プロローグ
西暦20XX年。じゃぽん国。清屯県墳土村。
ここに、一人の少年がいる。
名前は、満月松吉。十四歳の中学二年生。
「なぜだ」
松吉は自分の部屋に居た。開いた窓から、夜空に瞬く星を見上げる。
「なぜなんだあーっ」
松吉、夜に吠える。
「なぜ、どうして、墳土の夜は、牛の鳴き声しか聞こえないんだあーっ」
松吉、ホロホロと涙を流す。その鼻に、プーンと漂う肥料の香り。
「モー」
その耳に、盛りのついた牛さんのわななき。
「モーって……もー、もー、もういやっ! こんな生活っ! いやっ! いやっ!」
松吉は煎餅布団に突っ伏して、激しく頭を振る。
墳土村は、全村の軒数が百軒足らずの田舎の村。店はない。あるのは壊れた自動販売機だけ。十年以上も、壊れたままで置きっぱなし。
それなのに学校は、一応ある。あるが、一学年一クラスで、各クラス十五人も居れば良いほう。少ないと八人くらいしか居ない。小学校も中学校もそうである。
十四歳の満月松吉。彼は田舎暮らしに飽き果てていた。
松吉はある日、クラスメートと一緒に、生まれて初めて同じ清屯県の真倭市に行った。
彼はこの時の衝撃を、おそらく生涯忘れることはないだろう。真倭市は同じ県ながら、墳土とは真反対の位置。しかし、反対なのは位置だけではなかった。
真倭市の繁華街で、
(これが、あの、噂に聞く「人ごみ」というやつか! やっぱ写真で見るより、凄い!)
(こ、これが、あの、噂に聞く「ビルの谷間」というものか! 山の谷間なら知ってるけど、ビルの谷間は、ナマで初めて見た!)
などなど、松吉は見るもの聞くものすべて目新しく、驚いて目を瞠ったものだ。
中学に入学した頃より、松吉は都会への激しい渇望を覚えるようになっていた。
インターネットでよく色々、そういった都会の情報を仕入れては、まだ見ぬ都会へ思いを馳せていた。が、実際に見る真倭市は、あらゆる意味で墳土村とは違っていた。
真倭市の繁華街には人がいっぱい。いったい、どこからこんなに人が溢れて来るのか、松吉は不思議でならなかった。
繁華街で買い求めて食べるフライドチキンやホットドックの美味しさ。
アイドル・熱田舞子のブロマイドをごく普通に売っていることの衝撃。
そして……デート中のカップルの多さ! あっち見てもこっち見ても、イチャイチャイチャイチャ。あっちでもイチャイチャこっちでもイチャイチャ。
(これが噂に聞く「バカップル」ってやつか……)
意味なく見つめ合う二人、肩寄せ合う二人、頬寄せ合う二人。
何より松吉にとって一番憎たらしかったのは、一個のソフトクリームを交互に舐めている二人だった。その姿を見て松吉は、涎が垂れそうになった。ソフトクリームが食べたかったのではない。いや、ちょっとはソフトクリームも食べたかったが、それよりも何よりも、
(お、俺も、あんなことやりたい!)
という熱い思いであった。
また、その二人の会話の憎たらしいこと。
女のほうが、
「いやあー、UFOキャッチャーするのー」
と、男のほうにおねだりをしている。男のほうも男のほうで、
「バカ。チュッ」
とか言いながら、女の瞼にキス。
「いやん」
女、身をよじらせて男にしなだれかかる。もう、見ちゃいられない。
松吉は、
(フン!)
と、カップルを睨み付けて、仲間とともにその場を去った。
繁華街でたむろしている学生たち。おそらく高校生だろう。コーラやジュースを飲みながら、ワイワイガヤガヤ。コンサートがどうのこうの、チケットがどうのこうのと、実に楽しそう。
洗練されたデザインのブレザー。いかにも都会人といった身のこなし。真倭市の、どこの高校生だろう?
松吉が彼らの鞄を見ると、「∩」のマークが。ブレザーの上着の胸にも、同じマークがある。校章だろうか。それにしても休日なのに、学校があるのかと松吉は訝ったが、
「補習だりいよなあ。せっかくの休みなのによ」
と、彼らの中の一人が言ったので、納得した。彼らの中にも、カップルらしき存在が数組居るようだった。やはり、ワイワイと楽しそうにしている。こんな会話も聞こえた。
「補習終わったら、テニーズでランチして、遊園地行って、シネコン行って……」
松吉は、まるで外国人でも見るかのような目で彼らを見ていた。じっと、見つめていた。
その帰り道。松吉はカルチャー・ショックの興奮も冷めやらず、電車の中でも半ば上の空であった。
墳土村から二十キロ離れた嘉羅駅で降りて、そこのバス停から、バスに揺られて村へ帰る。松吉は揺れるバスの中、窓外に広がる田畑を眺めながら、ある決意を固めていたのである。
「俺、絶対に高校は、真倭市の学校に進学するんだ」
進路相談で、松吉は真倭市にある聖アンドロポフ学園高等部を第一志望として提出した。第二志望、第三志望もすべて、真倭市内の学校で占められていた。
両親は驚いて、なんでそんな遠いところに行くんだ、高校なら地元でいいだろと松吉に行ったが、松吉は頑として受け付けない。
松吉は聖アンドロポフ学園に入学したら、寮に入るつもりだった。学園には寮があるのだ。
学園は私立ではあるが学費はそれほど高くはなく、また、受験レベルもさほど高いわけではなかったが、何せ小中高一貫校で、一応は名門と呼ばれる部類。但し大学は付設してはいない。
両親も、別に悪いことをするわけではないのだし、アンドロポフ学園といえば一応通りは良いし、と、入学を許してくれた。
アンドロポフ学園を受験した結果、補欠合格通知来たる。そして、その十日後……。
正式に入学許可の通知が舞い込んで来た。『このたび、入学辞退者が出ましたので、補欠最末席の貴君に、正式に入学を許可します』と、その通知には書かれていた。
「やったあ!」
牛の乳搾りを手伝っていた松吉は、思わず牛に抱き付き、頬ずりをした。
けれど、こうして牛に触れることもしばらくできなくなるんだなと思うと、不思議にも松吉は、少し何か寂しいような、そんな心持ちもするのだった。