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エカテリーナ物語

婚約を解消して大使になった公爵令嬢は、不遇な第二皇子と皇帝の試験に挑みます

作者: 一条優紀
掲載日:2026/09/30

 本作は『どうぞ、聖女様の手をお取りください――私はもう、あなたを待ちません』の続編です。

 婚約を解消し、大使となったエカテリーナと、不遇な第二皇子レオポルトの新たな一歩をお楽しみください。

挿絵(By みてみん)

 聖女ばかりを優先する王太子との婚約を解消したエカテリーナは、隣国の大使として帝国へ向かう。同行するのは、彼女の才知を認めてくれた第二皇子(おうじ)レオポルト。ところが、彼は誰も引き受けたがらない難題ばかりを押しつけられる「不遇な第二皇子」だった。皇帝の前で試されることになった二人が選んだのは――。




     ◇ ◇ ◇




「帝国の街道にかかる通行税を下げていただきたいのです」


 馬車に乗ってまだ一日も経たないうちに、エカテリーナは地図を広げた。


 ヴァレンティア王国からエルディア帝国の帝都までは十二日の旅。そのあいだ、向かいの席に座る第二皇子レオポルトと、いずれ交易について話すつもりではいた。


 だが、彼が「旅のあいだは遠慮なく意見を聞かせてください」と言ったものだから、遠慮せずに話し始めたのである。


「街道の修復には費用がかかります」


 レオポルトは穏やかな口調で答えた。


「ご存じでしょう。北部は雪が深く、毎年道が傷むのです」


「存じております。だからこそ、荷馬車の重さに応じて徴収する形に改めてはいかがでしょう。軽い荷にも同じ税を課しては、商人は街道を使わなくなります」


「重さを量る役人が賄賂(わいろ)を受け取れば?」


「帝国が監督官を置くのです」


「それだけでは、監督官が賄賂を受け取ります」


「では商人にも帳簿を提出させ、双方の記録を照合しましょう」


 レオポルトが目を丸くした。


「いまのは、私が言おうとしていたことです」


「殿下のお考えと同じなら、結構なことです」


「私の意見を認めてくださるのですか?」


「道理にかなっておりますから。なぜ驚かれるのです?」


 エカテリーナが首をかしげると、レオポルトは声を立てて笑った。


「あなたは実に明快な方ですね」


「面白みに欠ける女だと、以前から言われております」


 口にしてから、エカテリーナはしまったと思った。


 以前の婚約者、ヴァレンティア王太子アレクサンドルの言葉だ。彼はエカテリーナが政務について意見を述べるたび、難しい話はいいから黙って微笑んでいればいい、と言った。聖女の話になれば、彼はいくらでも耳を傾けたのに。


