第二章 ボーイ・ミーツ・カール
入学式が終わり、新クラスでの顔合わせも終わったあとで、学寮長・カール大小父がお呼びであらせられるから行くようにと、松吉は担任からそのように言われた。
寮に戻り、自分の部屋に帰る前に、一階の長い長い廊下を通って突き当りの奥、ようやっと、学寮長室のドアの前までやって来た。
コンコン。ドアノック。
「入って良し、ざんす」
何かおばさんの声がして、松吉、ドアを開けて入る。
と、そこには……。
「あなたが、満月松吉さん、ざんすね」
頭をお団子のように結い上げて、度のきつそうな銀縁眼鏡を掛けた中年のおばさんが、「ざんす」言葉を吐きながら、松吉を睨むように見る。
「あ、はい」
松吉は返事をしながら、正面の大机に陣取る巨体を見た。妙に顔の濃いおっさんが、紋付き袴姿で座っている。そのおっさんは、
「ハーイ、ハロー。わたし、学寮長の、カールでぇース。カール大小父と、呼んでくだサーイ」
と、自己紹介。これが……学寮長? 松吉は目を疑った。
外国人のようにも見えるが、単なる顔の濃い日本人のようでもあり、松吉はその正体を掴み兼ねた。
「満月さん! 学寮長にきちんとお返事するざんす!」
「は、はろー」
何とも調子の狂ってしまった松吉は、それでも何とか挨拶をした。
「そしてそちらのマダムは、副学寮長の、ミス・チンミン。チンミン女史って、お呼ばれてございマース」
「ただいまご紹介に預かった、チンミンざんす」
そう言って中年のおばさんは、銀縁眼鏡を掛け直す。
「早速でーすがー、そのー、あのー、言いにくいデース。チンミン女史に一任しマース。説明頼みマース」
「やれやれざんすね。分りましたざんす」
おばさん、もといチンミン女史は松吉に居直ると、
「とりあえず、お座りざんす」
「あっ、はい」
松吉はチンミン女史に促され、座卓のソファに腰かける。その対面に、女史が座った。
「単刀直入に言うざんす。満月松吉さん、あなたに六月の中間考査までの二か月間、便利委員を命じるざんす」
「便秘委員?」
「便秘じゃないざんす。便利委員」
チンミン女史が松吉の顔を見ながら、
「あなた、入試の成績、最下位ざんすね」
と言って、松吉を睨む。
「あっ、はあ」
松吉、目を伏せる。
「補欠入学最末席は、入学者の中で最下位の成績ってことざんす。分ってざんすね?」
「はあ」
「よって罰として、今から二か月間の便利委員を命じるざんす。以上ざんす。帰って良し、ざんすよ」
「ちょ、ちょっと!」
松吉は抗議しようとした。わけが分らなかった。どうしていきなり、そんな一方的に命令されなきゃならないんだよ! だいいち、「便利委員」って何だよ! 「罰」って何だよ! 俺、なんも悪いことしてねえよ!
松吉がそう思いながらソファから立ち上がる。と、そこへ、カール大小父の説明が。
「マー、要するにーですネー、この学校にはー、そのー、テストごとにー、そのたびーに、学年最下位の成績の者がー、学内の雑用を請け負うというー、特別職のー、便利委員を務めることになってマース。かようなー、世にも過酷な鉄の掟が存在するのデース」
そんな無茶な! 松吉は豪華な室内の調度が、ガラガラと崩壊してゆく幻を見た。そんなこと、入学案内のどこにも書いてなかったじゃんかよ!
松吉のその言葉に、チンミン女史は入学案内を取り出して、それを虫眼鏡と一緒に松吉に差し出す。
「十三ページの下段の欄外を、よっく見るざんす」
松吉はそれらを受け取ると、案内を開く。件の十三ページ、下段の欄外に、何やら小さい点がいっぱい打ってあるような。それに虫眼鏡の焦点を合わせる。それは字だった。虫眼鏡を当ててよくよく見ると、以下のように書かれてある。
「『便利委員』制度について
本学園の高等部は、学生の勉学意欲を高めるため、入試・中間・期末・学年末・卒業の各学内考査において、その都度の学年最低成績者を、次の考査までの間、学内の雑用に精勤させ、反省の修行をさせておりますので、くれぐれもご了承ください。但し、卒業考査時の最低成績者の場合のみ、便利委員への従事は該当各人の任意とします」
「こんな小っちゃな字、読めるかよ!」
松吉がそう言った瞬間、チンミン女史が睨み付けながらこう言う。
「あなた、校則に従えないのなら、退学ざんすよ!」
松吉は、うなだれた。次の中間考査までの間とはいえ……はあ……めんどくせぇなあ……。と。
そもそも、松吉は勉強が大の苦手だった。一応本人なりに猛勉強して何とか補欠で合格したと思ったら、このザマだ。
そうなると、いつも勉強に集中しなければ、松吉の地頭では万年ビリは目に見えている。ああ……お、俺のいとしい高校デビューが……女の子との、甘い語らいが……甘いキス……甘いソフトクリーム食べ放題……甘いUFOキャッチャー……甘いキューピーちゃん……。
松吉は混乱した。が、
「一応、日当は出るざんす」
とのチンミン女史の言葉に、
「えっ」
と顔を上げる。
「本当?」
「まっ、何て現金な子ざんしょ! 日当出すって言った途端に……」
