婚約を解消して大使になった公爵令嬢は、不遇な第二皇子と皇帝の試験に挑みます
聖女ばかりを優先する王太子との婚約を解消したエカテリーナは、隣国の大使として帝国へ向かう。同行するのは、彼女の才知を認めてくれた第二皇子レオポルト。ところが、彼は誰も引き受けたがらない難題ばかりを押しつけられる「不遇な第二皇子」だった。皇帝の前で試されることになった二人が選んだのは――。
◇ ◇ ◇
「帝国の街道にかかる通行税を下げていただきたいのです」
馬車に乗ってまだ一日も経たないうちに、エカテリーナは地図を広げた。
ヴァレンティア王国からエルディア帝国の帝都までは十二日の旅。そのあいだ、向かいの席に座る第二皇子レオポルトと、いずれ交易について話すつもりではいた。
だが、彼が「旅のあいだは遠慮なく意見を聞かせてください」と言ったものだから、遠慮せずに話し始めたのである。
「街道の修復には費用がかかります」
レオポルトは穏やかな口調で答えた。
「ご存じでしょう。北部は雪が深く、毎年道が傷むのです」
「存じております。だからこそ、荷馬車の重さに応じて徴収する形に改めてはいかがでしょう。軽い荷にも同じ税を課しては、商人は街道を使わなくなります」
「重さを量る役人が賄賂を受け取れば?」
「帝国が監督官を置くのです」
「それだけでは、監督官が賄賂を受け取ります」
「では商人にも帳簿を提出させ、双方の記録を照合しましょう」
レオポルトが目を丸くした。
「いまのは、私が言おうとしていたことです」
「殿下のお考えと同じなら、結構なことです」
「私の意見を認めてくださるのですか?」
「道理にかなっておりますから。なぜ驚かれるのです?」
エカテリーナが首をかしげると、レオポルトは声を立てて笑った。
「あなたは実に明快な方ですね」
「面白みに欠ける女だと、以前から言われております」
口にしてから、エカテリーナはしまったと思った。
以前の婚約者、ヴァレンティア王太子アレクサンドルの言葉だ。彼はエカテリーナが政務について意見を述べるたび、難しい話はいいから黙って微笑んでいればいい、と言った。聖女の話になれば、彼はいくらでも耳を傾けたのに。
いまさら、そんなことを思い出すつもりはなかった。
「以前にも申し上げました」
レオポルトの笑みが消えた。
「あなたほど話していて飽きない方を、私はほかに知りません」
真正面から言われ、エカテリーナは返す言葉を失った。
横から、侍女のナターシャが小さく息を漏らす。向かいの侍従武官フリードリヒも、口元を隠していた。
「お二人とも、何か?」
「いいえ、お嬢様」
「何もございません、閣下」
答えだけは、見事に揃っていた。
ナターシャは、膝の上で指を組み直した。
王宮にいた頃、エカテリーナはいつも相手の顔色を見てから口を開いた。十年も王太子の婚約者を務めれば、自分の発言ひとつで彼の機嫌を損ねると知ってしまう。
けれど、いまの主人はどうだろう。レオポルトの言葉に反論し、自分の考えを述べ、正しいと思えば彼の意見も認める。長くそばにいるナターシャには、それが嬉しかった。
「そういえば、ヴァレンティアの商人が帳簿を偽る可能性もございますね」
エカテリーナはさっそく地図へ目を戻した。
「その場合、わが国の商人にも罰則を設けましょう」
「あなたの国の商人が、反発するでしょう」
「いたしましょうね。でも、不正を見逃してほしいという要求まで通すつもりはございません」
レオポルトがまた笑う。
「私はあの商人たちに、あなたの言葉をそのまま伝えたい」
「殿下が先にお伝えになれば、わたくしの立場がなくなります」
「では、隣で聞いています」
何でもない約束のように言われた。だがエカテリーナには、「あなたが話すのを、私は聞く」という言葉が胸の奥に残った。
