(1)メロディカ
キラキラネームだろうとDQNネームだろうと、珍奇な名前を分類する名称なんてその本人にとってはどうでもいい。
矢鱈めったら画数の多い漢字を宛がわれた子どもの気持ちが分かるだろうか。解答用紙に氏名を記すだけで一汗かき、その複雑怪奇な漢字を書いている間に、せっかく徹夜で覚えた英単語が頭の芯からスルスル抜けて忘れて去ってしまうのだ。一見すると変哲のない漢字であるのに、珍妙な読み方をする名前を与えられた子どもの心情を推し量ることができるだろうか。初対面の人と逢う度に名前の読み方を訂正し、挙句の果てに憐憫の籠った失笑を買うのだ。
自ら望んだものではないのに、気付いたら無理やり押し付けられたというのに、名前という恩着せがましい重荷の代価は、余りにも滑稽で非生産的だ、と斎藤メロディカは冗談めいた己の氏名を口にしながら思ったのである。
「えぇ、メロディカ?! すごいカワイイ名前だねッ!」
右隣の座席にいる丹波は、見開いた瞳をダイヤのように輝かせ、カミサマにお祈りでもするかのように胸の前に手を組んでもう聞き慣れた賛美の科白を口にする。メロディカは「そう、ありがとう」という無味乾燥な返事をし、もうこの話題は終わりにしようと言外に示すために話し相手からあからさまに目線を逸らす。そうやって爪に塗布された赤いマニキュアを退屈そうにカリカリといじってでもいれば、経験上どんなに間の抜けた相手でもこの話題にはあまり触れない方がいいと悟ってくれるのである。
今回もその手順を順当に踏んだはずなのに、丹波はメロディカの冷めた態度から何を感じ取ったのか、元々淡く赤らんでいた頬をさらに上気させ、机の端を掴んでポルターガイストのようにガタガタと揺らしてさらに気色ばんだ。
「ねぇねぇねぇねぇ、メロディカちゃん! どうしてメロディカちゃんはメロディカなの?」
それは、どうして地球は丸いのか、という部類の話だ。メロディカはそう思った。私が知る訳ない。生まれたときからそうだ。生まれたその瞬間から地球は丸かったのだ。
「知らないよ」
私は生まれたときからそうだったよ。誕生した地球が宇宙に丸く収められたかのように、私も生まれたらこの名前を親に宛がわれていたよ。
「そっかぁ……。でもさでもさッ!」
いくら冷徹に振る舞おうともいきり立った丹波はなかなかめげることがなかった。おそらく彼女は、一つのことを注視してしまうとその周囲への配慮が極限まで疎かになるタイプの人なのだろう。きっと悩みなんてなにもないのだ。それはそれで羨ましい、とメロディカは幸せそうに喋る丹波を横目でうかがう。
「メロディカって漫画やアニメに出てきそうでカワイイよね! しかもしかも、いかにもヒロインって感じで!」
それもメロディカが自己紹介をする度に散々言われ続けてきた文句だった。確かに最初のうちは、まるで自分が天から選ばれた人間であるかのような気持ちになって悪い気はしなかったが、その優越感に浸れていたのも小学校の低学年までだった。
学年が上がり年を重ねるごとにメロディカは周囲との違和感に苛まれた。その理由は単純にして明快で、様々な名前を持った三十余名の子どもたちのなかでも、彼女の名前はまるで白い羊のなかに黒毛の羊が取り残されているかのように、目に見えて浮いていたからだ。
もちろん、彼女以外にも特異的な名前を押し付けられていた子たちもいた。彼らの名前もそれなりに珍奇なもので、なかには苦笑いを浮かべるしかない不憫な名前の人もいた。もし、彼らがメロディカと同じクラスでなければ、押し付けられたその名前を冗談交じりになじられ、周囲から少しだけ浮遊しているその心地良さを味わうことになっていたのだろうが、残念ながら語感軽やかで耳心地の良い名前を持つメロディカがいるクラスでの彼らは、舞台の陰に隠れた黒子と変わりなく、主役である彼女を華やかに見せる舞台装置と大差がなかった。
