第三章 ボーイ・ミーツ・テール
「へいらっしゃい! お一人ですかいっ?」
「便利委員さーん、シャンプーくださーい」
「へい! ヘアーとボディのどっちでゲスかいっ!」
「ヘアーでお願いしまーす」
「便利委員! コーヒー牛乳が切れてるよ!」
「へい! ただいま!」
「便利委員さん! 右端のシャワー、お湯が出ないよ! 早く来て!」
「へい! すぐ行きやすよ! お兄さんちょっと待っててね!」
「おい便利委員! 今週号のジャンプねえのかよ!」
「すいやせんねえ! すぐ補充しときやすから!」
「おやおや、新顔の便利さんだねえ。おめえ、さしずめ江戸っ子かい?」
「あっしは生まれも育ちも清屯の墳土でござんすよっ!」
「便利くーん、背中流してー」
「へい! 合点承知之助!」
(つ……疲れた……)
松吉は、赤富士が描かれたタイルの前で、お湯の抜かれた空っぽの浴槽に身をもたせ掛け、喘いだ。
「は、ハードすぎるだろ……これ……」
松吉は、嵐のような客の要望の数々を思い出していた。
新便利委員に就任した松吉は、聖アンドロポフ学園内にある温泉保養施設への出向を命じられた。
学園には様々な施設が揃えられているのだが、温泉保養施設もある。しかも、その種類は豊富である。
大浴場もあれば、さらにその中に、泡風呂、水風呂、氷風呂、ミスト・サウナにサウナ風呂。それも高温サウナ、中温サウナ、低温サウナ、さらに冷温サウナまであるといった具合。ロシア・サウナや本家フィンランド・サウナまであるのだ。
それ以外にも岩風呂、砂風呂、滝風呂、泥風呂、滑り台風呂、マッサージ・ルームまである始末。さらに、各国各時代の再現風呂というものまであって、ギリシャ風呂あり底の深いローマ風呂あり。それを見て松吉は、テルマエなんちゃらを思い出さずにはいられない。
もちろん温泉冷泉鉱泉も外部に設えられ、肩こり、腰痛、リウマチにも効果抜群と謳われ、学園関係者に大人気なのだとか。
温泉保養施設は専門の職員が居るのだが、いつも人手が足りていない。なので、学園内雑用担当の便利委員に担当させるには、まさに打って付けの場所なのである。
(レジャーランドみたいな学校だな)
松吉は思う。しかし。
(お、俺も、お客として愉しみたいーっ!)
松吉は大理石の床に寝転んで、身悶える。
(そ、そして、可愛い彼女とチュッチュしたい! あ、ああ……あああ……)
松吉は、自分の胸を自分で揉みしだく。その脳裏には。
泥風呂で可愛い彼女とイチャイチャしながら、交互に甘いソフトクリームを頬張る、すると彼女の番の時、
「うう……クリームに泥が付いちゃったよお……」
と言って、彼女泣く。松吉、彼女を慰める。
「おい、泣くなよ。ほれっ。ぺろっ」
「松吉くん! ダメっ! 泥が付いてるのに!」
「お前が付けたもんなら、泥だって何だって……甘いスイーツさ」
「松吉くうん、大好きぃ」
二人、泥にまみれてラブラブラブ。
ああ、スイーツよ。これ即ちわが世の春なるぞ……松吉は「スイーツ」の語感に猛烈なる萌えを感じ、「スイーツ、スイーツ、うれちいなー、でへー、でへー」と、即興のスイーツ・ソングを歌い続けるのであった。
「でへへへへへへへへ」
松吉が恒例の一人二役モードに突入しているその時、
「何、一人で気色の悪いことやってんのよ」
と、聞き覚えのある声が。
松吉は跳ね起きた。声の主が腕組みをして、松吉を睨み下ろしていた。
「終わったんなら、早く帰りなさいよ」
そう言って井戸口みどりが、また、ツン、と顔を背けた。
(こいつ! 可愛くねえ!)
