第十三章 ボーイ・ミーツ・カーブ
さて、ついにコンテストの当日がやって来た。
こちらは控室。カッチンコッチンに固まっている松吉。
「あわあわ……」
松吉は、顔も真っ青である。
「それでは、エントリー・ナンバー2番! 小恋夏中助さん、どうぞ!」
本選会場のアナウンスが、控室の松吉の耳に響く。
「えっ? もう、次、俺かよ!」
松吉に付き添っているまりんが言う。
「お兄ちゃん! 落ち着いて! 大丈夫だよ!」
「あ、ああ……」
「さっ! お着替え、お着替え!」
まりんに促される松吉。おニューの御誂えに、いよいよ袖を通す時が来たようだ。
「じゃあ、まりんも会場に行くねっ!」
「よ、よっしゃあ!」
松吉は、その前にトイレに行くことにした。
「ちょっとタンマな」
「もー、早くしてねー」
まりんが会場に向い、松吉がトイレに向う。
その時、誰も居なくなった松吉の控室に、何者かの影が忍び寄る。その者はドアのノブを回し、スッと中に吸い込まれた。
すぐにその者は手に何かを抱えて、部屋から出て来た。そいつは周囲を見渡すと、懐から何やら、ギラリと光るものを取り出して……。
松吉がトイレから控室に戻ると、何か部屋の様子が妙なことに気付いた。
「あっ!」
松吉が、部屋の中央部に置いてある机に駆け寄る。
「ないっ!」
衣装がない! 確かに、そこに置いてあった。それなのに、なくなってしまっている。
「どっ、どうして!」
松吉は部屋中を探し回る。が、どこにも見当たらない。鏡台の上にもない。床にも置いていない。ロッカーの中にもない。念のためゴミ箱の中も見たが、ない。
「どっ、どうしよう……」
松吉は混乱した。どこに行ってしまったんだろうか。まりんが持って行くわけはないし……誰かが……もしかしたら……。
それしか考えられなかった。考えたくないことだが。
時計を見る。針は、二時三十分を指している。
一人当たりのスピーチの割り当て時間は、約二十分から三十分ということになっている。二番の小恋夏がスピーチに入ったのは、ちょうど二時二十分ぐらいだった。
(仕方ないか……)
衣装がどこに行ったか分らないし、新しい衣装を用意している時間はない。こうなったら着替えずに、制服でそのまま出るしかないだろう。
そんな時、控室のドアが無遠慮に開く。
「まっつん! 用意でけたか!」
梅乃が賑々しく部屋に入って来る。その後ろから、火魅子も梅乃をたしなめつつ部屋に入って来た。
「おい、佐渡姐。もうちょっと、デリカシーってもんはねえのかよ。仮にも、男が着替えしてる部屋に、ノックもなしでいきなり入る奴があっかよ」
しかし梅乃と火魅子の目に入って来たのは、制服姿のままの松吉。
「何や? どないしたんや? もうそろそろ時間やで。何で着替えてへんのや」
「うん……実はそれが……」
「松。服が見当たらねえようだけど」
「ごめん……さっき俺、トイレに行って戻って来たら……」
松吉の説明に、梅乃と火魅子がいきり立った。
「何やてぇ!」
「何だとぉ!」
うなだれる松吉。
「ホントごめん! せっかくみんなが俺のために、お金を出し合ってくれて、用意してくれた衣装だったのに……」
その時、コンコンとドアノック音。
「コホン。井戸口です」
「おう、井戸か。ちょっと待ってな」
火魅子がドアを開けてやる。みどりが立っていた。
「やっぱり、あなたたちも来てたのね」
室内の火魅子と梅乃を見て、みどりが言った。そんなみどりに、梅乃がすかさず状況を説明する。
「ええっ!」
みどりが、今まで示したことのないような表情をした。
「もういっぺん、探してみようぜ。どっかにあるかも知れねえ」
火魅子が言うと、みんな一斉に、部屋中を探し回った。廊下にも出て、そこらを探し回る。
「ゴミ箱……」
みどりが、廊下のところどころに設えられたゴミ箱を見た。
「まさか!」
みどりが猛然と廊下の各所のゴミ箱を、片っ端から倒し始めた。と、その中の一つから……。
「畜生!」
火魅子が、ばら撒かれた箱の一つから出て来た物を見て頭を抱える。
「どこのどいつじゃぁ! こないなことしくさったバカタレはぁ!」
梅乃が、それを見て激しく毒づいた。
松吉も、それを見た。
松吉が着る筈だったスーツだ。が、もう着ることなどできないくらいに、上下とも、それは無残にも破かれ、切り裂かれ……。
みどりが、そのスーツを手に取る。
「ああー!」
激しい嗚咽が聞こえた。
「井戸……」
「井戸やん……」
みどりが泣いていた。激しく、しゃくり上げながら、スーツを胸に抱き締めて。その場にへたり込んで。
それは未だかつて、誰も見たことのないような、みどりの号泣だった。みどりの魂が、その口から全部抜け出てしまうのではないかと思うくらいの、凄まじい泣きっぷりだった。
「エントリー・ナンバー3番の満月松吉さん。至急、舞台の袖においでください」