 いまさら、そんなことを思い出すつもりはなかった。


「以前にも申し上げました」


 レオポルトの笑みが消えた。


「あなたほど話していて飽きない方を、私はほかに知りません」


 真正面から言われ、エカテリーナは返す言葉を失った。


 横から、侍女のナターシャが小さく息を漏らす。向かいの侍従武官フリードリヒも、口元を隠していた。


「お二人とも、何か?」


「いいえ、お嬢様」


「何もございません、閣下」


 答えだけは、見事に揃っていた。


 ナターシャは、膝の上で指を組み直した。


 王宮にいた頃、エカテリーナはいつも相手の顔色を見てから口を開いた。十年も王太子の婚約者を務めれば、自分の発言ひとつで彼の機嫌を損ねると知ってしまう。


 けれど、いまの主人はどうだろう。レオポルトの言葉に反論し、自分の考えを述べ、正しいと思えば彼の意見も認める。長くそばにいるナターシャには、それが嬉しかった。


「そういえば、ヴァレンティアの商人が帳簿を偽る可能性もございますね」


 エカテリーナはさっそく地図へ目を戻した。


「その場合、わが国の商人にも罰則を設けましょう」


「あなたの国の商人が、反発するでしょう」


「いたしましょうね。でも、不正を見逃してほしいという要求まで通すつもりはございません」


 レオポルトがまた笑う。


「私はあの商人たちに、あなたの言葉をそのまま伝えたい」


「殿下が先にお伝えになれば、わたくしの立場がなくなります」


「では、隣で聞いています」


 何でもない約束のように言われた。だがエカテリーナには、「あなたが話すのを、私は聞く」という言葉が胸の奥に残った。


 フリードリヒも主人の横顔を見ていた。レオポルトが誰かと意見をぶつけ、そのやり取りを楽しむ姿を、彼は久しぶりに見た気がする。


 向かいのナターシャと目が合う。二人は声を出さずに、そっと笑った。




     ◇ ◇ ◇




 馬車が轍(わだち)を越えて揺れ、座席脇の鞄(かばん)が倒れた。こぼれ落ちた黒い乗馬手袋を、レオポルトが拾う。


「朝駆(あさが)けをなさるのですか?」


「王都にいた頃は、ほとんど毎朝」


「それは意外です。あなたが馬上にいらしたら、さぞ美しいでしょうね」


「ありがとうございます」


「ただ、馬のほうが緊張するのではないかと。少しでも怠ければ叱られそうです」


 フリードリヒが片手で額を覆った。


 エカテリーナは手袋を受け取り、静かに鞄へ戻す。


「殿下は、わたくしをどういう女だとお思いなのですか?」


「何事にも手を抜かない、立派な方だと……」


 そこでようやく、レオポルトは失言に気づいたらしい。


「褒めたつもりでした」


「馬が聞いたら喜ぶでしょうね」


 ナターシャがとうとう笑いだす。


「申し訳ございません、お嬢様。ですが、殿下は悪気があっておっしゃったのでは」


「分かっているわ」


 エカテリーナも窓のほうを向いた。腹が立ったはずなのに、頬(ほお)が緩(ゆる)むのを止められなかった。


「ナターシャ殿もご一緒に?」


 今度はフリードリヒが尋ねた。


「はい。十二年ほど、毎朝お供しております」


「十二年も?」


「初めは馬に近づくのも怖かったのですが、お嬢様が毎朝、練習に付き合ってくださって」


「あなたが乗れるようにならなければ、わたくしも朝駆けに出られなかったもの」


「お二人とも、横乗りで十二年ですか」


 フリードリヒは感心したようにナターシャを見る。


「一度も落馬なさっていないなら、立派な騎手です」


「お嬢様に置いていかれないようにするだけで精一杯です」


「それができる方は、そう多くありません」


 まっすぐな言葉に、ナターシャの頬が赤くなった。エカテリーナは見ないふりをする。


「フリードリヒ様は、いつから殿下のおそばに?」


「十歳の頃からです。小姓として宮廷へ上がりました」


「わたくしも十歳で公爵家へ奉公に出ました」


「では、同じですね」


 生まれも、家を離れた事情も違う。それでもナターシャには、その一言が嬉しかった。フリードリヒも、それ以上の事情を尋ねなかった。




 しばらくして馬車が森へ入ると、ナターシャが窓の外を指さした。


「白い鹿がいました!」


 皆が振り向いたときには、木々の奥に姿はない。


「見間違いではありませんか?」


「本当に見たのでございます」


「白い鹿ですか」


 レオポルトは懐かしそうに笑った。


「子どもの頃、猟師から聞きました。白い鹿を見た者には、幸運が訪れるそうです。その猟師は白い鹿を見たあと、のちに妻となる人と出会ったとか」


「それならナターシャにも、素敵な方が現れるかもしれないわね」


「お嬢様!」


 向かいでフリードリヒが座り直す。ナターシャも目をそらした。


 エカテリーナは笑いをこらえた。


「そういえば、帝都の北に美しい湖があります」


 レオポルトが、今度は彼女を見た。


「到着して落ち着かれたら、ご案内しましょう」