松吉は憮然として、
「そういうそっちこそ、とっとと帰ったらいいじゃん。女風呂のほうも、もう終わったんだろ? 俺なんかに構うことねえじゃんか」
と、ぞんざいに言ってのける。みどりは松吉のほうに向きなおると、その薄いピンクの唇をキッと引き結び、
「別に構いたくなんかないのよ。ただカール大小父に、彼は新参だから面倒見てやってくれって言われちゃっただけ。まったく、やんなっちゃう。何でわたしが、あんたの面倒見なきゃなんないのよ」
と、ぶっきら棒に言い放ち、またも顔を背けた。松吉はそれを受けて、
「誰が面倒見てくれって頼んだよ? カール大小父には俺から言っとく。一人でやれるから、あんたの世話は受けねえってな。それでいいだろ。それで」
と、みどりに向って投げ付けた。みどりはしばらく顔を背けたままだったが、再度、松吉に向き直って、
「そう願いたいわね」
と言って、足早に去ってゆく。
(ほんっと、可愛くねえ女だな! ツンツンしやがって! いったい、俺が何したってんだよ!)
みどりの後姿を見送りながら、松吉はいつの間にか、みどりと同じ腕組みをしている自分に気付き、慌てて振り解いた。
しかし……何かがおかしい。
なぜ、みどりは松吉に対してあのような態度をとるのか。それもあるが、それだけではない。
(何だろう? この気持ちは?)
学寮長室で彼女と会った時から、どうも何かすっきりしないのである。それが何なのか、松吉には分らなかった。
その日も放課後から、温泉施設にて便利委員としてお手伝いの松吉。
(はあーっ)
松吉、番台にて溜息を吐く。吐かずにはいられない。
(これじゃ、高校デビューも夢のまた夢、ってとこだな)
可愛い彼女が出来る兆しもない。何せ、日中はひたすら勉学に励まなければ学習についてゆけないし、休み時間もひたすら予習復習に精を出し、授業が終わったら終わったで、こうして温泉施設にて便利委員としてお手伝い。午後九時に終わればすぐ寮の自分の部屋に帰って、そのままバタンキュー。爆睡。夜が明ける。起きる。食事を摂る。学校に行く。終わってからまた便利委員。その繰り返しなのだ。
しかも、だ。
日中ひたすら勉学に励んでいるにもかかわらず、既に学習課程についてゆくのが危なくなって来ているのだ。
松吉は思い切って、カール大小父に直訴してみた。
「大小父。夜も勉強したいんですけど」
「オー、それは無理もないことでーすが、心配いりまセーン。ちゃーんと、サポート体制は整っているのですーよ」
「と、いうと?」
「考査の一か月前かーら、成績不調の者及び希望者にーは、学園の教師と成績優秀者でー、補習授業などのー、指導することなってマース。またー、希望するのならー、休み時間の補習もー、やってマース。園内にー、補習塾あるのですよー、入学案内にも書いてありマース」
入学案内で確かめてみると、確かに書いてあった。それも、ちゃんと普通の大きさの字で。
(なるほどねえ)
松吉は頭を掻いた。学習関係については、斜め読みしていたので知らなかったのだ。
そんなこんなで、便利委員のノルマは、やはり外せないのであった。
(あの井戸口みどりって子が、もうちょっと優しい子だったらなあ……)
松吉は番台にて頬杖をつきながら、一人ごちた。ボブカットのみどりが、ムスッとして腕組みをしている様子が目に浮かぶ。そのみどりが、ぶっきら棒に言う。
「何なのよ」
「何でもねえよ」
松吉、思わず言葉を発す。発してからハッとした。
(可愛くねえ女!)
とてもじゃないが、あんな女とは関わりたくない。松吉は、頭からみどりを振り払った。
今日はお客が少ない。こういう日もあるのだ。脱衣場では、二人ばかりの男子生徒が居るだけだ。
が、その二人にとっては、さぞ受難の日だったことだろう。
ガラガラガラッ!