しかし、子どもはいつまでも子どもではない。夢はいつか覚めるものである。現実は童謡と同じようなものだと思っていた年代はやがて過ぎ去り、勉強や時間割りという規制概念に括られているのが世界であり現実であると認知し始める。すると価値観は一変する。宝石のように輝いていた色彩豊かなビー玉の群れは、ただのガラス玉になって引き出しの奥底に転がる。憧れていたヒーローはピッチリとした全身タイツを着て仮装した変質者になり、何年経っても魔女見習いの女の子はいつまでも昇進できない愚直で頑迷な大人を暗に示していると思うようになる。
現実から乖離している奇異なものは、憧憬と魅力を失いただ物珍しいだけの見世物になってしまうのだ。
メロディカがそう気付いたときには、彼女の名前を呼んでくる友人の顔には嘲りが含まれるようになっていた。街中で声を張り上げて呼びかけられたとき、その半月のようにしなった目と口角の窪みには、純粋な笑い以外のものがこめられているように見えた。その陰に隠れた表情は成長とともに色濃くなり、彼女はそれに耐え切れず友人たちから距離を置くようになった。
そうして彼女は主役を演じていた舞台からフェードアウトすることにした。自らに背負わされた名を恨みながら。
以後はまるで一時期は一世を風靡したが今では誰の記憶にも残っていない老身の舞台女優のように鳴りを潜めて生活した。人気を避けるため辺境にある湖畔に簡素な居を構え、誰も寄り付かないように窓や扉は固く閉ざし、好奇心に押されて訪れて来たものは憮然とした態度で追い返す。そうやって彼女は学生生活をしめやかに送っていくのである。
太陽の光からあぶれた室内で彼女は考えていた。そもそもメロディカってなんだ? その疑問を払うために埃を被った書棚から辞書を取り出して調べてみた。どうやらメロディカとは、鍵盤ハーモニカのことのようだ。俗にいうピアニカだが、欧州ではメロディカという呼び名の方がメジャーらしい。しかしなぜ、自分にこの名前が付けられたのか。両親は、音楽に対して人並みにしか関心がなし、どちらかが欧州人であるとか、過去に住んでいたということもない。
深まるばかりである謎からふいと目を離し、頑丈な錠を下ろした窓に視線を移す。薄曇った窓ガラスを隔てた先にいる女生徒。メロディカという名前を口にする都度、まるでチョコレートでも口に含んでいるかのように喜びをあらわにしている丹波によって、メロディカは去ったはずの舞台へと再び連れ戻されていくような感覚に襲われる。
「……メロちゃん、いや、これは安直すぎるよね。……ロディー、なんか違う、もっとこう、インパクト、心が震えるような衝撃が欲しいの。……ディッカ、これもピンとこない」
頼んでもいないのにあだ名を考え始めた丹波からぎこちなく目を反らし、つい十分ほど前の過去をメロディカは回想する。
始業式を終え、晴れて高校二年生になったメロディカは、胸元にある紺と水色のストライプ柄のリボンを揺らしながら有象無象のなかを颯爽と歩いて新しい教室に入り、三行四列目に位置する自席に着いて春休みの中に気分転換で色合いを少しばかり明るくした茶髪の先端を人差し指に巻きつけ、暇を潰していた。
しばらくして教室には生徒たちが続々と押し寄せ、猥雑の集大成のようになった。黒板の前でサルのように喚いている男子生徒の集団。机の上に縮こまるようにして読書をしている女子生徒はドングリを頬張るリス。意味ありげに窓外を眺め孤独に浸っているオオカミのオス。新しい仲間たちと早速親交を深め合っているスズメの一団は、退屈そうに髪の毛を弄んでいるメロディカのことを仲間に引き入れようと企んでいるのか頻りに目線を送ってくる。
メロディカは床を蹴飛ばすような荒い動作で白い太ももを重ね合わせ、前髪の間からのぞく柳眉の根を寄せ、瑞々しい桃のようなツヤを発する上唇を尖らせて見るからに不機嫌な表情をつくる。それは彼女なりの意思表示であり、拒まれたことを知ったスズメたちは、烈火の如く怒り狂うようなことはしないで「仕方ないよね」という諦念を目顔で交わし合い談笑へと戻っていった。
まぁそんなものだろう、とメロディカが思う。
無愛想な女と仲良くするほど、彼女たちも暇を持て余していないのだ。だがしかし、しかしだが。どうして自分はこうもツッケンドンな態度しか取れないのか。染めたばかりの髪だって自慢したい。どうこの色、いいでしょ? とかキャッキャと言いたいのだ。あれもこれもすべて忌々しい名前によるものなのか。こんちくしょう。と、内心で愚痴りながら、ひと際強く頭髪を巻きつけ指先を白くしていた矢先のことであった。
