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第十二章 ガール・ミーツ・ボーイ

 去年の夏休みのことだった。例年、清屯の墳土村の近く、()()という町で花火大会が行われている。そこに彼女は初めて出掛けた。友達と一緒に。それぞれ浴衣姿に趣向を凝らして。

 花火を見ていて、見惚れて、いつの間にやら、彼女は友達とはぐれてしまった。

 携帯もつながらず、途方に暮れた彼女は友達を探したけど、なかなか見付からない。やがて、人通りのない寂しい道に出た。

 そうこうしているうちに、慣れない下駄で歩き回っていたのが災いしたのか、履いていた下駄の鼻緒が切れてしまった。彼女は持っていたハンカチで鼻緒を接ごうとしたけど、やり方が下手で、何度やっても巧くいかない。

 弱り目に祟り目で、その時不意に突風が吹いた。ハンカチが宙に舞った。そのままそれは飛ばされて、傍の百日紅(さるすべり)の木の頂上に引っ掛かってしまった。

 彼女は自分自身、気丈な性質を自負していた。でもその時、自分が自分で思っているほど気丈ではないということを、心底思い知らされてしまった。

 木登りなんかしたことのない彼女にとって、百日紅の木なんか、とても登れるものじゃなかった。木を揺すってもビクともしない。棒か何かで取ろうと思っても、そんなものは近くにありはしない。気まぐれな風は、もう一度吹いてはくれそうにない。今度はハンカチを落としてくれるような親切心を、起こしてくれそうもない。

 一人ぼっちで、彼女は涙が出て来そうになった。その時だった。

「お姉さん、どうかしたの?」

 若い男の声がした。

「い、いえ、別に、何でも」

 女一人で、そんなとこに居るのが不審に思えたんだろう。彼女も内心、最初はその男を警戒し、そのまま立ち去ろうとした。

「ああ、鼻緒が切れたんだな」

 その若い男がしゃがみ込んで、地面に置かれた下駄を見付けた。彼女の下駄だ。

「あっ、いえ、あの、いいですから、急ぐんで」

「でも、これじゃ困るだろ? ちょっと待って、すぐ済むから」

 男はそう言うと、持っていた手ぬぐいで、いともたやすく彼女の下駄を接ぎ直してくれた。早業だった。彼女は感心した。

「あいよっ、一丁あがり」

「あ、ありがとうございます」

「お姉さん、地元の人じゃないね。この先の路地を右に曲がったら、大通りだから。急ぐんでしょ?」

「えっ? ああ、はい。あ、でも、手ぬぐいが。返さなきゃ」

「いいよ。どうせ村の祭りでもらったもんだし」

「で、でも……悪いし……」

 彼女がそう言いながら、百日紅の木の上をしょっちゅう見上げているので、男もそちらに目線を移す。

「あれっ? 何か白いものが引っ掛かってる」

「あっ、あ、あれは、その……」

「お姉さんの?」

「あ、はい、あの、ハンカチが……風で……」

 その男は彼女の言葉を聞くと、

「なるほど。よしっ、ちょっと待ってなっ」

と、百日紅の木の上まで、あっという間に登ってしまった。

 器用にハンカチを摘みあげて、これまた瞬く間に降りて来た。

「はい、これ」

「ありがとう。ありがとうございます」

 彼女は男からハンカチを受け取って、まじまじと男の顔を眺めた。彼女と同年輩か、彼女より少々年下といったところか。眉の凛々しい、さっぱりした顔立ち。

「急ぎのとこ、待たせてごめんね。じゃ、俺はこれで」

 そう言いながら男は、走り去ってしまった。

「あ、待って!」

 彼女は呼んだけど、男はもう行ってしまっていた。


 彼女はもう一度、彼に会いたかった。

 名前も聞かなかった。どこの誰かも分らない。唯一の手掛かりは、彼はおそらく地元か、それに近いところに住んでいるに違いないということ。

 彼女は当然、最初は厨呂の町を探した。けど、厨呂は幾つもの村落が寄り集ったところだし、彼女は真倭市という真逆の場所に住んでいたから、探索も全然はかどらない。

 彼女は学生だった。彼のことばかり考え、彼のことを探し、そんなことばかりするようになった。

 インターネットにも、無差別に情報提供のお願いをアップした。「あの時の手ぬぐいを返したいんです。心当たりの方は、ぜひ御一報ください」と。でも、全然手掛かりなし。

 彼女は学校の勉強に全く興味を失い、学年末試験で、ついに学年最下位になった。

 ところが、すっかり諦めかけていたある時、思いがけず再会したのだ。彼と。平静を保つために、わざと素っ気ないフリをした。けれど、内心が喜びで溢れた。彼女は生まれて初めて、心から神様に感謝した。

