(2)メロディカ
「やっぱり、変に奇をてらわずにメロディカちゃんって呼ぶことにするね! よろしくねメロディカちゃん! わたしのことも好きなふうに呼んでいいよ! たとえばね、タンちゃんでもいいし、タンバリでもいいし、タンバリンでもいいし、あ、タンバリンがいいよっ!」
鮮烈な回想を終えたメロディカをさらに畳みかけるようにして丹波は笑顔でそう告げた。赤子の体内から抽出した無垢の純物質を顔に塗りたくったかのようなその笑みを向けられ、全身にむず痒さを味わう。この感覚を何に喩えよう。猫アレルギーなのに猫に好かれる。いや、猫アレルギーじゃないのに猫に好かれない。どちらでもいい。要するに、それほど悪くない痛痒感がある。
ホームルームは丹波と会話――一方が自分勝手に喋ることをそう称するならば――しているうちに終わっていた。その間、クラスメイトたちの意識は教壇に立って明日からの日程を話している担任そっちのけで丹波に集中しており、必然的に意識のおこぼれがメロディカにも注がれていた。
その状態をメロディカは、悪くない、と思っていた。それは、隠居した元舞台女優が人里離れた湖畔にある家のリビングでテレビを見ていると、放送されているトーク番組に登場していた新進気鋭の若手女優が溌溂とした笑顔で、「昔からずっとファンだったんです。あの人がいなければ私は女優の道を選んでいませんでした」と元舞台女優の名前を告げており、己の関与しない場所で人望が高まっていることを実感するような不思議な感覚であった。
「あっそう」
しかしメロディカはあくまでも氷像のように徹する。引退したはずの舞台にまだ未練が残っているような素振りを見せてしまうことは、彼女の矜持が許さないのだ。捨てたものは拾わない。もったいないものなどこの世にない。すべてのものは使い捨て。そう自分に言い聞かせ説き伏せ、酸いも甘いも知らない小娘になど興味はないという冷然とした態度で丹波に接する。
「うわっ、メロディカちゃん、クールだね! クールビューティーだね! みんなぁ、メロディカちゃんはクールビューティーだよぉ!」
両手を拡声器のような形にして叫ぶ丹波を止めたい気持ちも山々であったが、まぁいいだろう、と水滴ほどの優越感を舐めながらさり気なく教室中の反応をうかがってみたが、生徒たちの白々とした顔を見て、しまった! とメロディカは思った。実際に小声でそう言った。
「しまった!」
これはダメだ、ダメなパターンだ。こちらへと向けられているクラスメイトたちの視線は、どう前向きにとらえても好意的なものではない。これはイタイ人を見るときの目付きだ。関わり合いにはなりたくないけど見ている分には滑稽で実害はないから見ておこうという、奇抜さだけを売りにした路上パフォーマンスに向けられる横目だ。このままなんの対処もしなければ私は丹波と同類だと見なされてしまうかもしれない。そう危惧したメロディカは擦り寄ってくる丹波からぷいっと顔を背け、あなたには関わりませんよという意思を表明する。
「すごい、ぜんぜん痛んでない! 枝毛もまったくないっ!」
が、丹波は溺愛するペットをなでるかのように肩甲骨の辺りまで伸びたメロディカの後ろ髪に馴れ馴れしく触れ始めた。一見してメロディカは無表情を装っているが、丹波の手によって髪がくしけずかれていく都度、窓の表面を覆う霜が払われていくかのように頬を薄っすらと上気させていった。まるで凍り付いた湖の表面に、後の四季に花咲く桜の花びらの幻影が先走ったかのような、恍惚の春の数歩手前の状態とも取れる様子の彼女が深層下で感じているものとは、自らを必要としている舞台へ招来される快感、空になったカップを再び紅茶で満たされる幸福感、導かれた舞台上で満たされた紅茶を一気飲みしたいという願望である。
