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二通の手紙と反省文が幼馴染から恋人になるきっかけでした。

作者: バカヤロウ
掲載日:2026/10/30

間に、さざ波のような黄色い歓声とため息が広がった。

そんな眩しい光景を、二階の渡り廊下からぼんやりと見下ろしている少女がいた。

篠宮小春。

肩まで伸びた黒髪は、朝起きてから手櫛でまとめただけの無造作な一つ結び。少し長めの前髪の下には黒縁の眼鏡があり、制服のブレザーの下には、少し着古したくすんだベージュのカーディガンを着込んでいる。

小春は冷たい手すりに肘をつき、ずり落ちてきた眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げた。化粧にも、流行りの髪型にも、スカートを短くすることにも興味がない。友人たちからは何度も「小春は目を隠してるのがもったいないよ、ちゃんとおしゃれすれば絶対かわいいのに」と言われてきたが、当の本人にはまるでピンと来なかった。鏡の前で時間をかけるくらいなら、鞄に入っている読みかけの文庫本の続きを、一ページでも多くめくりたいと思ってしまう。

ただ、一つだけ。

活字の世界よりも、どうしても小春の視線を奪ってしまうものが、今、目の前にあった。

「……相変わらず、人気者だなあ」

中庭に面した廊下を歩く遥斗の背中を見つめながら、小春は誰に聞かせるでもなく小さく呟いた。カーディガンの萌え袖をぎゅっと握りしめる。

彼が女子生徒たちに囲まれ、華やかな笑顔の中心にいる光景は、高校に入ってからもう何十回、何百回と見てきたはずだった。それなのに、見慣れることはない。見るたびに、胸の奥の柔らかい場所を、見えない針でちくりと刺されたような鈍い痛みが走るのだ。

久世遥斗。

小春にとって、彼は雲の上の王子様なんかではなかった。

脳裏に浮かぶのは、もっと泥臭くて、騒がしい記憶だ。

小学生の頃、得意げな顔でゴム製の虫のおもちゃを小春の靴箱に仕掛けてきた、いたずら好きな男の子。

夏休みの夕暮れ、蝉しぐれの中でザリガニを捕まえようとして一緒に用水路へ滑り落ち、ずぶ濡れのまま二人揃って母親に雷を落とされた男の子。

小春が飼い犬を亡くして庭の隅で声を殺して泣いていた日、泥だらけの半ズボンのまま隣にぺたりと座り、日が暮れるまで何も言わずに寄り添ってくれた男の子。

そして――。

『小春! 大きくなったら、俺のお嫁さんになれよ!』

前歯が一本抜けた間抜けな笑顔で、夕日に顔を染めながら、そんな大それたことを平気な顔で言い放った男の子だった。

「……ばか」

唇からこぼれた言葉は、春の風に溶けて消えた。もちろん、階下の遥斗に届くはずもない。

今の彼は、学校中の女子生徒が熱い視線を送る憧れの的だ。地味で、引っ込み思案で、埃っぽい図書室の隅が似合う自分とは、もう住む世界が違ってしまった。高校生になってから、小春は何度も自分にそう言い聞かせてきた。

けれど、心というものは、理屈や諦めで綺麗に折り畳めるようにはできていない。

小春は手すりから体を離すと、肩にかけた通学鞄の中にそっと手を入れた。指先に触れるのは、上質な紙の少しざらりとした感触。そこには、淡い桜色の封筒が一通、教科書の間に挟まれるようにして入っていた。

机の引き出しの奥に隠していた便箋を引っ張り出し、夜の静まり返った部屋で何度も書き直した手紙だ。言葉を選んではペンを止め、書いては丸めてゴミ箱に投げ入れ、結局、一通を仕上げるのに三日もかかってしまった。昨日の放課後、一度は下駄箱の前で渡そうとして、どうしても勇気が出ずに持ち帰ってしまったけれど、睡眠不足で少し重い瞼の裏には、自分が綴ったばかりの文字が鮮明に浮かんでいる。

伝えたかったのは、たった一言。

『遥斗が好きです』

幼馴染としてではなく、一人の男の子として。ずっと前から、あなたのことが好きでした。

小春は鞄の中の封筒を、角が折れないように指先でそっと撫でた。鼓動が早鐘のように打ち始め、指先がわずかに冷たくなる。

「……今日こそ」

自分自身を奮い立たせるように小さく息を吐き出し、小春は階段へと足を向けた。

放課後のチャイムが鳴り響き、校舎全体が部活動へ向かう生徒や帰宅する生徒たちのざわめきに包まれる。窓から差し込む光はすでに黄金色から茜色へと変わり、廊下に長い影を落としていた。

小春は鞄の持ち手を両手で強く握りしめ、旧校舎へと続く人通りの少ない渡り廊下を歩いていた。掃除当番を終えた遥斗が、部活のない日にいつもここを通って帰ることを、幼馴染の習性で知っていたからだ。

角を曲がったところで、目指す背中を見つけた。

しかし、小春の足はそこでぴたりと止まった。

遥斗は一人ではなかった。彼のすぐ目の前には、長い髪を綺麗に巻いた、雑誌のモデルのように華やかな女子生徒が立っていたのだ。

「ねえ、久世くんって、今好きな人いるの?」

「どうだろうね。秘密かな」

「えー! ずるい、ちょっとくらい教えてよ!」

女子生徒が甘えるように声を弾ませ、遥斗の腕に自分の腕を触れさせんばかりに距離を詰める。遥斗は少し困ったように眉を下げながらも、どこか楽しげに、柔らかい声で笑っていた。

夕日を背に受けた二人のシルエットは、まるで映画のワンシーンのように完成されていた。

小春は咄嗟に近くの柱の陰に身を隠し、自分の胸元をぎゅっと掴んだ。肺から空気が抜け落ちたように息が苦しい。制服のブラウス越しに、心臓が嫌な音を立てて跳ねているのが分かった。

――私、何をしてるんだろう。

窓ガラスに映る自分の姿が視界の端に入る。野暮ったい黒縁眼鏡に、地味なカーディガン。あんな風に明るく笑うことも、彼の隣で堂々と顔を上げることもできない自分が、こんな桜色の手紙を渡そうとしていたなんて。