フリードリヒも主人の横顔を見ていた。レオポルトが誰かと意見をぶつけ、そのやり取りを楽しむ姿を、彼は久しぶりに見た気がする。
向かいのナターシャと目が合う。二人は声を出さずに、そっと笑った。
◇ ◇ ◇
馬車が轍を越えて揺れ、座席脇の鞄が倒れた。こぼれ落ちた黒い乗馬手袋を、レオポルトが拾う。
「朝駆けをなさるのですか?」
「王都にいた頃は、ほとんど毎朝」
「それは意外です。あなたが馬上にいらしたら、さぞ美しいでしょうね」
「ありがとうございます」
「ただ、馬のほうが緊張するのではないかと。少しでも怠ければ叱られそうです」
フリードリヒが片手で額を覆った。
エカテリーナは手袋を受け取り、静かに鞄へ戻す。
「殿下は、わたくしをどういう女だとお思いなのですか?」
「何事にも手を抜かない、立派な方だと……」
そこでようやく、レオポルトは失言に気づいたらしい。
「褒めたつもりでした」
「馬が聞いたら喜ぶでしょうね」
ナターシャがとうとう笑いだす。
「申し訳ございません、お嬢様。ですが、殿下は悪気があっておっしゃったのでは」
「分かっているわ」
エカテリーナも窓のほうを向いた。腹が立ったはずなのに、頬が緩むのを止められなかった。
「ナターシャ殿もご一緒に?」
今度はフリードリヒが尋ねた。
「はい。十二年ほど、毎朝お供しております」
「十二年も?」
「初めは馬に近づくのも怖かったのですが、お嬢様が毎朝、練習に付き合ってくださって」
「あなたが乗れるようにならなければ、わたくしも朝駆けに出られなかったもの」
「お二人とも、横乗りで十二年ですか」
フリードリヒは感心したようにナターシャを見る。
「一度も落馬なさっていないなら、立派な騎手です」
「お嬢様に置いていかれないようにするだけで精一杯です」
「それができる方は、そう多くありません」
まっすぐな言葉に、ナターシャの頬が赤くなった。エカテリーナは見ないふりをする。
「フリードリヒ様は、いつから殿下のおそばに?」
「十歳の頃からです。小姓として宮廷へ上がりました」
「わたくしも十歳で公爵家へ奉公に出ました」
「では、同じですね」
生まれも、家を離れた事情も違う。それでもナターシャには、その一言が嬉しかった。フリードリヒも、それ以上の事情を尋ねなかった。
しばらくして馬車が森へ入ると、ナターシャが窓の外を指さした。
「白い鹿がいました!」
皆が振り向いたときには、木々の奥に姿はない。
「見間違いではありませんか?」
「本当に見たのでございます」
「白い鹿ですか」
レオポルトは懐かしそうに笑った。
「子どもの頃、猟師から聞きました。白い鹿を見た者には、幸運が訪れるそうです。その猟師は白い鹿を見たあと、のちに妻となる人と出会ったとか」
「それならナターシャにも、素敵な方が現れるかもしれないわね」
「お嬢様!」
向かいでフリードリヒが座り直す。ナターシャも目をそらした。
エカテリーナは笑いをこらえた。
「そういえば、帝都の北に美しい湖があります」
レオポルトが、今度は彼女を見た。
「到着して落ち着かれたら、ご案内しましょう」
「森林資源の視察でございますか?」
「遠乗りへのお誘いのつもりでした」
「……遠乗り」
「会議室の外にある帝国も、あなたに知っていただきたいのです」
その言葉に、エカテリーナは窓へ視線を逃がした。
「ナターシャも一緒でしたら」
「もちろん。フリードリヒにも同行させます」
いまのは外交上の誘いなのか、それとも。そう考えた自分が急に恥ずかしくなった。
レオポルトのほうは、いつもどおり晴れやかに微笑んでいる。
「あの、殿下」
「はい」
「湖へ行く日にも、交易の話をなさいますか?」
「あなたがなさりたければ、いくらでも」
「わたくしが、ではなく」