アナウンスがこだまする。時計の針は、二時五十分を指していた。
梅乃も泣き始める。
「ぶわーん! ぶえーん!」
火魅子も、
「おめえら! 泣くんじゃねえ! 泣くんじゃねえよぉ! ち、畜生ッ!」
と、言いながら、涙の筋を頬に垂らす。
「どうしたの? あなたがた! こんなところで? 松くん、そろそろスタンバイしなきゃ!」
茂菜香が廊下に居る一同の許に、駆け寄って来た。梅乃が鼻紙で涙をぬぐい、ついでにハンカチで鼻をかんで、茂菜香に訴える。
「モナやん! えらいことなんや!」
みどりが泣きながら抱きかかえる「もの」を見て、茂菜香もだいたいの事情を、悟ったらしかった。
「ひ、ひどすぎますわ……」
そう言って、彼女もまた両手で顔を覆い、涙にくれる。
「エントリー・ナンバー3番の満月松吉さん。至急、舞台の袖においでくださいっ!」
アナウンス。さっきより苛立たしげな様子なのが分る。
「お兄ちゃーん! みんなー! どうしたの! 早くしないと、棄権扱いになるよおっ!」
会場から様子を見に来たまりんの声だ。まりんが駆け寄ってくる。が、次第に、その足のスピードが落ちる。廊下に佇む一同の只ならぬ様子を見て、彼女もまた、訝しく思ったことだろう。
まりんは、みどりが泣きながら抱き締めている「もの」に目を留めた。
「その、みどりちゃんが抱いてるのって……お、お兄ちゃんの……まりんたちみんながプレゼントのお金を出し合った……服……お兄ちゃんの……お兄ちゃんの……」
まりん、忽ち顔を歪める。彼女もまた、事情をはっきり悟ったのだ。
「うわーん! ごめんなさーい! ごめんなさーい! まりんのせいなんだー! まりんが、あの時、お部屋でお兄ちゃんの帰りを待ってあげてたら、こんなことにはならなかったんだー! ごめんなさーい! ごめんなさーい!」
女たちは、全員泣いた。
が。
松吉は泣かなかった。
泣いてどうなる。え、そうだろ?
「おめえら、泣くんじゃねえ!」
この発言、火魅子が言ったのではない。
松吉だ。
「そうだぜ。松の言うとおりだ。泣いたって、しょうがねえ。こうなりゃ、犯人探しはあとだ。松。そのまま制服で行って来い」
火魅子が涙を袖でぬぐう。
「止むを得ませんわ。そうなさいませ。松くん」
茂菜香、涙ぐみながらも、松吉の背中を押す。
「残念だけど……もう、それしかないよ……お兄ちゃん……」
まりん、ガックリうなだれながらも、そう言う。
「しゃあない! もう、そのまま行け! まっつん!」
梅乃が松吉の肩を叩く。
「そうね。満月くん。とりあえず、早く楽屋袖へ」
みどりも松吉を促す。
「エントリー・ナンバー3番の満月松吉さんっ! 大至急! 舞台の袖においでくださいっ!」
アナウンスが絶叫する。
松吉は、頭を横に振る。
「いや」
一同、松吉の顔を凝視する。
「このままじゃ行けねえ」
松吉は、拳を握り締める。
そう、このままじゃ。
「おい、みどり」
「は、はい」
急に名前を呼ばれて驚いたのか、みどりは大きな目を見開き、松吉に対してまるで条件反射のような返事をした。
スーツの残骸を抱きかかえたみどりに、松吉が呼び掛けた。
「そのスーツを貸せ」
松吉が、みどりの手からスーツを引っ手繰るように奪い取る。次いで女たちの前で、制服のボタンを外し、制服のネクタイを外し、制服のズボンのベルトを外す。
「切り裂かれちゃあいるが、着れねえこたあねえ」
「!」
女たちの共通疑念。共通驚愕。それ、的中ど真ん中。
松吉は、上下ともに無残に破かれ、切り裂かれてボロのようになったスーツの残骸を、自らの身に着けたのだ。
その姿はまるで、ボロをまとったようにしか見えなかった。
「正気か!」
梅乃が松吉をたしなめる。
「まさか、まっつん、あんた、そんなもん着て出るんか!」
「梅乃。俺は正気だ。心配するな」
茂菜香も松吉に言う。
「松くん! お気を確かに!」
「茂菜香。俺は大丈夫だ」
まりんも、松吉に泣きながらすがる。
「お兄ちゃん! ダメ! ダメだよう! どうして!」
「まりん、泣くな。俺はもう決めた」
火魅子が、松吉の決心の後押しをするかのように言う。
「松。もうアタイたちに、おめえを引き留めるこたあできねえようだな。まったく、おめえって奴はよぉ……」
「おう、火魅子。俺は行かせてもらうぜ」
みどりが、静かな口調で松吉の名を呼ぶ。
「松吉くん」
「みどり。行ってくるぜ」
松吉は、さらに続ける。
「梅乃、茂菜香、まりん、火魅子、みどり……おめえらの気持ち……この満月松吉……この身に……この身にしっかと受け取ったぁ!」
松吉は、ボロボロの衣装を着たその姿で、ガッツ・ポーズを決めた。
「エントリー・ナンバー3番の満月松吉さんっ! 大大大大大至急っ! 舞台上においでくださあーいいいいいっ!」
「のぞむところだぁ!」
松吉が脱兎の如く、韋駄天の如く、廊下を駆け抜け会場へと走り去る。