昔、毎日のように一緒に遊んでいたから。

昔、お嫁さんにするなんて言ってくれたから。

そんな、色褪せた子供の頃の記憶を心の支えにして、今の彼にとっても自分が『特別な存在』かもしれないなんて、どうして思い上がることができたのだろう。痛烈な羞恥心と惨めさが、足元からせり上がってくる。

「……帰ろ」

声にならないほど掠れた呟きを落とし、自嘲と共に踵を返した、まさにその瞬間だった。

「あれ、小春?」

背後から、聞き慣れた、少し低くて心地よい声が響いた。

びくりと肩を震わせて振り返ると、いつの間にか女子生徒と別れたらしい遥斗が、長い脚でゆっくりとこちらへ歩み寄ってくるところだった。

「何してんの、こんなところで」

「べ、別に。ただ帰るところだけど」

小春は視線を泳がせ、無意識のうちに鞄を自分の体の後ろへと隠すように持ち替えた。すると、遥斗は「ふうん?」と面白そうに鼻を鳴らし、小春のパーソナルスペースにすっと踏み込んできた。

背の高い彼が屈み込むようにして、小春の顔を真正面から覗き込む。ふわりと、彼が使っている柔軟剤の爽やかな香りが鼻をかすめた。

昔からそうだ。小春が何かを隠そうとしたり、嘘をついたりすると、彼はいつもこうしてずるいくらいの近距離まで踏み込んで、逃げ場をなくしてしまう。

「な、何よ。近いんだけど」

「いや、さっき俺と目が合った瞬間、何か背中に隠しただろ」

「隠してない! 気のせいよ!」

「へえ、そうかなあ」

遥斗の口元が、にやりと悪戯っぽく弧を描いた。

その表情を見た瞬間、小春の背筋にぞっと冷たいものが走った。学校中の女子生徒が恋い焦がれる「優しい王子様」の仮面の下にある、幼馴染の小春だけが知っている顔。カエルを驚かせようとしたときや、小春のプリンを勝手に食べたときにいつも見せていた、あの『何か良からぬことを企んだときの顔』だ。

「そういえばさ」

「……な、何よ」

小春は警戒して一歩下がろうとしたが、背中はすぐに廊下の壁にぶつかってしまった。遥斗はポケットに片手を突っ込んだまま、軽い調子で言った。

「昨日、お前が俺に渡そうとしてた手紙、見ちゃったんだよね」

カチリ、と。

小春の中で、世界の歯車が音を立てて止まった。

「…………え?」

夕暮れの風も、遠くで聞こえる運動部の掛け声も、すべてが遠のいていく。頭の中が、まるで漂白されたように真っ白になった。

見た? 手紙を? いつ? 昨日の放課後、下駄箱の前で渡そうとして、結局勇気が出なくて鞄にしまい込んだ、あの瞬間を? いや、それよりも――中身を?

そこには、誰にも知られたくない、ずっと胸の奥底に鍵をかけて閉じ込めてきた、小春の精一杯の初恋が書かれているのに。

「いや、なんかお前が必死な顔して鞄に――」

遥斗が笑い混じりに何かを続けようと口を開いたけれど、小春の耳にはもう、ノイズのようにしか届かなかった。

熱い血液が、一気に顔面へと沸き上がってくる。

恥ずかしい。恥ずかしい。今すぐこの床が抜けて、消えてなくなってしまいたいほど恥ずかしい。

けれど、それ以上に小春を支配したのは、氷のような恐怖だった。

こんな重たい気持ちを知られてしまったら、もう二度と、今まで通りの「気楽な幼馴染」には戻れない。それどころか、今の遥斗は、小春の気持ちを知った上で、あんな風に余裕たっぷりに、面白そうに笑っているのだ。

――ああ、そうか。私の一生懸命な恋心なんて、遥斗にとっては、からかいのネタにしかならないんだ。

「……っ!」

「ちょ、小春?」

気がつけば、小春は遥斗の脇をすり抜け、全力で走り出していた。

「おい、小春! 待てって!」

背後から、先ほどまでの余裕が消え去った慌てた声が追いかけてくる。革靴がリノリウムの床を蹴る音が迫ってくるが、止まることなんてできなかった。視界が熱い涙でぐにゃりと歪む。こんな惨めで、ボロボロに傷ついた顔を、彼にだけは絶対に見られたくなかった。

廊下の角をいくつも曲がり、階段を二段飛ばしで駆け上がり、ほとんど人影のない三階の女子トイレへと飛び込む。一番奥の個室に入り、重い扉を閉めて鍵をかけた瞬間、全身を支えていた糸がぷつりと切れ、小春は冷たいタイルの上に崩れ落ちた。

「……っ、う……、ひっ……」

声が漏れないように片手で強く口元を押さえるが、堰を切った涙は次から次へと溢れ出し、指の隙間を伝ってスカートに黒い染みを作っていく。

どうして。どうしてあんなに、平気な顔で笑っていられるの。

私にとっては、三日間も眠れずに、手が震えるのを必死に抑えて書いた、人生で一番勇気を振り絞った手紙だったのに。

小春は鞄を胸に抱きしめ、膝に顔を埋めて、夕闇が迫る狭い個室の中でただ一人、声を殺して震え続けた。

一方その頃。

三階の女子トイレの、固く閉ざされた扉の前に取り残された遥斗は、荒い息を吐きながら呆然と立ち尽くしていた。

「……何だよ、あれ」

自分の声が、人気のない夕方の廊下に虚しく反響する。

ただの、ほんの軽い冗談のつもりだった。

昨日の放課後、昇降口の陰で小春が淡い色の封筒を鞄に慌てて押し込んでいるのをたまたま見かけた。誰かへのラブレターか、あるいは友人への手紙か。最近少しよそよそしい小春と、昔みたいに軽口を叩き合いたくて、「俺への手紙だろ」とカマをかけてからかってみただけだった。

いつもなら、「ばか! あんたなんかに書くわけないでしょ!」と顔を真っ赤にして怒り、ぽかぽかと自分の肩を叩いてくる。そうやって笑って終わるはずだったのに。

遥斗は、自分の右手をゆっくりと見つめた。

走り去る直前、ほんの一瞬だけ見えた小春の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。眼鏡の奥の大きな瞳が、今にも決壊しそうなほど真っ赤に潤み、まるで絶望したような色で自分を見上げていた。