口にした途端、エカテリーナは続きを言えなくなった。交易の話をしないなら、何の話をしたいというのだろう。
レオポルトは少し考えてから答える。
「私は、あなたが気に入る景色を見つけたいと思っています。会議で使う言葉以外にも、あなたの好きなものを知りたいので」
ナターシャが窓の外を向く。フリードリヒは咳払いをした。
「殿下は、そういうことを普通におっしゃるのですね」
「何かおかしなことを?」
「いいえ。何も」
エカテリーナは窓に映る自分の頬が赤く見えないよう、顔をそらした。
◇ ◇ ◇
十二日目、帝都アドラーホルストに到着した。
馬車を見つけた子どもたちが駆け寄ってくる。
「レオポルト様、お帰りなさい!」
レオポルトが窓から身を乗り出して手を振ると、子どもたちの歓声が上がった。護衛の兵士たちも、つられて笑っている。
旅のあいだ、彼は毎朝、侍女にも護衛にも一人ずつ声をかけていた。疲れているはずの夜にも、働きをねぎらった。
だから、皆が彼を慕うのか。
エカテリーナは、子どもたちに手を振る横顔を見つめた。
アレクサンドルが王都を通れば、人々は礼をする。だが、あのように笑って駆け寄る子どもを見た覚えはない。
「ずいぶん慕われていらっしゃるのですね」
「この馬車が珍しいのでしょう」
「殿下」
フリードリヒが呆れた顔をする。
「そのお答えは、さすがに無理がございます」
「そうなのか?」
彼はまだ窓の外を見ていた。
――皇帝の資質。
そんな言葉がエカテリーナの頭をよぎる。だが皇太子は、レオポルトの兄テオドールだ。考えても仕方のないことだと、彼女は胸の内にしまった。
大使館へ着くと、レオポルトは皇帝への帰還報告のため、フリードリヒとともに先に去るという。
「お茶でも召し上がっていかれませんか?」
エカテリーナは、思わず口にしていた。
レオポルトが少し嬉しそうに笑う。
「ぜひ、次の機会に。明日は皇宮でお待ちしております」
「はい。明日、お目にかかります」
馬車を見送ってから、エカテリーナは自分が次の機会を待ち遠しく思っていることに気づいた。
「閣下。お待ちしておりました」
迎えに出た書記官長オリガ・ユスポワが、深く頭を下げる。
エカテリーナは立ち止まった。
閣下。
もう、王太子の婚約者として呼ばれたのではない。一国を代表する大使として、自分の名前で迎えられたのだ。
オリガは、取り繕った笑顔で彼女を迎えたわけではなかった。その目には、仕事を預かる者としての期待がある。
「こちらが北部交易路の資料でございます。陛下がお尋ねになる可能性が高いと考え、昨年の穀物価格も添えました」
「昨年の数字まで。助かります」
「閣下がお使いになると存じましたので」
エカテリーナは資料を受け取り、思わず表紙を撫でた。
「わたくしが政治の話をすると、以前はたいてい『そんなことまで考えなくていい』と言われました」
「それをおっしゃった方は、いまここにはおりません」
オリガのきっぱりした返答に、エカテリーナは顔を上げる。
「大使館では、考えていただかなくては困ります。わたくしたちは閣下の判断をお待ちしておりますから」
誰かを支えるためだけの知識ではない。今日からは、自分の仕事に使えるのだ。
「留守を守ってくださって、ありがとう。明日の謁見には、この資料を使わせていただくわ」
「承知いたしました、閣下」
オリガのきびきびとした返事に、エカテリーナは思わず笑った。
◇ ◇ ◇
「ナターシャ、少し締めすぎではなくて?」
翌朝、エカテリーナはコルセットを気にしながら尋ねた。
「いつもどおりでございます」
「そうかしら」
「昨日の書類を、夜中まで三度もご確認になったせいでは?」
「三度ではないわ。最後は目を通しただけよ」
「それを四度と言います」
エカテリーナは反論を諦めた。