ああ、返りたい、返り咲きたい。梳かれた髪から見栄や外聞が削げていき、一線から引いたはずの身の内に滞っていた未練が露出する。綺麗な髪だね良い色だね。耳元で囁かれる甘言によって背骨がガクガクと暴れ出す。また衆目のもとに姿を晒したいチヤホヤされたい、サインとか頼まれたいそれを華麗に断りたい。かつて彼女を満たしてくれた出来事が溶け出した空間にはまっていく。再びあの舞台に立てるチャンスがすぐそばで手を差し出している。その手を軽く掴みさえすれば、後は舞台上まで引っ張り上げて貰える。
しかし最後の砦となっている矜持が進行を食い止める。止めておきなさい虚しいだけよ、と冷めた顔で忠告をしてくる。彼女は知っているのだ。あの舞台に戻っても同じ道をたどるだけだと。暗闇から向けられる無数の眼差しは彼女ではなく演じている役を見に来ているのだと。それが嫌で演技に自己を滲ませると眼差しから光が失われるのだと。光が照らし出しているのは水中の自分ではなく表層の水面なのだと。
胸まで上げかけた腕を下ろし、彼女は固く目をつむって懸命に堪える。それでも付きまとう未練を振り払うため、居室から出て蜘蛛の巣の張った暗い廊下を渡り、地下室へ続く階段を下りる。階段は途中から水に浸されていく。それは地下室が湖に取り込まれているからである。
彼女は地下室に広がっている湖のなかへと身を沈める。外界とは隔絶された冷気、音のない水中、彼女はそこで自身の鼓動だけを聞いて暮らしていく。
どくん、どくん、どくん、どくん、どくん、どど、どくん、どどど、どくん、どどどど、どくんどくん、どどどどどどどど――。
ど。
遥か遠くから、地鳴りのように低く唸り続けていた音が、今、止まった。
乾燥したサバンナから一心不乱に駆けてきた野ウサギがやっと脚を止めたのだ。
野ウサギは長距離を走破したというのに息を荒げることもなく、四肢に溜まった天真爛漫さを放つかのように草原中を跳ね回る。灰色の体毛に包まれた後ろ足が大地を蹴る。矮小な生物の些細な動作が大地を僅かに震動させる。
梢の木葉が、
さらり、
揺れる鳥が、
しゅらり、
飛び立つ風が、
ふぁさり、
そよぐ小石が、
ころん、
転がる冬の寒さに身を固めた湖へ、
こつり、
落下する。
そうして氷湖に刻まれた僅かな罅割れ。そこから射し込む柔らかな光芒は、氷の下にいる彼女の元まではとどかない。とどかないので決心がつかない。進退窮まった彼女は、罅割れの合間から微かに差し伸ばされる光に向かって訊ねるのである。
「あなたは私と同じなのに、どうしてそんなに自由なの?」
光は答えるのである。
「そんなの決まってるじゃん! 自分の名前が大好きだからだよッ!」
それはあなたが能天気だからよ。
そう言い返そうとしたが言葉が続かない。その代品として真珠を収めたまぶたから雫がじわりとあふれ出す。白絹のような肌を伝うは涙の珠か水の玉か、それを知り得るは彼女の頬を撫で湖底へと下っていった水流だけである。そしてその水流も、水底に到達し流れの次なる行先を失うと、彼女の頬を下っていた液体の正体を忘れてしまう。有耶無耶に、涙か水かなんてそんなものどちらでも同じだと言いたげに拡散してしまう。
誰からも忘れ去られてしまったかのような静謐に満たされ、厚い孤独に蓋をされた水中に浮かぶ彼女は、頬を伝った液体の正体を知らぬまま湖一面を覆った氷盤を見上げる。曇りガラス越しの景色を見ているかのように氷上はぼやけて曖昧だった。
その曖昧な視界にピョコピョコと蛙のような単調さで跳ねる動体が現れる。目元を軽く擦って凝視する。しかしその正体は判然としない。陽炎のように揺らめきはするが、はっきりとした形にならないのでいつまでも不確かだ。明瞭な形がなければそれは実物とはいえないのだろう。そして形がなければどんなに声を張り上げても、決してそれを呼ぶことはできないのだ。