あれは、いつもの照れ隠しや怒りなんかじゃなかった。

本気で傷つき、本気で拒絶していた。

「……俺、何をやらかしたんだよ」

遥斗は無意識に自分の胸元を掴んだ。心臓のあたりが、ざわざわと嫌な音を立てて波打っている。

いつも通りの冗談のつもりだったのに、何かが決定的に、取り返しのつかない方向へと壊れてしまったような、底知れない焦燥感が足元からじわりと広がっていく。

何度名前を呼ぼうとしても、喉が張り付いたように声が出ない。返ってくるのは、冷たく閉ざされた扉の向こうからの、耳が痛くなるほど切ない静寂だけだった。

翌朝。

教室の空気は、小春にとって針の筵そのものだった。

「ねえ、聞いた? 昨日の放課後、久世くんが血相変えて女の子を追いかけてたんだって!」

「えっ、嘘! 誰を?」

「それがさ、二年の篠宮さんって子らしいよ」

「篠宮……? 誰それ、どのクラス?」

「ほら、図書委員の。いつも眼鏡かけてて、なんかすっごい地味な子」

「ええっ!? なんで久世くんがそんな子を!?」

廊下を歩く生徒たちのひそひそ話や、教室の隅で固まる女子グループからの好奇と値踏みするような視線が、容赦なく小春に突き刺さる。

小春は窓際の自分の席で、いつも以上に背中を丸め、前髪で顔を隠すようにして小さくなっていた。開いたままの文庫本の文字など、一行たりとも頭に入ってこない。

最悪だ。本当に、これ以上ないくらい最悪の展開だ。ただでさえ遥斗と顔を合わせたくないのに、こんな尾ひれのついた噂まで学校中に広まってしまうなんて。

「……小春、ほんとに大丈夫? 顔色、真っ青だよ」

前の席の親友、七瀬美咲が、椅子をくるりと後ろに向けて心配そうに顔を覗き込んできた。小春は力なく首を横に振り、机の上に突っ伏した。

「……大丈夫じゃない。もう消えたい」

「ちょっと、久世くんと一体何があったのよ? あんたたち、幼馴染でしょ?」

「何もない……ただの、私の勘違いだから」

「何もない人が、あの久世くんに廊下を全力疾走で追いかけられるわけないでしょ!」

「知らないっ……もう聞かないで、美咲ぃ……」

腕の中に顔を埋めると、昨日の夕方の記憶が鮮明に蘇り、また目頭が熱くなりそうになる。小春は唇を強く噛み締め、必死にそれを堪えた。

同じ時刻、遥斗もまた、自分の教室でかつてないほど落ち着かない時間を過ごしていた。

「おい久世、お前、昨日隣のクラスの篠宮さんと何があったんだよ? 朝から女子たちが大騒ぎだぞ」

隣の席の友人、直樹がニヤニヤと面白そうに肩を小突いてくる。普段なら適当な冗談で受け流すところだが、今の遥斗にはそんな余裕は微塵もなかった。

「……別に。何でもねえよ」

「『別に』って顔じゃねえだろ。眉間にすごい皺寄ってるぞ、王子様」

「うるせえ、ほっとけ」

遥斗は苛立ちを隠せずに吐き捨てると、頬杖をついて窓の外へと視線を逃がした。

目の前の桜並木が風に揺れているが、その美しい景色も今はまるで色を持たない。

いつもなら、登校中や休み時間に小春を見かければ、遥斗の方から自然と声をかけていた。けれど、二人の教室は同じ二階フロアとはいえ、校舎の東端と西端だ。意識して会いに行かなければ、すれ違うことすら珍しい。

そして今日、小春は明らかに、徹底して遥斗を避けていた。

一時間目の休み時間、様子を見に行こうと彼女の教室の近くまで足を運んだが、遠くから遥斗の姿を認めた瞬間、小春は弾かれたように友人の陰に隠れ、そのまま反対側の階段へと消えていった。昼休みに図書室を覗いても姿はなく、放課後、昇降口で待ち伏せしようとしたときには、すでに下駄箱から彼女の靴はなくなっていた。

昨日の夜から、何度かメッセージも送った。『昨日はごめん』『話がしたい』『怒ってる?』。

しかし、画面には残酷なほど「既読」の文字すらつかない。

「……何なんだよ、一体」

誰もいなくなった放課後の教室で、遥斗は自分の机の上にスマートフォンを乱暴に伏せた。

画面が光り、別の女子生徒たちからのメッセージ通知がいくつも並ぶ。可愛らしい動物のスタンプ、週末の遊びの誘い、遥斗を気遣う優しい言葉。

普段なら、それらに丁寧な返信を返すことは苦ではなかった。好意を向けられて悪い気はしないし、期待に応えることで保たれる平穏な人間関係に満足していたはずだった。

けれど。

今、遥斗が喉から手が出るほど欲しい返事は、そのどれでもなかった。

『遥斗のばか! もう絶交だからね!』

そんな、子供じみた怒りの一言でよかった。いつものように黒縁眼鏡の奥の瞳を吊り上げて、ぷうっと頬を膨らませて文句を言ってくれれば、それでどれだけ救われただろう。

どうして、あんな今にも壊れてしまいそうな顔で泣かせてしまったのか。

そして、どうして自分は昨日の夕方からずっと、他の誰の声も耳に入らないほど、小春のことばかりを考えているのか。

「……分かんねえよ」

誰もいない教室に、遥斗の低く掠れた呟きが落ちた。胸の奥にぽっかりと空いた穴に、冷たい風が吹き抜けていくようだった。

気まずい沈黙が二人の間に横たわったまま、数日が過ぎた金曜日の夜。

篠宮家のダイニングに、食器の触れ合う音とテレビのバラエティ番組の笑い声が響いていた。

「そういえば小春、今度の日曜日、久世さんのお宅とみんなで食事に行くことになったわよ。駅前のイタリアン予約したから」

ハンバーグを切り分けながら母親が何気なく放った一言に、小春は持っていた箸を危うく落としそうになった。カチャン、と味噌汁のお椀に箸先がぶつかる音がする。

「……え?」

「え、じゃないわよ。家族ぐるみで集まるのなんて久しぶりでしょう? 遥斗くんも部活が休みだから来るんですって。楽しみねえ」

「わ、私、行かない」

反射的に声が裏返った。小春は慌てて視線を自分の茶碗に落とし、ご飯粒を箸でつつく。

「どうして? 日曜日は予定ないって言ってたじゃない」

「……急に、用事ができたの」

「何の用事よ?」

「……いろいろ。とにかく、図書館で調べ物とか、いろいろあるの!」

必死に取り繕う小春の顔を、母親は不思議そうにじっと見つめ、やがて小さく首を傾げた。

「変な子ね。昔は遥斗くんと一緒なら、どこへでも尻尾振ってついて行ったくらい仲良しだったのに」

何気ない母親の言葉が、小春の胸に鋭い棘となって深く刺さった。

昔は。

そう、昔はよかった。自分の気持ちに名前なんてついていなかった頃は、何も考えずに彼の隣に立っていられた。好きだとか、どう思われているかとか、嫌われたくないとか、そんな苦しい感情に振り回されずに済んだのに。