開け放たれていた前側の扉から、まるで、肉食獣が行き交うサバンナを単身で爆走する無謀な野ウサギのように女生徒が駆け込んできたのである。
それだけならまだいい。ははっ、お転婆なやつだなっ! で済むだろう。しかしあろうことか、彼女は立ち話をしている人をかき分けながら教壇に立ち、大声で自慢話をする幼児のように屈託なく喋り出したのであった。
「みなさん! やぁ、みなさん! お元気ですか? え、声がちっちゃいよー。もう一度、ね? お元気ですかー? ううん、恥ずかしがり屋さんが多いみたいだねー。大丈夫、怖がらないで! わたしはみんなの味方だよ! へへぇ、みんなぁー、今日からわたしたち同じクラスなんだよっ! やったね! イェイ! 嬉しい? わたしはねぇ、すっごく嬉しい!」
あれだけ喧騒で満ちていた教室がここまで静まり返るものだろうか。学期末テストの真っ最中であっても、これほどまでの静寂には至らないはずだ。メロディカは白い喉をごくりと鳴らして成り行きを見守った。
教壇の彼女は、自分以外誰一人として身動きをしない室内を不思議がっているようで首を傾げていたが、やがてある着想を得たらしく手の平をシンバルのようにパチンと打ち合わせた。
「そっか、そうだよね! わたしってドジだね。へへぇ、まだみんなわたしのこと知らないんだよねっ! よぉく、よぉおく聞いて、しっかり覚えてね!」
そう言って彼女は、ブレザーの内ポケットから素早く何かを取り出し、凍りついている教室中の空気という空気を破壊せんばかりの大声で言い放った。
「わたし、丹波鈴。そう、わたしの名前は『タンバリン』だよッ!」
豪快に、そして快活に、何よりも軽快に響き渡った丹波の声を耳にしながら、じゃあせめてタンバリンを用意しておけよ、と彼女の右手にちんまりと乗っかっているホタテのようなカスタネットを冷ややかに見つめ、メロディカは思ったのである。
その空間にいる誰しもが突如の闖入者に茫然としていた。銀行に覆面を被った強盗が押し入ってくれば同じような状態になるだろうか。おそらくだが、ならないだろうとメロディカは思ったが、もしひょっとこのお面とオモチャの水鉄砲を装備した間抜けな強盗であれば、同様の状態になるかもしれないと思い直す。
カチャカチャカチャチャ、カカチャチャチャ、と神経を逆なでするように無闇に連打されるカスタネットの音を無心になって聴き入っていた生徒たちは、「おーい、席に着けー」と、担任が入室してきたことで現実に目覚めたが、
「おっ、丹波! 今年も一緒か!」
「あ、先生! よろしく!」
親しげに挨拶を交わし合いハイタッチまでし始めた二人を見て、再び不可思議の沼へとずぶずぶ沈んでいった。
「そうだ、先生! これ見て」
さらに追い打ちをかけるようにして、手に持っていたカスタネットをまるで入れ歯のように口内に入れ、口を上下に開閉させながらカチャカチャと音を鳴らす丹波に、
「おお! これはまた、とてつもない妙技を習得したな!」
無邪気に喜びを示した担任を生徒たちは黙然と眺め、一年間通った高校を今日限りで自主退学するという考えを頭にチラつかせる。満足ゆくまで丹波と会話し終えた担任は、彼女を席に着かせて何食わぬ顔でホームルームを開始した。
メロディカは、唾液でベトベトになったカスタネットを机の上に放り出した隣席の丹波を盗み見るようにしてうかがった。なんだこの子は。その僅かな気配を小動物的な敏感さで察知した丹波が素早く顔を向けてきたのでとっさに視線を余所へと逃がしたが、目を逸らすという些末な動作だけでも丹波の気を引くに事足りていた。
「こんにちはっ! 私、丹波鈴っていうの。あなたは? あなたのお名前は何ていうの?」
厄介な奴に目を付けられてしまった。メロディカは思わず舌打ちをこぼしたが、「ねぇねぇ」と言い寄ってくる丹波を見る限りは無害そうなので、一応名を訊ねられたときの礼儀は重んじ、気は進まないが自らの名前を名乗ったのであった。