出入り口の引き戸が勢い良く開く音。お客さんだ。松吉、体を浮かせ、声を発してお出迎え。
「へいらっしゃい!」
松吉はドアを開けて入って来た客を見て、思わず目を疑った。その新客は脱衣場を目の当たりにして、すかさず大きく一言、こう発した。
「やっだあー! また間違えちゃったあー!」
そう言って大げさに身をよじらせるその客は、ポニー・テールをピンクのリボンで結び、サフランの香りを身にまとった、一人の……十七歳くらいの、切れ長の瞳をキラキラと輝かせた若い娘だったのだ。
そのポニー・テール娘は、盛んに、間違えちゃった、どうしよう、またやっちゃったあ、エへッ❤と舌をペロリと出して、そのくせ全然立ち去ろうともしないし、戸を閉めようともしない。
「やだーっ! エッチー!」
脱衣場の全裸ボーイ二人、忽ち慌てふためき、股間を押さえながら、こけつまろびつ浴場へと猛ダッシュ。
ポニー・テール娘はその様子を見て、
「うーん、なんだー、せっかく久し振りだったのに、今日は少なかったんだ……」
と、テールの先を指先でくるんと撥ねた。
「あ、あのー」
松吉、すっかり似非江戸っ子口調も抜けて、素に戻ってしまっている。
「ん?」
ポニー・テール娘が、とぼけた表情で番台上の松吉を見上げる。
「こ、ここ、男湯なんですけど……あの……女の方ですよね」
松吉の問いに、娘が指をチッチッチと言わせながら、勿体を付けて言う。
「見れば分るでしょ。それとも、あたしが男に見えるっての?」
どう見ても男には見えなかった。松吉は頭を振る。娘が口の端に笑みを浮かべる。
「あなた、新顔くんね。あたしのこと、御存知でないのね」
「全然知りません」
松吉が正直にそう言うと、
「ちょっとあなた、耳貸しなさい」
と、娘が松吉を人差し指で招く。
松吉は次の瞬間、
「あ痛ッ!」
と、叫ぶ。
娘が、松吉の耳を引っ張っていたのだ。
「新顔くん、口の聞き方には注意しなさい」
そう言うと、松吉の耳を解放する。耳を押さえる松吉をあとに、娘は隣の女湯のほうへと入って行った。
女湯の番台に居るみどりの声が松吉に聞こえた。
「いらっしゃい」
その後、さっきのポニー・テール娘の声。
「こんばんは。井戸口さんが今度の便利委員って聞いて、あたしビックリしちゃった。ねえ、何があったの?」
「うん、色々とね……それより、錦小路さんたら、また例の奴やったんでしょ。さっき、男湯のほうから、凄い叫び声がしてたわよ」
「また間違えちゃったの❤ でも、今日は少なかったの」
「悪い癖ね、相変わらず。いい加減にしないと、いつか捕まるわよ」
「おっほっほ。この錦小路茂菜香を捕まえるとは、なかなか見どころがある殿方ね。ぜひ、そんな殿方にお会いしたくてよ」
どうしてこの会話が松吉に聞こえたかというと、さっきのポニー・テール娘が、男湯の戸を閉めて行かなかったからだ。戸が開けっ放しなのであった。
「せめて、戸ぐらい閉めて行けよ。まったく……変な女」
松吉がそう言って、番台から降りて戸を閉めようとした時、
「痛ッ!」
と思わず一声。
「口の聞き方には注意しなさい、って、さっき言ったばっかりでしょ。何回も、同じこと言わせんじゃないわよ。新顔くん」
さっきのポニー・テール娘が、松吉の耳を再び引っ張っていた。しばらくしてその手を離すと、そのポニー・テール娘……会話から察するに、錦小路茂菜香とかいう名前の……は、再び女湯へと、悠々とした足取りで入って行った。
再び耳を押さえて呆然としていた松吉の耳に、女湯の番台から、みどりの声が。
「満月くん。お客さんに失礼な口聞いたらダメじゃない。しっかりしてよ。もう」
松吉は、そのきつい口調に対して、どうして俺が怒られなきゃいけないんだ! と、憤然とせずにはいられない。
(何だよ! まるで俺が悪いみてえじゃねえか!)