結局、「久世のおばさまが小春ちゃんの顔を見たいって言ってるのよ、無礼な真似は許しません」という母親の鶴の一声に押し切られ、小春は逃げ場を失ったまま日曜日を迎えることになった。

日曜日の夜。駅前の少し高級なイタリアンレストランは、柔らかな間接照明と陽気なBGM、そしてガーリックとオリーブオイルの食欲をそそる香りに満ちていた。

「まあ、小春ちゃん! しばらく見ないうちに、また一段と女の子らしくなったわねえ!」

「いやだわ奥様、相変わらず色気のない地味な子で。それより遥斗くんこそ、すっかり背が伸びて男前になって! 学校でもモテるでしょう?」

久世家の両親と小春の両親は、乾杯のワイングラスを合わせるなり、昔話と近況報告に花を咲かせ始めた。大人たちの賑やかな笑い声がテーブルの上を飛び交う中、小春と遥斗が座る一角だけが、まるで別世界のように重苦しい空気に沈んでいた。

不運なことに、二人はテーブルの端で真正面に向かい合う席に座らされていた。

小春は緊張で膝の上のナプキンを何度も握り直し、視線を目の前のパスタの皿から一ミリも上げられずにいた。

「……久しぶり」

大人たちの会話の合間を縫うようにして、向かいの席から低く抑えた声が届いた。

小春はびくりと肩を揺らし、ほんの一瞬だけ視線を上げた。白いシャツを着た遥斗が、少し気まずそうに、けれど真剣な眼差しでこちらを見つめていた。目の下にうっすらと隈があるように見えたが、直視できずにすぐまた俯いてしまう。

「……うん」

小春が返したのは、自分の耳にしか届かないような小さな相槌だけだった。

それきり、二人の間の会話はぷつりと途切れた。フォークが皿に触れるカチャカチャという音だけが、やけに大きく耳に響く。

こんなことは、生まれて初めてだった。

昔なら、親たちの退屈な話に飽きて、テーブルの下で足を小突き合ったり、目配せをしてクスクス笑い合ったりしていた。遥斗がくだらない冗談を言って、小春が「ちょっと、お行儀悪いよ!」と小声で叱る。それだけで、どんな場所でも二人の世界になった。

なのに今は、彼の顔を見ることすら怖くてたまらない。パスタの味なんて、少しも分からなかった。

「そういえば、あなたたち覚えてる?」

ほろ酔い加減で頬を染めた遥斗の母親が、突然思い出したように声を上げて笑い出した。

「この子たちったら、幼稚園の頃、将来は絶対に結婚するって大騒ぎしてたのよ!」

「ああ、そうそう! 言ってたわねえ!」

小春の母親も、楽しそうに手を叩いて相槌を打つ。

「遥斗くんがね、泥だらけの顔でうちの玄関まで来て、『ぼくが小春ちゃんをお嫁さんにして一生守るからください!』って、お父さんに頭下げたのよねえ!」

「まあ、懐かしい! あの頃は本当に毎日くっついて歩いて、本当の兄妹みたいで可愛かったわあ」

大人たちが無邪気に声を上げて笑う。遥斗が「母さん、そういうのやめろって……」と低く制止する声が聞こえたが、母親たちの昔話は止まらない。

小春は、膝の上で握りしめた拳が白くなるほど力を込めた。

覚えている。忘れるわけがない。

あの日、近所のガキ大将にからかわれて泣いていた小春の手を、遥斗は泥だらけの温かい手で痛いほど強く握りしめてくれた。

『泣くなよ、小春! 俺がずっと小春を守ってやるからな!』

夕日を背に受けて、まるで本物のヒーローみたいに得意げに笑っていた彼の顔を、小春はずっと、宝物みたいに胸の奥の箱にしまって大切にしてきたのだ。

けれど。

今の遥斗にとっては、そんなのただの恥ずかしい幼児期の黒歴史に過ぎないのだろう。

小春が必死の思いで書いたラブレターを見ても、平気な顔でニヤニヤと笑い、からかいの道具にするような人だ。学校では、小春なんかよりずっと綺麗で可愛い女の子たちに囲まれて、眩しい世界で生きている人だ。