「森林資源の視察でございますか?」


「遠乗りへのお誘いのつもりでした」


「……遠乗り」


「会議室の外にある帝国も、あなたに知っていただきたいのです」


 その言葉に、エカテリーナは窓へ視線を逃がした。


「ナターシャも一緒でしたら」


「もちろん。フリードリヒにも同行させます」


 いまのは外交上の誘いなのか、それとも。そう考えた自分が急に恥ずかしくなった。


 レオポルトのほうは、いつもどおり晴れやかに微笑んでいる。


「あの、殿下」


「はい」


「湖へ行く日にも、交易の話をなさいますか?」


「あなたがなさりたければ、いくらでも」


「わたくしが、ではなく」


 口にした途端、エカテリーナは続きを言えなくなった。交易の話をしないなら、何の話をしたいというのだろう。


 レオポルトは少し考えてから答える。


「私は、あなたが気に入る景色を見つけたいと思っています。会議で使う言葉以外にも、あなたの好きなものを知りたいので」


 ナターシャが窓の外を向く。フリードリヒは咳払いをした。


「殿下は、そういうことを普通におっしゃるのですね」


「何かおかしなことを?」


「いいえ。何も」


 エカテリーナは窓に映る自分の頬が赤く見えないよう、顔をそらした。




     ◇ ◇ ◇




 十二日目、帝都アドラーホルストに到着した。


 馬車を見つけた子どもたちが駆け寄ってくる。


「レオポルト様、お帰りなさい!」


 レオポルトが窓から身を乗り出して手を振ると、子どもたちの歓声が上がった。護衛の兵士たちも、つられて笑っている。


 旅のあいだ、彼は毎朝、侍女にも護衛にも一人ずつ声をかけていた。疲れているはずの夜にも、働きをねぎらった。


 だから、皆が彼を慕(した)うのか。


 エカテリーナは、子どもたちに手を振る横顔を見つめた。


 アレクサンドルが王都を通れば、人々は礼をする。だが、あのように笑って駆け寄る子どもを見た覚えはない。


「ずいぶん慕われていらっしゃるのですね」


「この馬車が珍しいのでしょう」


「殿下」


 フリードリヒが呆(あき)れた顔をする。


「そのお答えは、さすがに無理がございます」


「そうなのか?」


 彼はまだ窓の外を見ていた。


 ――皇帝の資質。


 そんな言葉がエカテリーナの頭をよぎる。だが皇太子は、レオポルトの兄テオドールだ。考えても仕方のないことだと、彼女は胸の内にしまった。


 大使館へ着くと、レオポルトは皇帝への帰還報告のため、フリードリヒとともに先に去るという。


「お茶でも召し上がっていかれませんか?」


 エカテリーナは、思わず口にしていた。


 レオポルトが少し嬉しそうに笑う。


「ぜひ、次の機会に。明日は皇宮でお待ちしております」


「はい。明日、お目にかかります」


 馬車を見送ってから、エカテリーナは自分が次の機会を待ち遠しく思っていることに気づいた。


「閣下。お待ちしておりました」


 迎えに出た書記官長オリガ・ユスポワが、深く頭を下げる。


 エカテリーナは立ち止まった。


 閣下。


 もう、王太子の婚約者として呼ばれたのではない。一国を代表する大使として、自分の名前で迎えられたのだ。


 オリガは、取り繕(つくろ)った笑顔で彼女を迎えたわけではなかった。その目には、仕事を預かる者としての期待がある。


「こちらが北部交易路の資料でございます。陛下がお尋ねになる可能性が高いと考え、昨年の穀物価格も添えました」


「昨年の数字まで。助かります」


「閣下がお使いになると存じましたので」


 エカテリーナは資料を受け取り、思わず表紙を撫でた。


「わたくしが政治の話をすると、以前はたいてい『そんなことまで考えなくていい』と言われました」


「それをおっしゃった方は、いまここにはおりません」


 オリガのきっぱりした返答に、エカテリーナは顔を上げる。


「大使館では、考えていただかなくては困ります。わたくしたちは閣下の判断をお待ちしておりますから」


 誰かを支えるためだけの知識ではない。今日からは、自分の仕事に使えるのだ。


「留守を守ってくださって、ありがとう。明日の謁見には、この資料を使わせていただくわ」


「承知いたしました、閣下」


 オリガのきびきびとした返事に、エカテリーナは思わず笑った。




     ◇ ◇ ◇




「ナターシャ、少し締めすぎではなくて?」


 翌朝、エカテリーナはコルセットを気にしながら尋ねた。


「いつもどおりでございます」


「そうかしら」


「昨日の書類を、夜中まで三度もご確認になったせいでは?」


「三度ではないわ。最後は目を通しただけよ」


「それを四度と言います」


 エカテリーナは反論を諦めた。


 若草色の正装には、大使の綬帯(じゅたい)と国王から授かった勲章を合わせている。胸元には母の形見であるサファイアの首飾り《嘆(なげ)きの女王(じょうおう)》。ナターシャが最後の留め具を確かめた。