 でも……彼は、彼女のことを全然覚えていなかった。再会した時、彼は「初めまして」と言ったから。無理もない。あれは行きずり。しかし彼女は、理屈ではそう分っていても、自分があれだけ彼を気に掛けたことを否定されたような気がして、怒るよりも悲しかった。彼が近くに居ることを心から喜び、彼があのことをすっかり忘れていることに心から憤った。彼にとっては、そんなことを言われても困惑するだけだろうけど。

 最初はそんなこともあって、わざと冷たい態度を示していたが、それも限界がある。

 彼と初めてまともな会話をした時、彼が送ってってやるって言ってくれた。

 飛び上がるくらい嬉しかったけど、そんな気持ちと裏腹に、彼女はそれを断った。けれど結局、彼女は最終のバスをやり過ごして、ベンチに腰掛けて待った。彼が自分の部屋に戻るためにはそこを通ることを、知っていたから。

 しばらくして、首尾良く彼が来た。あとはわざとらしく言うだけ。

 最終、乗り遅れちゃった……てね。


 彼はモテた。みんなが彼に魅かれた。彼女だけじゃない。でも、その理由は彼女には分る。彼が自分以外の人間にモテる姿を見るのは、当然彼女は面白くない。けれど、彼がみんなに愛されている理由こそ、彼女が彼を愛する理由に他ならないのだ。

 学内で彼は、なかなか人気がある。知らぬは本人ばかりなり、なのだ。確かに彼の出身地や成績で、彼を疎んじてバカにしている者も居るが、それは断じて多数派ではないのだ。彼女はそれを良く知っている。とある委員職を務める彼は学内に広く顔を知られ、しかも基本的に優しくて真面目なので、評判が良いのである。それを知らないのは、本人だけだ。本人は、抱く必要のないコンプレックスに苛まれている。それがどんなに愚かで、無意味で、不要なことか。

 人気があるからこそ、投票で三位に入選したのだ。

 だからこそ、自分の地位が脅かされることに危機を感じた他の上位者が、わざと嫌がらせを言ったのだ。いわゆる、出る杭は打たれるというやつだ。しかし、その嫌がらせを言った男は、憐れむべき輩というべきだろう。

 三位に入選したのは伊達ではない。間違いなく、お嬢様も、スケバンも、ロリっ子も、関西女も、そして彼女も、みんな彼に投票している。だけど。

 それだけの評で三位には入らない。他の生徒の支持も多いからこそ三位に入ったのだ。支持者の中には、温泉やうなぎ屋で彼の人となりに魅力を感じた「お客」が、相当数居ることだろう。 

 罰則である、その委員職をしているからといって、それを一方的に忌避するだけの了見の狭いというか、心の狭い人間ばかりではないということだ。

 その委員職は罰則規定だから彼にとっては迷惑だっただろうが、なかなかどうして、怪我の功名といえるのではないか。彼女にはそう思えてならないのだ。

 従って、彼は本選に出る義務があるのだ。

 その、とある委員職を務める者として、お客に「ご奉仕」しなくてはならないのだ。

 彼はモノではない。でも、だからこそ出るのだ。出てほしい。それが彼の証となるのだ。彼が織り上げてきた彼の歴史の。彼に託したみんなの、そして彼女たちの思いの。


「そうだったのか……」

 松吉は川のせせらぎに目をやりながら、自分が、絶えずみどりに対して抱いていた「妙な気持ち」の正体が、ようやく分ったのだった。

 自分は、みどりとは初対面ではなかったのだ。

 みどりが腕を組んだまま松吉を見下ろして、改めて言う。

「どうなの」

 川のせせらぎの音だけが、二人の間を取り持つ。

「どうなの」

 せせらぎが奏でる涼しげなメロディに、しばし身をゆだねていた松吉だったが、やおら立ち上がると、みどりに対面した。

「出るよ、俺。コンテスト」

 松吉がそう言うと、みどりはツンとしてソッポを向いてしまった。

「当然でしょ。世話が焼ける人ね」

 すぐに、みどりが松吉のほうに向き直る。その顔は微笑んでいた。


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