それなのに、どうして。

どうして大人たちは、私の傷口に塩を塗るみたいに、今さらそんな残酷な昔話を引っ張り出して笑うの。

「……やめてよ」

小春の唇から、震える声が漏れた。あまりに小さかったため、母親が「え? 小春、何か言った?」と聞き返す。

小春の中で、張り詰めていた我慢の糸が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。

「そんな昔の話、もうやめてって言ってるの!!」

ガタン、と椅子が後ろに倒れそうになる激しい音を立てて、小春は立ち上がった。

一瞬にして、賑やかだった食卓が水を打ったように静まり返る。両親たちが目を丸くしてこちらを見上げる中、小春は自分の頬に熱い涙が伝うのを感じた。

「……ごめんなさい。気分が悪いから、先に帰ります」

「ちょ、小春!?」

鞄をひっ掴み、制止する母親の声を振り切って、小春は逃げるようにテーブルを離れた。背後で「小春!」と遥斗が立ち上がる気配がしたが、振り返る余裕などなかった。

レストランの重い扉を押し開け、夜の冷たい空気の中へと駆け出す。

街灯の光が涙で滲み、万華鏡のようにぐにゃりと歪んで見えた。日曜日の夜の歩道は人通りが少なく、自分のパンプスの乾いた足音だけがカツカツと響く。

どれだけ走っただろう。駅から少し離れた、街路樹が続く暗い遊歩道に入ったところで、背後から激しい足音が追いついてきた。

「小春! 待って、小春!」

肩を掴まれるよりも早く、長い影が小春の前に回り込み、行く手を塞いだ。

遥斗だった。ジャケットも羽織らず、白いシャツ姿のまま全力で走ってきた彼は、肩で荒い息をしながら、必死な目で小春を見つめていた。

「……何よ! どいて!」

小春は乱暴に涙を手の甲で拭い、遥斗を睨みつけた。眼鏡のレンズが涙で汚れ、彼の顔がうまく見えない。

「なんで、なんで追いかけてくるのよ!」

「だって、お前が急に泣きそうな顔して飛び出すから……! あの日からずっとおかしいだろ、俺が何をしたって――」

「そんなに私を馬鹿にするのが楽しい!?」

小春の悲鳴のような叫びに、遥斗は息を呑み、言葉を失った。

「……は? 馬鹿にするって、俺がいつ……」

「昔からそうじゃない! いつもいつも私のことからかって、私が本気で怒ると面白そうに笑って!」

一度溢れ出した言葉は、もう誰にも止められなかった。胸の奥で何日も渦巻いていた黒く濁った感情が、涙と一緒に次から次へと噴き出してくる。

「小春、待てって、俺はそんなつもりじゃ……」

「手紙まで読んでおいて、よくそんな白々しいことが言えるわね!!」

遥斗の表情が、ぴたりと凍りついた。街灯の白い光の下で、彼の瞳が大きく見開かれる。

「……手紙?」

「そうよ! あの桜色の手紙よ!」

小春は鞄を胸に抱きしめ、声を震わせて叫んだ。

「私が……私がどんな気持ちで、何日もかけてあの一言を書いたかも知らないくせに! 全部読んだくせに、あんな風にニヤニヤ笑って、平気な顔でからかって……っ! 遥斗にとっては何でもないことかもしれないけど、私にとっては……っ!」

息が詰まり、嗚咽が漏れる。

ああ、言ってしまった。一番言いたくなかった、一番惨めな本音を、全部ぶちまけてしまった。

「……ずっと好きだったのにっ……! これじゃ私だけ、ただのピエロみたいで、馬鹿みたいじゃない……っ!」

小春は両手で顔を覆い、その場に立ち尽くしてしゃくり上げた。

夜の風が吹き抜け、頭上の街路樹の葉がざわめく。しばらくの間、遊歩道には小春のすすり泣く声だけが響いていた。

遥斗は、まるで雷に打たれたかのように身動き一つせず、呆然と小春を見つめていた。彼の頭の中で、ここ数日の不可解な出来事と、小春の涙の理由が、激しい音を立てて一つの線に繋がっていく。

やがて、遥斗は乾いた唇を震わせ、絞り出すように口を開いた。

「……小春」

「何よ……っ、もう何も言わないでよ……」

「俺、その手紙……読んでない」

顔を覆っていた小春の指が、ぴくりと止まった。

「…………え?」

ゆっくりと手を下ろし、涙で濡れた眼鏡の奥から遥斗を見上げる。遥斗は、今まで見たこともないほど苦渋に満ちた、今にも泣き出しそうな顔で首を横に振っていた。

「中身なんて、本当に知らないんだ。読んでない」

「……嘘、よ」

「嘘じゃない! 誓って読んでない!」

遥斗は一歩踏み出し、自分の胸を叩くようにして必死に言葉を継いだ。

「あの前の日、お前が昇降口で手紙みたいなのを慌てて鞄に隠すのを、たまたま遠くから見ただけなんだ! だから、誰宛ての手紙か気になって、『俺に渡そうとしてた手紙、見ちゃった』って……ただのカマかけで、いつもの調子でちょっとからかっただけで……!」

そこで、遥斗は言葉を詰まらせた。

その手紙が、本当に自分宛てだったこと。そしてそこに、小春の『ずっと好きだった』という想いが綴られていたこと。それを今、最悪の形で知ってしまった自分の愚かさに、彼の顔からみるみる血の気が引いていく。

「……ごめん。俺、お前がそんな気持ちでいたなんて、これっぽっちも知らなくて……本当に、ごめん……」

小春は、夜のアスファルトに縫い付けられたように動けなかった。

風が吹き抜け、涙で濡れた頬を冷たく撫でていく。

読んでいない?

じゃあ、あの日、彼が笑っていたのは、私の気持ちを知って嘲笑していたわけじゃなかった?

彼は何も知らなかった? 私が好きだということも、あの手紙に何を書いたのかも、何一つ?

胸の奥で、音を立てて何かがガラガラと崩れ落ちていく感覚がした。

あの日からずっと抱えていた怒りも、悲しみも、絶望も、すべてが「自分の勝手な早合点」という事実の前で行き場を失い、宙に浮いた。

――私、何をしてたんだろう。

勝手に思い込んで、勝手に傷ついて、勝手に逃げて、勝手に周りを巻き込んで。

そして今、誤解していたとはいえ、一番好きな人の前で、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったこんなにも醜い顔を晒し、ヒステリックに怒鳴り散らして、そのついでみたいに『好きだった』と自白してしまったのだ。

先ほどまでとは全く別の、身の置き所のないほどの猛烈な羞恥心が、津波のように小春を飲み込んだ。

「……小春? あの、さっきの言葉って……」

遥斗が何かを確かめるように、恐る恐る右手を伸ばしてくる。

その指先が触れる前に、小春は弾かれたように一歩、大きく後ずさった。

「……ごめん」

「え?」

「ごめんなさいっ! 私、もう帰る!」

「ま、待てって小春! まだ話が……俺の気持ちも、ちゃんと――」

「今は、無理っ!」

小春はぶんぶんと激しく首を振った。これ以上、この場に一秒でもいたら、恥ずかしさと情けなさで心臓が破裂してしまう。

「……お願いだから、今は追いかけてこないで!」

悲鳴のように言い残し、小春は踵を返して再び夜の道へと走り出した。

今度は、背後から足音は追いかけてこなかった。

街灯の下に取り残された遥斗の伸ばされた手が、夜の冷たい空を虚しく切ったことを、ただひたすらに走る小春は知る由もなかった。

家に帰り着き、心配する母親に「もう大丈夫だから」とだけ告げて自室に駆け込んだ小春は、鍵を閉めるなりベッドの上へと倒れ込んだ。

「……最悪」

枕に顔を深く埋め、手足をばたつかせて悶絶する。

「……ほんと、私、世界一最悪のばかだ……」

遥斗は手紙を読んでいなかった。ただの幼馴染の軽口に、自分が一人で過剰反応してパニックになり、あげくの果てに夜の路上で逆ギレしながらフラれた前提で告白を叫ぶなんて、どんな三流のラブコメよりも酷い大惨事だ。