若草色の正装には、大使の綬帯と国王から授かった勲章を合わせている。胸元には母の形見であるサファイアの首飾り《嘆きの女王》。ナターシャが最後の留め具を確かめた。
「お母様がいらしたら、何とおっしゃるかしら」
「きっと『少しは朝食を召し上がりなさい』と」
「……それもそうね」
二人は鏡の前で笑い合った。エカテリーナは胸元のサファイアにそっと触れ、深く息を吸う。
「お嬢様なら、大丈夫でございます」
「王太子の隣で黙って微笑んでいればよかった頃とは違うわ」
「お嬢様は、あの方の隣でも黙っていらっしゃいませんでした」
「……そうね。だから嫌がられたのかもしれない」
「嫌がる方ばかりではございません」
ナターシャは鏡越しに主人を見る。
「十二日間、楽しそうにお話しなさる方がいらしたでしょう?」
エカテリーナは目を伏せ、それから小さく笑った。
「ありがとう、ナターシャ」
◇ ◇ ◇
皇宮で二人を出迎えたのは、侍従長官オスカー・クラインだった。左右で色の違う瞳をした男で、その目がじっとこちらを見ている。
「皇帝陛下がお待ちです」
謁見の間の大きな扉が開かれる。
奥の玉座までは、長い深紅の絨毯がまっすぐに延びていた。エカテリーナは一人で歩を進める。
「ヴァレンティア王国特命全権大使、エカテリーナ・ヴォルコフ閣下」
名を呼ばれた先に、皇帝カール・エルディアが座っていた。壇の下には皇太子テオドールとレオポルトがいる。
レオポルトと目が合った。彼は父帝にも分からぬほど、わずかにうなずく。
大丈夫だ、と言われた気がした。
エカテリーナは一礼し、国王からの国書を差し出した。
「面を上げよ、ヴォルコフ大使」
皇帝は彼女の美貌にも、婚約を解消した事情にも触れなかった。
「ヴァレンティアは交易の拡大を望んでいるそうだな。帝国に何の得がある?」
儀礼的な挨拶を用意していたエカテリーナは、頭の中でそれを捨てた。
「わが国の産物が売れればヴァレンティアが豊かになります、と申し上げても陛下はご納得なさいませんでしょう」
宮廷人たちがざわめく。
「続けよ」
「帝国北部は冬になると道が雪で閉ざされます。昨年は穀物の値も上がりました。ヴァレンティアの港から北部へ通じる道があれば、南部からの輸送が止まったときにも食料を届けられます」
「帝国にも穀倉地帯はある」
「はい。ですが南部に食料があっても、北部の民へ届かなければ、ないのと同じでございます」
皇帝の青い瞳が細くなった。
「つまり、帝国の弱みにつけ込んでヴァレンティアが儲けるのか」
「いいえ」
エカテリーナは視線をそらさなかった。
「帝国は不足したときの輸送路を得て、ヴァレンティアは帝国の穀物と鉄を安定して得られます。一方だけが得をする取り決めは長続きしません。わたくしが望むのは、両国の民を飢えさせない協定でございます」
広間が静まり返った。
「……口だけの大使ではないらしい」
短い言葉だった。それでも、先ほどまで値踏みするように見ていた宮廷人たちの顔が変わる。
エカテリーナは、その視線が何を意味するか知っていた。婚約を解消した公爵令嬢が、王太子の名を借りずに、外国の皇帝から返事を引き出したのだ。
壇の下に立つレオポルトがこちらを見ている。彼が嬉しそうな顔をしていると気づき、エカテリーナの胸が温かくなった。
エカテリーナは深く頭を下げた。
「父上、私もヴォルコフ大使の意見に賛成です」
兄皇太子テオドールが口を開いた。
「昨年のような不足を、二度と繰り返すべきではありません」
言葉の終わりに小さな咳が混じる。レオポルトが心配そうに振り向いた。
「大丈夫だ。少し喉に引っかかっただけだ」
テオドールは弟に微笑んだが、顔色は白い。
「交易路は必要だ。だが、道そのものが壊れたらどうする」
皇帝はまたエカテリーナを見た。
「三日前、雪解けと大雨で北部の川があふれ、橋が二本流された。街道も崩れている」
