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虹色ソーダ水

 起きてリビングに下りてみたら、慌ただしく支度をする母親と 一匹の仔猫と 金魚が居た。

「そう、前から言ってたでしょ、実験体のEn.G.Fa.Ne.よ。一週間ウチで適応を見ることになったんだけど、研究所から出動要請掛けられちゃって――どうせ夏休みでしょ、今日だけでいいから家で面倒見てて、ね、お願い」

 私の問いかけに、畳み掛けるような返答を残して 母は出掛けてしまう。

 一応エリートと呼ばれる研究機関に勤めている母は、朝から晩まで家に居ないことが多い。

 中三に成長した今までの記憶で、母が夏休みに居たことは皆無だった。

 忙しなく出かけてしまった母親が居なくなって、あたりはしんと静まり返る。

 残されたのは、命令を仰せつかった娘の私。

 ローテーブルの上でゆらゆら泳いでいる金魚。

 それから リビングのソファの上でみゃあみゃあ言ってる 仔猫。

 いや。研究所で育てられた、『猫』とは呼べない実験体――En.G.Fa.Ne.(エングファーネ)だった。



   虹色ソーダ水



 蝉がうるさい。

 猫もうるさい。

 だるい身体で起き上がった私は、母のおしつけと二つの鳴き声で さらに気が重くなった。

 窓を閉めて、クーラーをかける。多少は蝉の声も遮断できた。

 朝起きてすぐにはご飯を食べれない私は、仕方なく食器棚の下から金魚用のえさを取り出す。

 ローテーブルの上の金魚鉢には、縁日ですくった赤い金魚が 一匹 泳いでいた。

 乾いた粉末を二振り流す。名もない金魚は ぱくぱく口を開けて、水ごと飲み込んだ。

 飼い金魚の様子ではなく、私は水中を眺めてみる。

 金魚鉢用のポンプを入れた水の中は、向こう側の世界を歪曲して映していた。細かい泡が不規則に上へ上っていく。

 炭酸水みたいだ、と思った。泡が水面へ向かう、口の中で弾ける透明な飲み物。

 ――どうしてソーダの中から泡が出てくるのかな、って思ってた。小さい頃の話だけど。

 あの縁日の帰り。この金魚とラムネを買ってくれた人に、私は言った。

 隣を歩いていた 優しくて大きな存在は、きみは小さい頃も言ってたよと笑った。

 ――もう忘れてしまったかい? ぼくはきみにああ云ったのに。

 …ううん、私は覚えている。だけどもうおとぎ話を信じる年じゃないから。目の前にあるものしか信じられなくなってしまったから。小さい頃のいい記憶なんて、数えるくらいにしかないから。

 不定期に泡を出し続けるポンプ。ソーダのようにシュワシュワと音は立てない。

 楕円の硝子容器は 向こう側の世界を歪曲して映した。そして、ふいに見慣れない生物の顔も、ゆがんでアップにした。

 ……いつのまにか仔猫が、ローテーブルに上がっていたのだ。

 みゃああと鳴く仔猫の仕種は、何も知らない人が見たら愛らしいものだっただろう。

 アメリカンショートヘアーの姿で、まんまるい目で、うごうごと歩くちみっちゃい生き物。

 …でも、この外観生後4ヶ月の猫が……実際にはもう5年も生きていると知ったら?

 成長因子を細工して、シグナル経路や組織発生、細胞分化と胚発育をある程度まで抑えた実験動物Aだと知ったら?

 “Encephalon/Growth Factor/Neuron”……各々の頭文字を読みやすいように取り、つけられた名前。

 それが、母を含めた研究所員たちの手による……脳細胞の研究の一環として成長を止めさせた、En.G.Fa.Ne.という生体名の動物だった。

「En.G.Fa.Ne.はね、羊のドリーみたいなものなのよ。公にすれば、科学進歩を理解できない大衆の是非論やら倫理論がくっついて回る。それでも人類の科学と医学に貢献していることに間違いないわ。人間に応用できれば きっと悪性癌細胞だってなんだって、成長を止められるはずなんだから」

 興奮気味に話す母は、En.G.Fa.Ne.を科学の結晶とでも言わんばかりだった。エングファーネ、と確かに固有名詞を言っているはずなのに、論文のデータ名を発言しているようなニュアンスだった。

 ……じゃあ『それ』を生み出したあなたたちに罪はないの?

 私は一度も口にしたことがないけれど。

 ……お母さんは、私も実験作として産んだの? 父親も種で選んで、完成した個体を育てたから、それで満足なの?