恥ずかしい。情けない。明日からの学校、一体どんな顔をして彼に会えばいいのか、皆目見当もつかない。

小春はベッドの上でゴロゴロと転がり、鞄からスマートフォンを取り出した。

恐る恐る遥斗とのメッセージ画面を開く。数日前に彼から届いていた『昨日はごめん』『怒ってる?』という未読だったメッセージが、今になって胸を締め付ける。

震える指でキーボードをタップし、『ごめん』と三文字だけ打ち込んだ。

しかし、送信ボタンを押すことができず、すぐにバックスペースキーで消去する。

一体、何から謝ればいいのだろう。

勝手に勘違いして無視し続けたこと?

せっかくの食事会を台無しにして、一方的に怒鳴りつけたこと?

話を聞かずにまた逃げてしまったこと?

それとも――幼馴染のくせに、ずっと前からあなたのことが好きだったこと?

「……分かんないよぉ……」

小春はスマートフォンを胸にぎゅっと抱きしめ、胎児のように丸くなった。

その夜、遥斗から連絡が来ることはなかった。

翌朝になっても。その次の日になっても。学校で遠くから姿を見かけることがあっても、彼は無理に近づいてこようとはしなかった。

けれど、今回の沈黙に対して、小春の心には不思議と冷たい不安はなかった。むしろ、じんわりとした静かな安堵感が広がっていたのだ。

遥斗は、昔からそういう人だったから。

普段はデリカシーのかけらもない悪戯ばかりするのに、小春が本当に限界を迎えていたり、本気で傷ついたりしたときは、絶対に無理やり心に土足で踏み込んでくるような真似はしない。

ふと、遠い記憶が蘇る。

あれは小学校三年生の頃だったか。遥斗が小春の大切にしていた栞を誤って破いてしまい、大喧嘩になって、小春が「遥斗なんて大嫌い!」と泣きながら家に帰ったことがあった。

あのときも、彼は追いかけてこなかった。

その代わり、翌日の朝。

小春が学校へ行こうと玄関の扉を開けると、ドアノブに小さなビニール袋がぶら下がっていたのだ。

中に入っていたのは、遥斗が自分のお小遣いで買ったらしい、小春の大好物のいちごみるく飴が一袋。そして、ノートをちぎった紙に、鉛筆を強く握りしめて書かれた、枠からはみ出すほど大きな、ぐちゃぐちゃの字。

『ごめんなさい。もうしません。はると』

小春はベッドの上で、あの日の不器用な文字を思い出し、ふっと息を漏らした。

「……ほんと、昔から全然変わってないなあ」

胸の奥の冷え切っていた場所に、ぽうっと小さな灯がともるように温かさが広がっていく。

彼が今、連絡をしてこないのも、学校で声をかけてこないのも、小春の告白を気持ち悪がって嫌いになったからではない。『今は追いかけてこないで』という小春の言葉を尊重して、彼女自身の心の整理がつくまで、ずっと少し離れた場所で待っていてくれているのだ。昔と少しも変わらず、優しいままで。

「……遥斗の、ばか」

窓の外の夜空を見上げて呟いた小春の口元は、今度は少しだけ、柔らかく綻んでいた。

そして迎えた、翌週の日曜日。

昼下がりの穏やかな日差しがカーテン越しに差し込む部屋で、小春が文庫本を読んでいると、突然、階下から玄関のチャイムが鳴り響いた。

ピンポーン、という音の直後、ドタドタと階段の下から母親の明るい声が飛んでくる。

「小春ー! ちょっと降りてきなさい、遥斗くんが来てるわよー!」

その声に、小春の心臓が肋骨を突き破るかと思うほど大きく跳ねた。持っていた文庫本がパサリとベッドの上に落ちる。

「……えっ!? な、なんで急に!?」

小春は弾かれたように立ち上がり、部屋の姿見の前に駆け寄った。

鏡に映っていたのは、休日の油断しきった自分の姿だった。後頭部の髪はぴょんと寝癖ではね、よれよれのパステルカラーの部屋着スウェットに、いつもの黒縁眼鏡。

「ちょ、ちょっと待って! 今行くからちょっと待っててー!」

階下に向かって裏返った声で叫びながら、小春はパニック状態で机の上のブラシを掴んだ。必死に寝癖をとかし、クローゼットを開けるが、今から着替えていたら何分かかるか分からない。そもそも、遥斗の前に出るのにどんな服が正解なのか、ファッションに疎い小春には見当もつかなかった。

結局、部屋着のシャツの上からいつものベージュのカーディガンを羽織り、深呼吸を三回繰り返してから、スリッパをパタパタと鳴らして階段を駆け下りた。

玄関の扉を開けると、春の眩しい日差しを背負って、遥斗が立っていた。

白いTシャツの上に、薄手のデニムジャケットを羽織ったラフな私服姿。彼は小春の姿を見るなり、少し緊張した面持ちを和らげ、小さく片手を上げた。

「……よ」

「……お、おはよう」

「小春、もう昼過ぎだけど」

「う、うるさいわね! 休日は起きるの遅いって知ってるでしょ!」

反射的に言い返した瞬間、ハッとした。

なんてことのない、何年も繰り返してきた、いつもの軽口。

ただそれだけのやり取りができたことが嬉しくて、小春の鼻の奥がツンと熱くなり、危うくその場で泣き出しそうになった。

遥斗はそんな小春の顔をじっと見つめると、少し困ったように、けれどどうしようもなく優しい目をして微笑んだ。

「……ちょっと、その辺まで付き合ってくれない? 渡したいものがあるんだ」

サンダルを履いて外に出ると、二人は自然と、住宅街の奥にある小さな公園へと足を向けた。

そこは、二人がランドセルを放り投げて、日が暮れるまで毎日駆け回っていた思い出の場所だった。風に揺れる桜の木の枝からは、すでに花びらが散り始め、地面に淡いピンク色の絨毯を作っている。塗料が剥げて少し錆びついた鉄棒も、鎖が軋むブランコも、プラスチックの色が褪せた滑り台も、すべてがあの頃のまま時間を止めているようだった。

