no.1
「真琴、起きなさい。遅刻するわよ!」
ドアの向こうからする母親の声に真琴は、瞼を擦った。
「いい加減自分で起きなさいよ。ほんと朝が苦手なんだから。毎朝忙しいのに嫌になるわよ。真琴、起きた?」
母親の文句が聞こえてきた。
「起きたよ!」
真琴が返事をすると、「まったく、もう」と母親は階段を駆け降りていった。
けだるい体を起こして、真琴はベッドを出るとカーテンを勢いよく開けた。
眩しさに目を細める。秋近くの街路樹をやわらかい朝陽が照らしていた。
視線を下げると母親が飛び出していくのが見える。
小走りに駅へ向かう母親の後ろ姿をしばらく見つめていた。表情はない。
真琴はこの日、学校をさぼった。これで三度目か……。
高校に入ってバイトを続け、念願のバイクを買った。
一度目はそのバイクに乗りたくてさぼった。
二度目は学校でちょっとした諍いがあって、嫌になりさぼった。
今日は特に理由はない。しいて言うなら何もしたくなかったからだろう。
初めてさぼった時のような罪悪感は既に消えていた。
真琴は、愛車のNINJA250で海まで飛ばした。
盛夏には賑わった浜辺にも人影はなく静かだ。
海から吹いてくる風と香り、繰り返す波の音が心地いい。
長い艶やかな黒髪が風で靡いた。
堤防に座り、なにをするでもなく、ただ、海を見つめていた。
途中、コンビニで買ったパンを食べる。
それからしばらくして、帰路に着いた。
あと一駅分も走れば家に着くと思った時だった。
通り過ぎた公園に数人の子供たちがいた。
普段なら気にもかけない風景だったが、海辺で研ぎ澄まされた感覚が、何かを感じ取ったような気がした。
気になって引き返してみると、髪の長い女の子が三人の男の子に囲まれている。
真琴はしばらくバイクに跨ったまま、様子を見ていた。
どうも女の子が苛められているようで、取り囲んだ男の子たちが何か言いながら、ピンク色のランドセルを背負った女の子を小突いたり、蹴飛ばしたりしている。
女の子はそれでも唇を噛みしめて、涙を堪えていた。
執拗に続けられるそれらに女の子が堪りかねたのか、三人の間を抜けようとして走り出す。
一人の男の子が足を出して、女の子はそれに躓いて倒れ、とうとう泣き出してしまった。
『そろそろ限界か……』
「こらーっ、男が三人もして、女の子苛めてんじゃないよ!」
「なんだよ」
一番体格のいい男の子が振り返って言った後、真琴の姿を見て後ずさる。
250ccのバイクにフルフェイスのヘルメットにライダースーツ姿だ。
168センチでスレンダーではあるが、小学生から見れば、いかにも怖そうに見えたのかもしれない。
真琴はフルフェイスのヘルメットを脱いで、ミラーにかけて、長い髪をさらりと手で流した。
「男ってのはね、女の子守ってこそ、男なんだよ。女の子苛める男なんざ、最低だね」
「うるせーんだよ、ババァ」
一番体格のいい男の子が真琴が女だと気付いた瞬間、それまで怯んでいた表情を怒りに変えていた。
それでもライダースーツの女は、怖く見えるのか、真琴がまっすぐ男の子達を見つめて近づいてくると後ずさった。
「さっさと行きな! 今度この子を苛めたら、ただじゃおかないよ!!」
さすがの真琴の迫力に毛押されて、男の子達は逃げていった。
「まったく最近のガキは! ほら、あんたもいつまでも泣いてんじゃないよ」
真琴は女の子の服に着いた泥を払い落すと、血の出ている膝小僧に気付いた。
「痛むか?」
「うん」
「消毒したほうがいいな。家は近くか?」
女の子は頷いた。
「仕方ない。この辺なら捕まったりしないだろ。乗れ」
そう言って、女の子に手を貸して、バイクの後ろに乗せた。エンジンを掛けるとその音にビクンとして女の子が真琴に抱きついてきた。
「スピードは出さないけど、しっかり捕まってなよ。なんかあったらヤバいんだからさ」
「うん」
真琴は女の子に家までの道順を聞いてから、バイクを発進させた。
バイクに人を乗せたのは初めてである。
『まあ、こんな小さな子なら別だよなー。怪我してる子供助けてやったんだ。これで捕まえるお巡りは、人情に欠ける!』
心の中で自己流の正義を振り翳す。
真琴が免許を取ったのが五月。まだ一年経っていない。
これで二人乗りすれば道路交通法違反になる。
しかし閑静な住宅街だし、家はすぐだと言うし、大丈夫だろうとふんだ。
女の子が言った通り、家にはすぐに着いた。
「ママにすぐ消毒してもらえよ」
バイクから女の子を降ろす。
「いないの……」
「えっ?」
「いないの。だからお姉ちゃん、入って」
「い、いや、勝手には……」
いくら真琴でも子供が言ったからといって勝手に親が留守にしている家には入れない。
躊躇していると、女の子は俯いて、涙を流した。
「わーた、わーた! 泣くな、うっとーしー」
真琴は子供が嫌いだった。煩いし、めそめそする子は特に。
