第五章 ボーイ・ミーツ・ドール
施設の外に出ると、そこはすっかり夜。けれど明るい。今宵は満月。
「ああ、今日も疲れたなあ……」
松吉が、そう一人ごちた。
「客が少ない日だからと思ってたら……あのザマだもんなあ……」
茂菜香とかいう、男湯の脱衣場に乱入するのが趣味の変態娘に耳を引っ張られるわ、火魅子とかいう、わけの分らないことをひたすらほざくスケバンみたいな女に、いきなりインネン付けられるわ……。
しかし、みどりにコーチをしてもらえることになったのは唯一の収穫だ。どうも無愛想で素っ気ないところはあるが、今日は一応きちんと会話が成立した上に、松吉にとって不如意多き学園生活の、まずは助け舟となってもくれそうだ。
みどりも、どうやら根は悪い娘ではないことを、松吉は今日のことで確信していた。が、どうもまだぎこちないというか、何かを隠しているというか、よそよそしいというか……そんな感じも抱いていた。松吉を見る彼女の目が、何だか妙な感じなのだ。すぐにソッポを向くし。ブツブツ呟いていたかと思えば、急に大声を出したりするし。松吉は疑問をぬぐえない。
松吉は、みどりが言っていた内容を思い出す。月に照らされつつ寮に向いながら、道々考える。
(去年の学年末試験が最下位だったのは、病気のせいって言ってたけど……)
(何の病気だろう? 治ったかって訊いたら、何か曖昧な反応だったし……でも、そんな重大な病気を抱えているようには、見えないし……だいいち、そんな病人に対して、学園も幾ら校則だからって、ハードな便利委員を押し付けやしないだろうし……)
(そもそも学年トップが、そんなドンケツの成績に転落するってこと自体が、何か、物凄く不自然な感じがするんだよなあ……)
道々考えていた松吉は、いつの間にかみどりのことばかり考えている自分に気付き、思わず苦笑した。
広場を横切り、バスのターミナルを横目で見ながら歩いていて、
「あれっ?」
と、見覚えのあるボブカットに目を留める。そう、他ならぬそのみどりがベンチに腰掛けていたのだ。
「井戸口さん!」
松吉の呼び掛けに、みどりは肩をすくめながら言った。
「最終乗り遅れちゃった」
みどりと松吉は二人、肩を並べて満月の照る中、歩いていた。道中、ぎこちない沈黙が支配してしまうのが、何やら気まずい。
松吉は空気を変えるため、色々みどりに質問をすることにした。
「井戸口さん、今日、男湯に乱入して来たあのポニー・テールの子は……」
「ああ、錦小路さんね。わたしと同学年、二年C組の錦小路茂菜香。旧侯爵家の出で、田中財閥の御令嬢」
「田中財閥?」
「知らない? 彼女の父親は、じゃぽん国を代表する財閥の長で政界にも顔が利くと専ら言われている、田中龍角さんなの」
「へーえ。あれがねえ……」
松吉は、あの時の茂菜香の身をくねらせる姿を思い出し、
「そんな家なら、わざわざ学園の風呂なんかに来なくても、良さそうなものなのにな」
と、その疑問を口に出す。みどりはそれを受けて言う。
「彼女が学園の保養施設に来るのは、一種の趣味なのよ。ああやってしょっちゅう、男風呂を覗いてるわ」
「まさに変態だな」
松吉のその言葉に、みどりが薄く笑う。その姿が大層斬新なものに、松吉には映る。
(そういや、初めて笑ってるとこ見たな)
みどりがクスッとして拳で口を押える仕草。目を細めたその造作。松吉は、ふとドギマギして目を空にそらす。
空に瞬く真ん丸お月。
「そんな変態こそ、とっとと捕まえて便利委員でも雑用でも何でもさせりゃいいのにな。ああいう手合いにゃ、そのほうがいい薬になる」
「ほんとにね。でも擁護するわけじゃないけど、彼女も家では寂しいのかも。ああやってわざわざ学園の風呂に来るのも、その表れなのかも。誰かに自分を見てほしいって、そう思ってるのかもね」
松吉の脳裏に、茂菜香のふんわりとしたポニー・テールと、松吉の言葉を受けて夜の道に立ち尽くしていた茂菜香の姿が思い出される。
「だとしたら、ちょっと可哀想な子だな」
松吉のその言葉を受けて、みどりが、
「気になるの? タイプとか?」
と言う。松吉慌てて首を振る。
「まさか! 何で俺が」
松吉は、話題を火魅子のことにシフトした。
「実は、あの後、俺、娯楽室で恐怖体験があって……」
松吉は続いて、あのスケバン女の話題に移ろうとした。
「恐怖体験? 霊でも見たの? 実は学園でね、不思議なものを見たっていう話、結構多いのよ。満月くんももそうなの?」
みどりの問いに、松吉は肩をすくませながら、