知らされていなかった宮廷人たちが顔を見合わせる。
「レオポルト。現地へ行き、再建案をまとめよ。期限は一月だ」
「承知いたしました」
帝都から北部まで、片道十日近い。それで一月以内に被害を調べ、領主と商人の対立も収めろという。
誰もが断りたがる仕事だ。だが、レオポルトはためらわずに頭を下げた。
壁際の宮廷人の一人が、隣へ何かささやく。聞き取れなかったが、浮かべた笑みの意味は分かった。
また第二皇子に貧乏くじが回ったのだ。
エカテリーナは、握った手に力を込めた。
レオポルトには現地の道と人が分かる。自分には交易と交渉の知識がある。ならば、すべきことは一つだ。
そのとき、テオドールが再び咳き込んだ。
「父上。失礼して、先に部屋へ戻ります」
「ああ。休むがよい」
レオポルトは兄に手を伸ばしたが、テオドールは大丈夫だというように、その肩を軽く叩いて歩き出す。
不意に足元がふらついた。
乾いた音が響く。
テオドールの手が触れた青磁の壺が、床で砕けたのだ。対になっていたもう一つだけが、暖炉の上に残る。
澄国から贈られたその一対には、創建者である兄弟が、二人で国を築いた物語が描かれていた。
「兄上!」
「壺より、私のほうが丈夫だよ」
テオドールは弟へ笑いかけたが、その額には汗が浮かんでいる。侍医に付き添われ、彼は広間を出ていった。
皇帝は閉じた扉を見つめていた。肘掛けを握る指にだけ、力がこもっている。
「出立に必要なものを申請せよ。以上だ」
「お待ちください、陛下」
エカテリーナの声に、侍従長官が口を閉じた。
「わたくしも北部へ同行させてください」
再び広間がざわつく。
「帝国の問題だ」
「洪水で壊れたのは、わが国の商人も通る道でございます。現地を見ずに交易の協定を結ぶことはできません」
「昨日、帝都へ着いたばかりであろう」
「ですから、一日も早く参ります」
「危険もある」
「承知しております。その上で、わたくしが決めました」
皇帝は答えず、息子へ顔を向けた。
「レオポルト。そなたはどう思う」
レオポルトがエカテリーナを見る。その目に、彼女を危険にさらしたくないという迷いが浮かんだ。
だが、彼はその迷いを自分の中で収めた。
「大使は、ご自分の意思で同行を望まれました。私が危険を理由に拒めば、彼女の選択を奪うことになります」
「守りきれるのか」
「彼女を私の後ろへ置くつもりはありません」
レオポルトはまっすぐ父帝を見た。
「大使がその役目を果たせるよう、私も自分の役目を果たします。二人で参ります」
胸が、静かに高鳴った。
この人は、わたくしを見目のよい飾りにも、守られるだけの女にもしていない。わたくしの言葉を聞き、わたくし自身が下した決断を受け止めている。
「よかろう」
皇帝の声が、広間を貫いた。
「レオポルトとヴォルコフ大使に、北部交易路の共同調査を命じる。第二皇子は被害と再建方法を調べ、大使は交易と輸送の問題を整理せよ」
「御意にございます」
「謹んで承ります」
二人は並んで頭を下げた。
見ていた宮廷人たちも、もはや誰一人、彼女を王太子に捨てられた令嬢として扱えなかった。
壁際でひそひそ話していた男が、そっと視線を落とす。別の重臣は、手元の記録に二人の名を書き留めていた。
エカテリーナは顔を上げた。北部には壊れた橋があり、食料を待つ民がいる。皇帝の一言だけで解決する仕事ではない。
それでも、先ほどまで自分を値踏みしていた場所で、彼と同じ任務を任された。そのことが、たしかに嬉しかった。
◇ ◇ ◇
謁見を終え、二人が廊下を歩いていると、曲がり角の向こうから声が聞こえた。
「また北部を任されたのか。第二皇子も気の毒に」
「成功すれば領主の手柄、失敗すれば殿下の責任だろう」
若い貴族たちは本人に気づき、青ざめて頭を下げた。