二人はどちらからともなく、桜の木の下にある木製のベンチに、少しだけ距離を空けて腰を下ろした。風が吹くたび、ハラハラと花びらが舞い落ち、二人の肩や髪に降りかかる。

しばらくの沈黙のあと、遥斗が膝の上に乗せていたショルダーバッグのファスナーをゆっくりと開けた。

「……小春、これ」

遥斗が差し出した手を見て、小春の呼吸が止まった。

彼の長い指先に挟まれていたのは、一通の、真っ白で清潔な封筒だった。

小春の心臓が、ドクン、と耳の奥で大きな音を立てた。

「……え?」

「いいから、今ここで読んで」

遥斗の声は少し震えており、その横顔は驚くほど真剣だった。耳の先端が、春の陽気のせいだけではなく、ほんのりと赤く染まっている。

小春は自分の指先が小刻みに震えるのを意識しながら、両手でそっとその白い封筒を受け取った。

手紙。

遥斗からの、手紙。

もしかして、これは。先週の日曜日、私が泣きながらぶつけてしまったあの不格好な告白に対する、彼からの――。

胸が苦しいほど高鳴る。小春は唾を飲み込み、裏返した封筒のシールを剥がして、中から丁寧に三つ折りにされた白い便箋を引き出した。

目を閉じ、一度大きく深呼吸をしてから、覚悟を決めて紙を開く。

そこには、定規で測ったように真っ直ぐで、少し力の入った大きな文字で、一行目にこう書かれていた。

『 反 省 文 』

「……………………」

小春の思考が、再び完全に停止した。

え? はんせいぶん? ラブレターの返事、ではなく?

小春は瞬きを繰り返し、眼鏡の位置を直してから、その下に続く文章へと視線を滑らせた。

『一、このたびは、幼馴染である篠宮小春さんに対して、相手の気持ちも考えない軽率ないたずらおよび発言を行い、深く傷つけてしまったことを心より反省しています。』

「…………」

『二、今後は、小春さんの反応が可愛いからといって調子に乗らず、いたずらをする前に一度立ち止まり、相手の立場になってよく考えることを固く心がけます。』

「…………っ」

二行目を読んだあたりで、小春の喉の奥から、変な音が漏れそうになった。なんだこれは。真面目すぎる文面の中に、さらりと妙な本音が混ざっている。

『三、また、大切な幼馴染をトイレで泣かせてしまったこと、および食事の席で悲しい思いをさせてしまったことについては、いかなる理由があっても男として絶対に正当化できない最低の行為であったと深く悔いております。』

「……ふっ、くくっ……」

『以上のことを踏まえ、今後はより一層、篠宮小春さんに対して誠実な人間になるよう、一生をかけて努力することをここに誓います。 久世遥斗』

「……あはっ」

小春は慌てて片手で自分の口元を押さえた。

しかし、込み上げてくる感情の奔流は、もうどうやってもせき止めることができなかった。

「あははははっ!」

「……おい、小春」

「あははっ! ちょ、ちょっと、何これ! あはははは!」

小春はお腹を抱え、ベンチの上で体を二つに折り曲げて笑い出した。

「何って……見れば分かるだろ、反省文だよ」

「反省文って! あははっ! 書式が完全に、生徒指導の先生に提出させられるやつじゃない!」

「……うるせえな、俺なりに一晩中かかって真剣に書いたんだけど」

「だ、だって、箇条書きだし! 『心より反省しています』って、遥斗がこんな硬い文章書いてるの想像したらっ……あははは!」

小春が涙を浮かべて笑い転げる隣で、遥斗の整った顔が、首筋から耳の付け根までみるみるうちに熟れたトマトのように真っ赤に染まっていった。彼は気まずそうに口元を片手で覆い、視線を明後日の方向へと逸らす。

「……悪かったな、文才なくて。お前、いくらなんでも笑いすぎだろ」

「だって、遥斗が! 小学生のときの『ごめんなさい』の紙から、やってることが全然進化してないんだもん! あははは!」

「……っ、もういい! そんなに笑うなら返せよ!」

遥斗が恥ずかしさに耐えかねたように、小春の手から便箋を奪い取ろうと手を伸ばしてきた。

小春は咄嗟に体を捻り、その白い便箋を自分の胸の真ん中に、ぎゅっと両手で抱きしめた。

「やだ! 絶対返さない!」

「おい、皺になるだろ……」

「だめ! これは、遥斗が私のために書いてくれた、私の手紙なんだから!」

小春が力強く言い切ると、遥斗は虚を突かれたように目を丸くして動きを止めた。

小春は手紙を胸に抱いたまま、まだクスクスと肩を揺らして笑っていた。目尻に浮かんだ涙を、人差し指の腹でそっと拭う。

こんなに心の底から、お腹の底から、何もかも忘れて笑ったのは、一体いつぶりだろう。ここ一週間、胸の奥に鉛のように垂れ込めていた重苦しい雲が、春の風に吹き飛ばされて、跡形もなく消え去っていくのを感じた。

「……ありがと、遥斗」

笑いが落ち着いたあと、小春は桜の花びらが落ちた自分のつま先を見つめながら、ぽつりと小さく言った。

遥斗は少しだけバツが悪そうに鼻の頭を掻き、視線を逸らした。

「……別に。俺が悪かったんだから、当然だろ」

「ううん。私のために、こんなにちゃんと反省して、一生懸命言葉を探してくれたんだよね」

「……まあな」

「すごく、嬉しい。宝物にするね」

その言葉に、遥斗が弾かれたように顔を上げた。

小春は、遥斗の方を向いて微笑んでいた。黒縁眼鏡の奥で、大きな瞳を三日月のように細め、頬をほんのりと桜色に染めて。

いつものように。昔、彼が一番好きだった、何の曇りもない小春の笑顔で。

遥斗は、自分の胸の奥が、熱いお湯を注がれたようにじんわりと温かくなっていくのを感じた。

ずっと、この顔が見たかったのだ。

学校でどれだけ他の女子生徒たちに華やかな笑顔を向けられても、どれだけ「王子様」と持て囃されても、決して埋まることのなかった心の隙間が、目の前の幼馴染のたった一つの笑顔で、音もなく完全に満たされていく。