「お母様がいらしたら、何とおっしゃるかしら」


「きっと『少しは朝食を召し上がりなさい』と」


「……それもそうね」


 二人は鏡の前で笑い合った。エカテリーナは胸元のサファイアにそっと触れ、深く息を吸う。


「お嬢様なら、大丈夫でございます」


「王太子の隣で黙って微笑んでいればよかった頃とは違うわ」


「お嬢様は、あの方の隣でも黙っていらっしゃいませんでした」


「……そうね。だから嫌がられたのかもしれない」


「嫌がる方ばかりではございません」


 ナターシャは鏡越しに主人を見る。


「十二日間、楽しそうにお話しなさる方がいらしたでしょう?」


 エカテリーナは目を伏せ、それから小さく笑った。


「ありがとう、ナターシャ」




     ◇ ◇ ◇




 皇宮で二人を出迎えたのは、侍従長官オスカー・クラインだった。左右で色の違う瞳をした男で、その目がじっとこちらを見ている。


「皇帝陛下がお待ちです」



 謁見の間の大きな扉が開かれる。



 奥の玉座までは、長い深紅(しんく)の絨毯(じゅうたん)がまっすぐに延びていた。エカテリーナは一人で歩を進める。


「ヴァレンティア王国特命全権大使、エカテリーナ・ヴォルコフ閣下」


 名を呼ばれた先に、皇帝カール・エルディアが座っていた。壇の下には皇太子テオドールとレオポルトがいる。


 レオポルトと目が合った。彼は父帝にも分からぬほど、わずかにうなずく。


 大丈夫だ、と言われた気がした。


 エカテリーナは一礼し、国王からの国書を差し出した。


「面(おもて)を上げよ、ヴォルコフ大使」


 皇帝は彼女の美貌にも、婚約を解消した事情にも触れなかった。


「ヴァレンティアは交易の拡大を望んでいるそうだな。帝国に何の得がある?」


 儀礼的な挨拶を用意していたエカテリーナは、頭の中でそれを捨てた。


「わが国の産物が売れればヴァレンティアが豊かになります、と申し上げても陛下はご納得なさいませんでしょう」


 宮廷人たちがざわめく。


「続けよ」


「帝国北部は冬になると道が雪で閉ざされます。昨年は穀物の値も上がりました。ヴァレンティアの港から北部へ通じる道があれば、南部からの輸送が止まったときにも食料を届けられます」


「帝国にも穀倉地帯はある」


「はい。ですが南部に食料があっても、北部の民へ届かなければ、ないのと同じでございます」


 皇帝の青い瞳が細くなった。


「つまり、帝国の弱みにつけ込んでヴァレンティアが儲けるのか」


「いいえ」


 エカテリーナは視線をそらさなかった。


「帝国は不足したときの輸送路を得て、ヴァレンティアは帝国の穀物と鉄を安定して得られます。一方だけが得をする取り決めは長続きしません。わたくしが望むのは、両国の民を飢えさせない協定でございます」