「申し訳ございません、殿下」
「構わぬ」
レオポルトは足を止めなかった。
角を曲がり、二人の声が届かなくなってから、エカテリーナは尋ねた。
「腹は立ちませんか?」
「彼らが言ったことは、間違いではありません」
「それを、黙って聞き流されるのですか?」
「言い返しても橋は戻りませんから」
そう言って、レオポルトは笑った。
「それより申し訳ありません。帝都へ着いたばかりのあなたを、また長旅に」
「わたくしが選んだのです」
「ですが――」
「先ほど陛下の御前で、わたくしの選択を尊重するとおっしゃいましたよね」
レオポルトは口を閉じた。
「もうお忘れになったのですか?」
「いいえ。忘れてはいません」
「でしたら、謝らないでください」
エカテリーナは彼の隣に立った。
「そして、あの方たちの言葉を覆しましょう。誰かの失敗を押しつけられるだけの仕事には、いたしません」
レオポルトは目を見開く。
「先ほどのお言葉を、わたくしは忘れません」
「どの言葉ですか?」
「わたくしを後ろへ置かない、と」
「当然のことを言ったつもりですが」
「殿下には、そうでしょうね」
エカテリーナは小さく息をついた。
「わたくしが意見を言うと、口を出さずに任せておけと言う方もいました。心配しているつもりなのでしょう。けれど、わたくしには自分の役目があるのです」
「あなたの役目を、私が奪うわけにはいきません」
「わたくしも、殿下の仕事を横取りするつもりはございません。ただ、一緒にできることはあると思います」
「ええ」
レオポルトは、彼女の歩幅に合わせて隣に立った。
「まずは、何から始めましょう」
「道が壊れた場所と、食料を待つ村を確かめます。誰が困っているのか分からなければ、机の上で何を決めても届きませんもの」
「では、私は橋の技師を呼びます」
「わたくしは商人と領主の記録を読みます。両方の話を聞いてから、お会いしましょう」
今までなら、エカテリーナがここまで言う頃には、相手は退屈そうな顔をした。レオポルトは違った。必要な資料が頭の中で並んでいくかのように、楽しそうにうなずいている。
「あなたとなら、本当にできる気がします」
「殿下。まずは橋の修復と通行税の資料を集めます。喜ぶのは、その後です」
「はい、大使殿」
彼は楽しそうに笑った。
「それと、北部から戻ったら……あの湖への遠乗りも、忘れていませんから」
今度はエカテリーナが足を止める番だった。
「視察ではなく、遠乗りですね?」
「もちろんです。あなたと行きたいのです」
あまりにもまっすぐな言い方だった。
少し後ろを歩くフリードリヒが、また額を押さえる。ナターシャは笑みを隠すため、彼から顔をそらした。
「……では、まずは北部の仕事を成功させなくては」
「ええ。二人で」
エカテリーナは隣を歩くレオポルトを見上げた。
誰かに選ばれる日を、もう待たなくていい。自分の行く場所も、隣に立つ相手も、自分で選べる。
「参りましょう、殿下」
「はい、ヴォルコフ大使」
二人は並んで歩き出した。
その背を見送る誰かの視線が、もう彼女を立ち止まらせることはなかった。
◇ ◇ ◇
謁見の間では、皇帝が侍従長官オスカーから新しい書類を受け取っていた。
だが、文字には目を落とさない。
「陛下」
皇帝のたった一人の友が、控えめに声をかけた。
「いかがなさいましたか?」
「いや」
皇帝は、二人が出ていった扉を見た。
「レオポルトにも、ようやく運が向いてきたのかもしれぬ」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。二人の共同任務は、ここから始まります。
旅や宮廷で過ごす四人の姿は、連載版『不遇な第二皇子に求婚されました――今度は二人で幸せになります』で詳しく描いています。




