ、まずいっしょ」
玲菜は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしている。
真琴は澄ました顔で二人のやり取りを頷いて聞いている。
一樹は今までと変わらず、真琴達と接していた。
佐伯と真琴のことが噂になるようなこともなかった。
一樹は真琴への思いを忘れたわけではなかった。
けれど佐伯に勝てるはずもない。
これ以上、自分が惨めになるようなことだけはしたくない。
佐伯と真琴のことをバラせば、自分はもっと惨めな立場になる。
そんなことをするほど自分はバカじゃないと思っていたのだった。