 広間が静まり返った。


「……口だけの大使ではないらしい」


 短い言葉だった。それでも、先ほどまで値踏みするように見ていた宮廷人たちの顔が変わる。


 エカテリーナは、その視線が何を意味するか知っていた。婚約を解消した公爵令嬢が、王太子の名を借りずに、外国の皇帝から返事を引き出したのだ。


 壇の下に立つレオポルトがこちらを見ている。彼が嬉しそうな顔をしていると気づき、エカテリーナの胸が温かくなった。


 エカテリーナは深く頭を下げた。


「父上、私もヴォルコフ大使の意見に賛成です」


 兄皇太子テオドールが口を開いた。


「昨年のような不足を、二度と繰り返すべきではありません」


 言葉の終わりに小さな咳が混じる。レオポルトが心配そうに振り向いた。


「大丈夫だ。少し喉に引っかかっただけだ」


 テオドールは弟に微笑んだが、顔色は白い。


「交易路は必要だ。だが、道そのものが壊れたらどうする」


 皇帝はまたエカテリーナを見た。


「三日前、雪解けと大雨で北部の川があふれ、橋が二本流された。街道も崩れている」


 知らされていなかった宮廷人たちが顔を見合わせる。


「レオポルト。現地へ行き、再建案をまとめよ。期限は一月(ひとつき)だ」


「承知いたしました」


 帝都から北部まで、片道十日近い。それで一月(ひとつき)以内に被害を調べ、領主と商人の対立も収めろという。


 誰もが断りたがる仕事だ。だが、レオポルトはためらわずに頭を下げた。


 壁際の宮廷人の一人が、隣へ何かささやく。聞き取れなかったが、浮かべた笑みの意味は分かった。


 また第二皇子に貧乏くじが回ったのだ。


 エカテリーナは、握った手に力を込めた。


 レオポルトには現地の道と人が分かる。自分には交易と交渉の知識がある。ならば、すべきことは一つだ。


 そのとき、テオドールが再び咳き込んだ。


「父上。失礼して、先に部屋へ戻ります」


「ああ。休むがよい」


 レオポルトは兄に手を伸ばしたが、テオドールは大丈夫だというように、その肩を軽く叩いて歩き出す。


 不意に足元がふらついた。


 乾いた音が響く。


 テオドールの手が触れた青磁の壺が、床で砕けたのだ。対になっていたもう一つだけが、暖炉の上に残る。


 澄国(ちょうこく)から贈られたその一対には、創建者である兄弟が、二人で国を築いた物語が描かれていた。


「兄上!」


「壺より、私のほうが丈夫だよ」


 テオドールは弟へ笑いかけたが、その額には汗が浮かんでいる。侍医(じい)に付き添われ、彼は広間を出ていった。


 皇帝は閉じた扉を見つめていた。肘掛けを握る指にだけ、力がこもっている。


「出立に必要なものを申請せよ。以上だ」


「お待ちください、陛下」


 エカテリーナの声に、侍従長官が口を閉じた。


「わたくしも北部へ同行させてください」


 再び広間がざわつく。


「帝国の問題だ」


「洪水で壊れたのは、わが国の商人も通る道でございます。現地を見ずに交易の協定を結ぶことはできません」


「昨日、帝都へ着いたばかりであろう」


「ですから、一日も早く参ります」


「危険もある」


「承知しております。その上で、わたくしが決めました」


 皇帝は答えず、息子へ顔を向けた。


「レオポルト。そなたはどう思う」


 レオポルトがエカテリーナを見る。その目に、彼女を危険にさらしたくないという迷いが浮かんだ。


 だが、彼はその迷いを自分の中で収めた。


「大使は、ご自分の意思で同行を望まれました。私が危険を理由に拒めば、彼女の選択を奪うことになります」


「守りきれるのか」


「彼女を私の後ろへ置くつもりはありません」


 レオポルトはまっすぐ父帝を見た。


「大使がその役目を果たせるよう、私も自分の役目を果たします。二人で参ります」


 胸が、静かに高鳴った。


 この人は、わたくしを見目のよい飾りにも、守られるだけの女にもしていない。わたくしの言葉を聞き、わたくし自身が下した決断を受け止めている。


「よかろう」


 皇帝の声が、広間を貫いた。


「レオポルトとヴォルコフ大使に、北部交易路の共同調査を命じる。第二皇子は被害と再建方法を調べ、大使は交易と輸送の問題を整理せよ」


「御意(ぎょい)にございます」


「謹んで承ります」


 二人は並んで頭を下げた。


 見ていた宮廷人たちも、もはや誰一人、彼女を王太子に捨てられた令嬢として扱えなかった。


 壁際でひそひそ話していた男が、そっと視線を落とす。別の重臣は、手元の記録に二人の名を書き留めていた。


 エカテリーナは顔を上げた。北部には壊れた橋があり、食料を待つ民がいる。皇帝の一言だけで解決する仕事ではない。