「……小春」

「ん? なに?」

遥斗は、真剣な熱を帯びた瞳で小春を見つめ、自分のデニムジャケットの胸元に右手を差し入れようとした。

しかし、小春のあまりに無防備で幸せそうな笑顔を見ていると、彼はふっと力を抜き、小さく首を横に振った。

「……いや。なんでもない。仲直りできて、よかった」

遥斗はそう言って、いつもの王子様の笑顔ではなく、幼馴染の前でだけ見せる、少し照れくさそうで無邪気な少年の笑顔を浮かべた。

小春もつられて笑った。

二人はしばらくの間、舞い散る桜吹雪の下で、昔に戻ったみたいに他愛もない話をしながら笑い合っていた。

だから、このときの小春はまだ知らない。

遥斗が着ているデニムジャケットの内ポケットの、ちょうど心臓のすぐ上のあたりに、実は『もう一通の手紙』が大切にしまわれていることを。

それは、先ほどのような味気ない白い封筒ではない。

文房具屋のコーナーで、男一人で赤面しながら選んだ、淡い桜色の封筒。封を閉じるシールには、小さな赤いハートマークまで付いている。

反省文なんかよりもずっと、何十枚も便箋を無駄にして、自分の不器用さに頭を抱えながら、明け方までかかってようやく書き上げた、彼にとって人生で初めてのラブレター。

『昔からずっと、お前だけが好きでした。子供の頃の約束、俺は今でも本気です』

そんな言葉を綴った二通目の手紙を、学校中の女子が憧れる無敵の王子様が、実は手が震えるほど緊張して、今日も結局渡す勇気を出せずに持ち帰ろうとしていることを、小春はまだ知らないのだ。

翌日の月曜日。

昼休みの教室で、小春はお弁当の卵焼きを箸で掴んだまま、ぽかんと口を開けて固まっていた。

「……え? なにそれ」

思わず聞き返すと、向かいの席でおにぎりを頬張っていた親友の美咲が、「ほんっとに鈍感なんだから」と呆れたように大きなため息をついた。

「だからぁ、あんた本当に何も知らなかったの? 先週、あんたが久世くんを避け始めてから、久世くんたら本当にすごかったんだから」

「……す、すごかったって、何が?」

「何がって、あんたと仲がいい女子を、休み時間のたびに片っ端から捕まえて聞いて回ってたのよ!」

美咲は身振り手振りを交えて、興奮した様子でまくし立てた。

「『小春が最近何か悩んでないか?』とか、『俺が何か気に障るようなことしたか、心当たりはないか?』とか、『小春が持ってた手紙のこと、何か聞いてないか?』って!」

「……えっ……」

小春は箸を持ったまま、石のように固まった。

「もちろん親友の私のところにもこっそり聞きに来たし、図書委員で一緒の隣のクラスの子にも頭下げて聞いて回ってたわよ。『小春には絶対に内緒にしてくれ』って必死に口止めされてたから黙ってたけど、あんな風にプライドも何もかもかなぐり捨てて、髪振り乱して必死になってる久世くん、私、入学してから初めて見たもん」

「…………」

「しかもさ、いつものキラキラした笑顔なんてゼロで、すっごい深刻で、今にも泣きそうな顔してさあ」

美咲はいたずらっぽく目を細め、くすくすと笑った。

「学校中の女子が憧れてるあの完璧な王子様が、一人の女の子の機嫌を直すために、周り目も気にせずあんなになりふり構わず必死になってるんだもん。そりゃあ、『久世くんが篠宮さんにベタ惚れらしい』って噂にもなるわよ」

小春は、お弁当箱の上に視線を落としたまま、ぷるぷると肩を震わせた。

耳の奥で、自分の鼓動がドクンドクンと鳴り響いている。顔面が、火傷しそうなほど熱い。それなのに、胸の奥のあたりが、羽毛で撫でられているみたいにむず痒くてたまらない。

あのとき。

自分が勝手に勘違いして、自分の殻に閉じこもって、彼から逃げ回っていたあの数日間。

遥斗は、冷たく突き放された理由も分からないまま、小春の笑顔を取り戻すために、学校中を駆け回って必死にもがいてくれていたのか。

「……ばか」

「え? なになに、なんて言ったの?」

「……遥斗の、大ばか……っ」

小春はお弁当の蓋を閉めるのも忘れて、両手で真っ赤になった自分の顔を覆った。指の隙間から、どうしても緩んでしまう口元が見えてしまう。

まさに、そのときだった。

机の脇に置いていた小春のスマートフォンが、ブブッ、と小さく震えて画面を光らせた。

小春は顔を覆っていた手を少しだけずらし、恐る恐る画面を覗き込んだ。

ポップアップで表示されたメッセージの送り主は、『久世遥斗』。

『今日、放課後、何時に会える? 今度こそちゃんと渡したいものがある』

小春はしばらくの間、その短い文字列をじっと見つめていた。

昨日の公園での、彼の少し赤い耳と、ジャケットの胸元を押さえていた仕草が、ふと脳裏に蘇る。鞄の中の桜色の封筒と、ペンケースの中に大切にしまった『反省文』が、小春の背中をそっと押した気がした。

小春はスマートフォンを両手で包み込むように持ち、ゆっくりと、けれど迷いのない指先で文字を打ち込んだ。

『放課後なんて待てない。今すぐ、中庭の渡り廊下で』

送信ボタンを押す。ほぼ同時に「既読」の文字がつき、数秒後に返事が返ってきた。

『どうした? 何かあった?』

小春は眼鏡の奥の瞳を柔らかく細め、ふっと微笑んだ。

『ううん。ただ、今すぐ遥斗に会いたくなっただけ』

もう一度、送信。

画面の向こうで、彼がどんな顔をしてこのメッセージを読んでいるのか、手に取るように分かる気がした。

数秒の沈黙のあと、画面に短い通知が浮かび上がる。

『俺も。今すぐ行くから、そこで待ってろ』

たったそれだけの言葉。

それだけで、小春の頬は、窓の外で風に舞う桜の花びらよりも鮮やかな色に染まった。

「……ほんと、ばか」

スマートフォンを胸に抱きしめて立ち上がった小春の声は、春の陽だまりみたいに温かくて、どうしようもなく、幸せそうだった。

――完――

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