それでも女の子を助けたのは、同じ場面を自分も経験していたからだった。
真琴がバイクのエンジンを切ると女の子は真琴を引っ張るようにして家に入った。
しんと静まり返る家、ただいまを言っても誰もおかえりを返してはくれない。
こんな場面はいくらでも真琴の過去の中にも埋もれている。
「救急箱はあるか?」
リビングに通されて、真琴が言っている間に、女の子はランドセルを降ろすと、救急箱を持って戻ってきた。
箱を開けて、消毒をする。
女の子は顔を少し歪めただけで我慢している。
大きめのバンドエードを張った。
「よし、これでOK!」
ピタッと足を叩いて、彼女を見ると胸章には『1年2組 佐伯美織』とある。
「さえき……」
「みおりってゆーの」
「なかなか洒落た名前だな。それじゃ、あたしは帰るから」
「待って、もう少し、いて……」
声が小さくなっていく。
「ママだって帰ってくるだろ」
気分よく海までドライブしてきたのに、こんなことでその気分を削がれたくはないと、真琴は正直思った。
「いないもん」
「えっ?」
「私が小さい時、死んじゃったもん」
今でも充分小さいだろうが、と真琴は思いながら、あげた腰を降ろした。
改めて部屋を見回す。
リビングには毛足の長いラグが敷かれ、そこには四つのクッションが置かれていた。
続きのダイニングにはテーブルが置かれ、四人がけではあるが、二脚の椅子の上には荷物が乗っていた。
そのダイニングの奥にキッチンがある。
視線を戻し、リビングの奥には、和室があった。
そこには小さな仏壇が置いてある。まだ若い母親の写真が飾られていた。
「どうしよう……」
美織が呟くのが聞こえて、視線を美織に戻した。
ティシュを持って呆然としている。
「なにしてんだ?」
「これ、気に入ってたの。落ちない……」
美織は、血の着いたソックスを見つめていた。
「拭いても落ちないよ。洗わなくちゃ」
真琴がそう言うと、美織はまた俯いてしまった。
「わーた、わーた! 洗ったる。貸しな!」
真琴は、ソックスを握ると、洗剤の在り処を美織に尋ねた。脱衣室に行ってみると隅に置かれた洗濯機には洗濯物がごっそり入っていた。
「なんだよ、これ」
「パパ、忙しくてしてないんだ。美織、やる」
そう言って、洗剤を手にした美織から、真琴はそれを奪い取る。
「ついでだ、やってやる」
折角、学校までさぼって、海まで行って気分よく帰ってきたのに、美織を助けて狂ってしまった。
めそめそする美織にイライラし、それを世話する大人がいないことにも腹が立った。
『母親が死んだのは仕方ないとしても、誰か世話する奴くらい用意しとけよ』
そんなことを考えながら洗濯をした。
そしてふっと自分の過去が顔を出すのだった。
あたしも小学生のころから洗濯してたっけ……。
洗濯物を二階のベランダに干して戻ってくると、キッチンで小さな踏み台に乗って、美織が米を研いでいる姿が目に入った。
「あんたが夕食作るの?」
「うん。パパが遅い時はね」
「あっそう」
聞いていて疲れてしまった真琴だった。
ここまで来ると腹も立たない。
炊飯器のスイッチを手慣れた様子で操作して戻ってきた美織は、真琴を捕まえて言った。
「ね、お姉ちゃん。ゲームしよー。美織ね、今、誕生日に買ってもらったソフトやってるの」
「でもそろそろ暗くなってきたしさぁ」
「……」
「わーた。頼むから、そんな顔するな!」
真琴は帰るのを諦めた。
これだから子供は嫌いなんだと思いつつ、なんでも付き合ってやると、ゲームを始めた。
美織はなかなかの腕で、真琴はタジタジである。そのうち、時間を忘れて夢中になっていた。
「ただいまー。美織、遅くなってごめんなー」
玄関から声がした。
どこかで聞いた声だな、と真琴が考えているうちに、リビングのドアが開いた。
入ってきたのは、なんと真琴の高校の担任で、数学教論でもある三十目前の、佐伯俊平だった。
「真琴? お前、なんでこんなところにいるんだ?」
『ヤバい。今日学校サボったんだっ』
真琴は思い出して、身を引く。
「パパ?」
美織が二人の顔を交互に見ていた。真琴はそんな美織を見て、開き直った。
「なんでじゃないよ。小さい子供、こんな時間までほっといてさ」
「お前のうちに行って来たんだ。さぼりも三回になるとほっとけないんでね」
「ゲッ、マジ?」
「母親と話してきたから、覚悟して帰れよ」
『クッソー! 今日は仏滅だぁー!!』
真琴は頭を抱えた。
「えーっ、お姉ちゃん、学校サボったのぉ。いけないんだぁ」
美織にまで言われて言葉もない。
佐伯は、美織から真琴がここにいる事情を聞いて礼を言った。
けれど、真琴はそれを素直に受け取れなかった。
美織は苛められて怪我をした事実を自分が転んだと歪めていた。
何か釈然としないものが残ったが、父親が帰ってきて喜んでいる美織にほっとして、余計なことは言わずに帰った。
その夜、母親に散々絞られた真琴だった。