 それでも、先ほどまで自分を値踏みしていた場所で、彼と同じ任務を任された。そのことが、たしかに嬉しかった。




     ◇ ◇ ◇




 謁見を終え、二人が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえた。


「また北部を任されたのか。第二皇子も気の毒に」


「成功すれば領主の手柄、失敗すれば殿下の責任だろう」


 若い貴族たちは本人に気づき、青ざめて頭を下げた。


「申し訳ございません、殿下」


「構わぬ」


 レオポルトは足を止めなかった。




 角を曲がり、二人の声が届かなくなってから、エカテリーナは尋ねた。


「腹は立ちませんか?」


「彼らが言ったことは、間違いではありません」


「それを、黙って聞き流されるのですか?」


「言い返しても橋は戻りませんから」


 そう言って、レオポルトは笑った。


「それより申し訳ありません。帝都へ着いたばかりのあなたを、また長旅に」


「わたくしが選んだのです」


「ですが――」


「先ほど陛下の御前で、わたくしの選択を尊重するとおっしゃいましたよね」


 レオポルトは口を閉じた。


「もうお忘れになったのですか?」


「いいえ。忘れてはいません」


「でしたら、謝らないでください」


 エカテリーナは彼の隣に立った。


「そして、あの方たちの言葉を覆しましょう。誰かの失敗を押しつけられるだけの仕事には、いたしません」


 レオポルトは目を見開く。


「先ほどのお言葉を、わたくしは忘れません」


「どの言葉ですか?」


「わたくしを後ろへ置かない、と」


「当然のことを言ったつもりですが」


「殿下には、そうでしょうね」


 エカテリーナは小さく息をついた。


「わたくしが意見を言うと、口を出さずに任せておけと言う方もいました。心配しているつもりなのでしょう。けれど、わたくしには自分の役目があるのです」


「あなたの役目を、私が奪うわけにはいきません」


「わたくしも、殿下の仕事を横取りするつもりはございません。ただ、一緒にできることはあると思います」


「ええ」


 レオポルトは、彼女の歩幅に合わせて隣に立った。


「まずは、何から始めましょう」


「道が壊れた場所と、食料を待つ村を確かめます。誰が困っているのか分からなければ、机の上で何を決めても届きませんもの」


「では、私は橋の技師を呼びます」


「わたくしは商人と領主の記録を読みます。両方の話を聞いてから、お会いしましょう」


 今までなら、エカテリーナがここまで言う頃には、相手は退屈そうな顔をした。レオポルトは違った。必要な資料が頭の中で並んでいくかのように、楽しそうにうなずいている。


「あなたとなら、本当にできる気がします」


「殿下。まずは橋の修復と通行税の資料を集めます。喜ぶのは、その後です」


「はい、大使殿」


 彼は楽しそうに笑った。


「それと、北部から戻ったら……あの湖への遠乗りも、忘れていませんから」


 今度はエカテリーナが足を止める番だった。


「視察ではなく、遠乗りですね?」


「もちろんです。あなたと行きたいのです」


 あまりにもまっすぐな言い方だった。


 少し後ろを歩くフリードリヒが、また額を押さえる。ナターシャは笑みを隠すため、彼から顔をそらした。


「……では、まずは北部の仕事を成功させなくては」


「ええ。二人で」


 エカテリーナは隣を歩くレオポルトを見上げた。


 誰かに選ばれる日を、もう待たなくていい。自分の行く場所も、隣に立つ相手も、自分で選べる。


「参りましょう、殿下」


「はい、ヴォルコフ大使」


 二人は並んで歩き出した。


 その背を見送る誰かの視線が、もう彼女を立ち止まらせることはなかった。




     ◇ ◇ ◇




 謁見の間では、皇帝が侍従長官オスカーから新しい書類を受け取っていた。


 だが、文字には目を落とさない。


「陛下」


 皇帝のたった一人の友が、控えめに声をかけた。


「いかがなさいましたか?」


「いや」


 皇帝は、二人が出ていった扉を見た。


「レオポルトにも、ようやく運が向いてきたのかもしれぬ」



 最後までお読みいただき、ありがとうございます。二人の共同任務は、ここから始まります。

 旅や宮廷で過ごす四人の姿は、連載版『不遇な第二皇子に求婚されました――今度は二人で幸せになります』で詳しく描いています。

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