「霊なんかよりも、よっぽど恐ろしい、得体の知れない、わけの分らないものに遭遇したんだ、俺」
と、娯楽室にみどりが来る直前まで、スケバンの火魅子とその配下とおぼしきメッシュに絡まれていたことを説明する。
「それは三年E組の耶麻田井火魅子さんね。彼女の実家は横浜。耶麻田井国の総領娘」
「何で横浜で耶麻田井国なんだよ。しかも字が違うし」
「耶麻田井国って言うのは、会社の名前。建築会社のお嬢さんなのよ、彼女」
「あれでお嬢さんねえ……」
「確か、彼女のお父さんの名は玉井万五郎。お母さんの名は玉井金」
「あんた良く知ってるね。て言うか、凄い名前だな。どうでもいいけど、親子で苗字が違うじゃん」
松吉の突っ込みが奔流する。みどりはしかし顔色を変えずに、最後の質問にだけ、こう答えた。
「どうも家庭の事情が複雑らしいわ。詳しいことは知らないけど。あなたと同じで、高等部からアンドロポフに入学して来た人よ。彼女は女子寮住まい」
男子寮と女子寮は、お互いに目と鼻の先に位置している。松吉は、あんなのが近くに居ることに対して、ただ溜息あるのみだった。寮でも番張ってるんだろうか。松吉のそんな思いを察してか、みどりが言う。
「耶麻田井さんなら、大丈夫。彼女、確かにちょっと変わってるけど、ああ見えても義理人情に厚い人だから。でもどうして、三日月くんにインネン付けたというか、絡んだのかな。あなたがちょっかいを掛けたってわけじゃないでしょう?」
「ちょっと注意しただけだよ。あと、俺があのスケバン女の、わけの分らない変な口上とやらに途中で突っ込んで止めてしまったから、あのスケバン女、それで怒ったのかな」
「あの人は、そんなことぐらいで本気になって怒るような人じゃない筈。だから気にすることないわ。多分冗談でしょうし。でも、冗談でもそういうことをする人じゃない筈なんだけど……変ね」
みどりは首を傾げていたが、やがて、
「まさか」
と。さらに、
「まさか……でも、ありえないことじゃない……」
と、何やら思い当たる節があるような、そんな様子で言う。
「何か心当たりでもあるのか?」
松吉がみどりに尋ねる。が、みどりは否定する。
「いえ、ない」
「何か知ってるんだったら、教えてくれよ。気になるじゃないか」
松吉のさらなる問いにも、みどりはなお否定の姿勢を崩さなかった。
「知らない。でも、大丈夫」
松吉はみどりの言う言葉の意味が分らず、なおも問い詰めようとしたその時。
「えーん」
子供の泣き声?
松吉とみどりは、二人、顔を見合わせる。えーんって……。
二人が目を凝らした先、電柱の陰に、一人の女の子が蹲っている姿が見える。
「迷子か?」
松吉がその子に近付こうとした、まさにその時。
「紅林さん!」
みどりがそう発した。
「紅林さん?」
松吉が、電柱の陰で蹲るその女の子を見る。
その女の子は年の頃、だいたい小学校の中学年ぐらいであろうか。そう思われた。臙脂色の吊りスカートを履いて、頭の左右にはツイン・テールの二つのお下げが、ちょこんとぶら下がっている。
くりくりとした目。おちょぼ口。卵形の輪郭。今は泣き顔だけど、笑うとさぞ可愛らしきことだろう。スカートから覗く足のラインが、意外にもスラリとしている。自分の涙目を盛んにこするその指もまた細長く、まるでピアニストのようだ。鼻をくすぐる、ローズの微かな香り。
女の子は泣きじゃくっている。いずれにしても、ただ事とは思えず、松吉が女の子に駆け寄ろうとしたその時、
「紅林先輩、どうしたんですか? まったく、もう高校三年生でしょ。そんなに泣いたりしちゃ、ダメじゃないですか。夜に一人でこんな所に居ちゃ危ないです。誘拐されても知りませんよ」
と、みどりが先にスタスタと女の子に歩み寄り、その二つお下げ頭を撫でる。
「おお、よしよし、よしよし」
「み、みどりちゃあん……プーさんのぬいぐるみが、電線に引っ掛かっちゃって、と、とれないんだよう。うえーん」
紅林先輩と呼ばれた、その、どこからどう見ても十歳ぐらいにしか見えない女の子は、しかし自分がみどりに先輩と呼ばれたことも否定せず、盛んに泣きべそをかいている。
みどりはみどりで、ひたすらその「紅林先輩」とやらを、あやし続けている。
松吉は、まるで自分がガリバーにでもなったような、そんな気がした。いずれにしても、何か、何か物を考えなければ頭がおかしくなってしまう。そんな必死の思いが、今の松吉を支えていたのである。
「こちらは三年S組の、紅林まりんさん。紅林さん。こちらは今期のわたしと同じ便利委員で、一年D組の、満月松吉くん」