「ハハハハ、マー、チンミン先生ー、良いではないですかアー。そうなのデース、日当出しマース」
カール大小父が笑いながら言う。
「一日一円デース」
「一円かよ!」
大小父、右の親指と人差し指で輪を作り、
「これはー、一日一善をかけてまーす」
と、ニッと歯を見せて笑う。キラリ光る歯。
チンミン女史が言葉を継ぐ。
「一円を笑うものは一円に泣く……という教訓も込められておるざんす」
松吉はそれを聞いて顔を歪める。
「一円って……何だよそれ……トホホホホ……」
松吉、その場にくずおれた。これもまた、一円に泣くの図。
「そうざんすね。満月さん、今日は特別に、前払いをしてさしあげるざんす。ありがたく頂戴するざんすよ」
「いらねえよ!」
松吉がそう言ったその瞬間、ノックの音が聞こえた。
「お入りざんす」
「失礼します」
そう言って入って来たのは、ボブカットショートのヘアスタイルをした、一人の女子生徒だった。ボブショートの毛先が自然に緩やかに巻かれている。フローラルの香りが、ふんわり立ちのぼる。
彼女の顔を見た途端、チンミン女史は大げさに顔を振りながら、
「まあっ、井戸口さん。あなた、いったいどうしたんざんすの? いつも学年トップクラスのあなたが、よりにもよって去年の学年末試験で最下位だなんて……。このチンミン、ショックざんしたざんす」
と、ハンカチを取り出して眼鏡を拭いてから目頭をぬぐう。
「はあ、色々ありまして……申し訳ありません。わたし、このたびの二年生代表便利委員を務めさせていただきます。よろしく御指導ください」
そのボブカットの女子生徒が、ペコリ頭を下げた。
「まあっ、なんて健気なんざんしょ。くれぐれも、無理はしちゃいけないざんすよ。次の一学期の中間考査は大丈夫ざんすよね。期待しておるざんす」
「はい」
その女子生徒は頭を上げてチラリと松吉のほうを見やり、溜息を吐く。
(可愛い子だな)
松吉は、みどりの顔を見て思った。
大きな目。しかし目じりは鋭い。意志の強さと、聡明さを感じさせる。
まつ毛は長く、その毛先が、瞬きのたびに揺れる。ところがこちらのほうは、いじらしく儚げな、まるで夢にさまよう乙女の姿を感じさせる。
細いながらも引き締まった肢体。くびれたウェスト。すべすべしたうなじ。透き通った、玉のような肌。その肌の艶から、香しきフローラルが辺り一帯に立ち込める。それは花の香り。さながら、健気に咲き誇る可憐な一輪の白い花のようだ。
松吉は何だか、妙な気持に襲われる。
(何かこう……おかしいような……何か変な気持ち……何だろう?)
もしかしたら……松吉は考えた。
この子と便利委員の職務を一緒にするうちに、そこに甘い恋の語らいなんかが生まれちゃったりして……そうしたら、甘いソフトクリームと甘いUFOキャッチャーと甘いキューピーちゃんが……。
松吉は危うく妄想モードに突入しそうになり、慌てて自制した。チンミン女史が、お互いに二人を紹介する。
「こっちが今期の一年生便利委員、D組の満月松吉さん、ざんす。満月さん、こちらはあなたの先輩、今期、二年生の便利委員を務めます、A組の井戸口みどりさん、ざんす」
「井戸口です」
その女子生徒・井戸口みどりは素っ気なく松吉に挨拶する。
(可愛いのに、無愛想な子だな)
松吉は、みどりのボブカットヘアを見ながら挨拶を返す。
「満月松吉です。初めまして。よろしく」
しかし、みどりはツンと澄ましてまま腕を組んでいる。しかも、あっちの方向を向いてしまった。松吉のほうを見ないのだ。松吉は、カチンと来た。
(何だコイツ! 生意気な女だな!)
松吉は、前途多難なものを感じずにはいられなかった。これから、このみどりと一緒に便利委員を務めねばならないのだ。
ふと、あの時の自称坊主の言葉が思い出された。
「おぬしには女難の相が出ておる」
あの坊主、案外当たってたのかも……松吉は一人、そう呟いた。
「遅れましたあ、すんませーん」
その時、若い男の声がして、そいつが室内に入って来た。
「小恋夏さん! ちゃんとノックするざんす! 何回言ったら分るんざんすか!」
チンミン女史の怒声が響いた。小恋夏と呼ばれたその男は、バツが悪そうに頭を掻く。
「すんません、チンミン先生」
「まったく、さすが便利委員最多記録を誇るだけあるざんすね。あなたは。井戸口さん、満月さん、こっちは今期の三年生の便利委員ざんす。B組の、小恋夏中助さん」
「よっ」
小恋夏は、二人に対してなんとも馴れ馴れしい挨拶をかました。が、なぜか松吉は悪い気がしなかった。さっぱりした短髪をしており、なかなか、気さくそうな男ではある。
「これーで、とりあえーず、本日申し渡しの人はー、これで揃いましたねー」
ちょっと引っ掛かる物言いだ。「本日申し渡しの人」って、「全員」じゃないのか。まだ、他に誰か居るのか。松吉は疑問を感じたが、黙っていた。
「それではー、チンミン先生からー、各持場配置のお知らせでえーす」
チンミン女史はカール大小父の言葉を継いで、学寮長席の机上に置かれた三宝の上の巻物を押し頂き、紐解き、広げる。
「それでは、発表するざんす!」