 私はまだいい子でいるけれど。

 ……私は、どうして成長なんかするんだろう。ただ死んでいくだけなのに、細胞が分裂したんだろう。

 生み出すほうも、生み出されたほうも、不幸だと思う。

 大衆に倫理論を問われる実験体の猫も、勝手に世界に放り出された私も。

 

 ぼうっとしてしまっていたのがいけなかった。

 がしゃああん、と音がして、私ははっと顔を上げる。

 床には、割れて散らばった金魚鉢の硝子の破片。

 空中に放り出されたポンプが、ブ―――ンと床で唸っていた。

 一面水浸しで、ローテーブルからも垂れ流れている。

 そしてその残った水の上で、ぴちぴちと跳ねている――金魚。

 私がぼんやりとしている間に、仔猫がのぼって 金魚鉢を思い切りひっくり返していたのだ。

 金魚をすくいあげなきゃ、と頭ではわかっていた。とりあえずバケツにミネラルウォーターを入れて。ポンプを入れて。それから水槽を探して。たった一匹の、縁日でお金を払ってもらって、私がすくいあげた、赤い金魚――

 仔猫が、その跳ねる生き物のひれを、爪で引っかいていた。

 爪の跡が痛々しくひれに残る。先端が少し引き裂かれた。びちびちと跳ねる物体を面白く思ったのか、仔猫はそのうち咥えて顔を左右に振る。甚振ることを覚え、ぼとりと叩き落すと、足で、踏んだ。

 最初はばたばたしていた金魚も、だんだんと動かなくなった。

 ポンプの空回りする音も、そのうちに止んだ。

 しんとあたりが静まり返った。

 ローテーブルからフローリングに垂れ流れる水滴だけが、間隔を開けて響いた。

「ばか…… お前、どうしてくれるのよ」

 仔猫は金魚が動かなくなったことを知ると、つまらなくなったのか 見向きもしなくなる。

 ばかなのは私だ。

 甚振る猫を、もがく金魚を、ただ傍観していた。

 自由にさせてあげたい、と何処かで思ってしまった。

 この狭苦しい鉢の中でとらわれたまま一生を送るよりは、解放してあげたほうがいい。

 勝手な言い分を、エゴを、押し付けてしまったのだ。

 私は成長してしまうから。なのにどこにも行けないから。この猫と同じように、勝手に産み出された生き物だから。

 ――ねぇ作家さん。どうしてソーダのなかから泡がたくさんでてくるの?

 幼い頃、私は陽だまりみたいな存在にそう尋ねた。

 カナカナと蜩が鳴いていた。暑い日の終わりだった。文を書くことを生業としていた父は、たまに家に訪ねていくと、決まってソーダを注いで出迎えてくれた。黙って文を書く優しい背中が、とても安心できた。

 ペンを持つ手が止まって、和服を好む父が振り返った。

 ――うーんと、そうだなあ。

 父は苦笑いすると、頭をひねって、こう答えた。青い藺草の匂いがあたりを包んでいた。

 ――泡はさ……生まれてくるんだ。水面の向こうがわへ行きたいと願って、ひとつひとつ出てきたんだ。

 ――みなもの…むこうがわ?

 私がきょとんとしていると、父は頷いた。

 ――そう。ぼくたちのいる世界だ。自由になりたい、解放されたいと思い続けて、泡は、ソーダの中から生まれてきたんだよ。……きみと同じようにね。

 泡は、空気になりたいと思って ソーダの中から出てきた。自由になりたくて、瓶の中にいるのが厭で、水面の向こうがわを目指して生まれてきた。

 でも 本当に自由になるとは、見えなくなること。姿を消すこと。

 私がやっと出てきたこの世界は、空が広がるだけだった。

 見えなくなることでしか、新たな向こうがわへは行けない世界だった。

 …とらわれの金魚は、自由になれただろうか。

 閉ざされたこの広大な檻で、私と仔猫は、いつ自由になれるのだろうか。

 見向きもされなくなった動かない金魚を手ですくった。散らばった硝子を集めるより先に。垂れ流れた水を拭くより先に。

 私のてのひらのなかに、濁った目をして、口を開けたままの赤い物体がある。

 つんと鼻につく生き物の穢れた匂い。

「……お父さん。お母さん」

 どうして、こんなに胸が締め付けられるんだろう。

 どうして、その呼称を口にしてしまったんだろう。

 一度だって、私は三人で過ごした思い出なんてないのに。

 暑い夏。動かない金魚。誰もいない家。散らばった硝子。水浸しの床。死臭。残されたのは、私と成長しない仔猫。

「――エングファーネ」

 私と同じ存在の 孤独な仔猫が、名前を呼ばれて反応した。

 首輪の鈴が、涼しい部屋にりりんと鳴った。

かぎりあるもの。それを知りながら生きていく。生暖かい空気のなかを、ゆるり、ゆるりと。

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