彼女は重い諦観に身を委ね、水中をプランクトンのようにさ迷う。そうやって身を委ねて気付く。水の中もまた視界の歪んだ場所であることに。
底の方にある濃紺のゆらゆら。虫の卵のように群集したぶつぶつ。頭上に張られた水色の堅く厚い板。目端を通り過ぎていく三角形の生き物。肌身を差す冷たさ。それらにも必ず呼び名があった。
彼女は夢を見るようにぼんやりと思い出す。
自分にもかつて、呼び名があった。
それは、耳の産毛を柔らかに掠めるような心地良さ。舌の上で飴玉が弾むかのような音律。今一度、口に出してみようと試みたが、形のないものを呼ぶことはできなかった。
自分ですら忘れてしまったのなら、もう誰も、ぜったいに覚えていてくれない。私はこのまま生体の境界を失い、水と一体になるのだ。そうして曖昧になるのだ。空気のように、水のように。
それでもいいな。
そう思っていたら、名前が呼ばれた。
始めはくぐもっていてはっきりと聞こえなかった。しかし、続いて届いてきた溌溂とした一声が、氷湖にあった埃ほどの小さな罅割れを放射状に拡散させた。
小さな歪みから撃ち出された細かな稲妻たちは、ジグジグ、ザグザグ、と機敏に左右を反復しながら何かを追い求めるようにして氷上を奔っていく。そして、生まれる幾数ものクレバスから光が折り重なり合い、束となって水中に入り込む。数年ぶりに行き渡った莫大すぎる光量に仰天した水生生物は、そろって白目を剥いてぶくぶくと泡を噴き出し、気孔や口腔から立ち昇っていくそのブクブクによって水中は雨粒が天へと帰っていくかのような逆巻きの様相となる。まるで世界の巻き戻し映像を観ているかのようなその情景は、長年の間、暗く寒い場所に留まっていた彼女の髪先、手足、胴体、彼女を彼女足らしめているすべての要素を巻き込み、燦然と光あふれた水上へと、引き上げて、いった。
彼女の登場とともに湖上を覆っていた氷盤が細かな欠片となって弾け飛ぶ。宙を舞う幾千もの氷片は麗らかに満ちた春光によって瞬く間に氷解し、再び重力に導かれた際には水の粒と変貌した。
天気雨のように降り落ちる水の滴。
陽光を反射して白く輝いている。
雪のように、
光のように、
はらはらと舞い落ちている。
華やかに演出された舞台。
彼女は厳かに開口する。
固く閉じていた喉が鳴る。
凍えていた舌が動く。
言葉にならなかった言葉が出る。
それはとても柔らかく、
けれど弾力があり、
毬のように舌の上を弾み、
軽やかな音となって宙を転がる。
その音が誰かの鼓膜に行き届いて、
彼女の名前になる。
その誰かが彼女の名前を口にして、
名前は彼女になる。
その名前がなければ彼女は誰にも呼ばれることはなく、
誰にも呼ばれない彼女は彼女でなくなる。
しかしその名前を誰かが呼んでくれるのなら、
彼女は彼女であり続けられる。
彼女はもう一度自分の名を、愛してみようと思う。
笑われてもいいのだ。
自分の名前を嫌いになってしまうくらいなら、
笑われて、
からかわれるくらい、
なんてことない。
彼女は氷上で小首を傾げている小動物に言う。
「よろしくね、ウサギさん。
あと、私のことはあだ名じゃなくて、ちゃんと名前で呼んでね。
私の名前は――」
彼女は名前を口にする。
それは、
澄んだ空気のなかでしか
聴こえない
心弾む
音の
塊。
今年の十月頃に書いていたもの。物語の進行中に登場する比喩の世界へと少しずつ比重を移して行き、当初読者が予測していたであろう着地点から離れた場所に物語を到着させたいという天邪鬼思想を発端にして書きました。
感想、意見、アドバイス等ありましたら是非お願いします。