松吉は勢い良く男湯の戸を閉めたが、勢いが良すぎて、小指を挟んでしまった。松吉、小指を口に咥えて、
「トホホホホ……」
と、嘆き節。
それからしばらくして、またも男湯の戸が開く音。
「へいらっしゃい!……って……ま、また……」
「今日も楽しかったわん。明日もまた来るから。じゃっ、ねー」
あのポニー・テールの変態娘・錦小路茂菜香が、番台上の松吉に投げキッスをしてそのまま去ってゆく。
松吉は憤然として言う。
「何が『じゃっ、ねー』だ! 変態娘め!」
幸い、脱衣場には誰も居なかった。が……。
「やっぱり我慢できねえ!」
松吉は番台から飛び降りて、開いたままの戸から外に出た。そのまま茂菜香を追い駆ける。
「お客さん!」
ポニー・テールを揺らせて歩く茂菜香の背後から、彼女を呼び止める松吉。
茂菜香が、ピタリと足を止めて振り返る。
「なあに? 何か、ご用かしら?」
松吉は茂菜香をたしなめる。
「これからは、もうあんなことはやめてください。他のお客さんに迷惑ですから」
茂菜香は、松吉の顔をじっと正面から見つめている。
「あなた、あたしに説教する気? あたしだってお客よ。お客に対する口の聞き方が、なってないようね」
松吉は、しかし言葉を止めない。
「迷惑行為はやめてください。あなたのしていることは、逆セクハラです。また、あんなことをなさるんでしたら、出入りを差し止めさせていただきますから。そのおつもりで」
そう言って松吉が持ち場に引き返そうとすると、茂菜香が声を荒げる。
「まあっ! 何ですって! 出入り差し止め? 何よエラそうに! あなた、生意気よっ! 単なる便利委員の分際で、誰に対して言ってるのか、分ってるのっ!」
「便利委員だから言うんです。くれぐれも、お願いいたします」
松吉はそう言って、ペコリと頭を下げた。茂菜香はしばらく何も言わずに立ち尽くしていたが、やがて、
「顔を上げなさい」
と、松吉に向かって言う。心なしか、その声からきつい調子は感じられない。
松吉が顔を上げると、茂菜香は静かに言った。
「あたし、生まれて初めて、人に叱られたわ」
「初めて?」
松吉には茂菜香の言葉がとても信じられなかったが、茂菜香の様子は、嘘を吐いているようには見えなかった。
そして、何だか彼女のしょげたような姿。松吉は改めて茂菜香を眺めやる。
彼女の切れ長の瞳は何を見ているのか。叱られて、半分苦笑をしているような、今の彼女のその表情。目じりを下げたその表情は、先程とは異なる優しい印象を与える。麗らかな瞳が、ひときわ美しく見える。薄い眉が、それにアクセントを添える。かと思えば、くっきりとした二重の瞼が、勝気で利発な性格も同時に表している。
髪を二筋ばかり頬にほつらせたその様子の艶めかしさ。風呂上がりの直後であることを分らせると同時に、その豊かな髪と、まろやかな柔肌を一層浮き上がらせる。甘いサフランの香りが、夜風に混じる。
松吉は、つい、一言付け加えた。
「ご自分のためにも、あんなことはこれ以上しないほうがいいと思いますよ」
「あたしのため? 他のお客さんじゃなくて?」
「ああいう行為を繰り返していたら、いつかきっと、あなたの身に跳ね返って来ます。錦小路さん。ちゃんとルールを守っていただけるのなら、またいつでもお待ちしております。じゃあ、これで失礼します」
松吉は、走ってその場を立ち去ろうとした。走りながら振り返ると、茂菜香がその場に立ち尽くし松吉を見送る姿が、松吉の視界に入った。