みどりは、なおも泣きべそをかくその「先輩」紅林まりんの頭を撫でながら、お互いのことを紹介する。
「ぐすっ、ぐすっ」
松吉は口をあんぐり開けたまま、目の前で「後輩」に頭を撫でられながら、泣きべそをかいているその「先輩」まりんを見ていたが、気を取り直して会釈する。
「どうも。一年の……満月松吉……です」
松吉は言いながら、自分の言った一年とは小学校一年のことじゃないよな、と、自分自身に確認する作業を忘れなかった。
「ぶえーん」
またも泣き出すまりん。みどりは困り果てた様子。
「紅林さん……頼むから泣かないでくれないかなあ」
まるで援軍を要請するかのように、みどりは松吉を見やる。松吉は、その泣きべそっ子・まりんに尋ねる。
「先輩、プーさんがとれないって、どこにあるの? そのプーさん」
どうも、子供に話し掛けているような口調になってしまう。まりんちゃん、真上を指差す。松吉がその方角に目を向けると、電線に、確かに熊のぬいぐるみが引っ掛かっているのが見えた。
「いったい、どうやったら、あんな所にぬいぐるみが引っ掛かるんだよ! 何の遊びしてたんだよ!」
松吉の突っ込みに、まりんが泣きながら言う。
「プーさんと一緒にね、電柱に登って、アルプスのおじいさんを呼んでたの。おじーさーん、て」
「どこのハイジだよそれ!」
「でね、降りる時にプーさん忘れて来ちゃったの」
「プーさん忘れてやんなよ!」
みどりがまりんを庇う。
「無理もないわ。満月くん。紅林さんは帰国子女なのよ。紅林さん、あなた、向こうのおじいさんのことを思ってたのね……」
「うん」
みどりの言葉に対して、コクンと頷くまりん。
(あーあー、もう、しょうがねえなあ)
松吉はそう思いながらも、意を決して電柱に足を掛ける。
「満月くん!」
「そんな高くないから大丈夫だよ。ほらよっ!」
みどりとまりんが見守る中、松吉は忽ちのうちにするすると電柱を上り、電線に引っ掛かったプーさん人形を器用にヒョイとつまんで、今度はするすると下り、地面に降り立った。
「はい、まりんちゃん……じゃなかった、まりん先輩」
松吉がプーさん人形をまりんに手渡す。
「わー! お兄ちゃん! ありがとー!」
まりんが満面の笑みを湛えて礼を言うのだが、どうも松吉は調子が狂ってしまう。
プーさんが帰って来て大喜びのまりんを尻目に、松吉はポリポリと頭を掻く。その横でみどりが、
「あなた、凄いわね」
と、感心したように言う。
「よく、ああいうことしてたの?」
「え? ああ。田舎モンだから……俺。木登りは、変な言い方だけど、慣れてるんだ。まさか、こっちで役に立つとは思わなかったけどね」
みどりが松吉をじっと眺めている。松吉はたじろぐ。何だか心なしか、みどりの目線にただならぬものを感じてしまう。みどりの目は、何ともトロンとした目付きをしていて……。
(あれっ?)
松吉は、ふと既視感に襲われた。
(何か以前にも……こんなことがあったような……)
松吉は何とかそれを思い出そうとして、みどりの目をもう一度見ようとした。
けれど松吉を見るみどりの、まるで愁いを帯びたかのような視線に、思わずたじろいでしまう。
松吉が視線を逸らそうとすると、今度はまりんの目線に出会う。まりん、目をキラキラ輝かせている。
「お兄ちゃん! カッコイイー!」
松吉はストレートにまりんからそう言われて、すっかり照れてしまう。
「いや、それほどでもないっすけど……」
照れ隠しにみどりのほうを見ると。
みどりが、さっきとは違う目付きでまりんを見ていた。と言うよりも、むしろ睨んでいたと言ったほうが正しいかも知れない。
みどりの目に気付いているのかいないのか、まりんは続けてこう言い放った。
「まりん、お兄ちゃんのお嫁さんになるゥ!」
「なんだってー!」
松吉とみどりが、一斉に声を上げた。
「まりん、もう決めたモン!」
まりんはそう言って、松吉の腕にすがり付く。
「ちょ、ちょっと、まりん先輩!」
松吉はまりんを引き離そうとしたが、まりんから漂う仄かなミントの香りと、その頑是なき愛らしさに正直目がくらんでしまう。
(い、一応、年齢的にはオッケーなんだろうなあ……で、でも、あまりにも見た目が、ロリ過ぎるよなあ。ちょっとなあ……け、決して、い、イヤじゃあないけどさ……)
松吉がそんなことを考えていると、みどりがまりんを松吉から引き離した。
「ほらほら、家の人も心配してますよ。紅林さん。早く帰りましょうね」
「えー、つまんなーい」
松吉はホッとしたような、また逆に、ちょっとガッカリしたような、複雑な心境であった。