私は、ライラックが咲いていても、その花の名前をライラックだと知らずに、ただ「美しい」と見つめるのだろう
仕事の帰り、電車の中からライトアップされている桜が見えた。川沿いに並ぶ桜は、ビルやマンションに隠れながら、しばらく続いている。ここはきれいなので、桜の時期は見逃さないように窓外に目をやっていた。
ライトアップが見えなくなったので、スマートフォンを取り出す。SNSのタイムラインの一番上に、ライラックの写真があった。紫色の細かい花々が、いくつもいくつも集まっている。大好きな花店の投稿だった。どれくらいの大きさなのだろう。私は写真でしかライラックを見たことが無い。もし本物のライラックが咲いていても、それがライラックだと同定できないと思う。
電車に三十分ほど揺られ、最寄りの駅に降り立つ。駅から家までは徒歩五分だ。マンションの三階の部屋に着く。
〈ライラックってどんな花か知ってる?〉
《何それ、ブランキーの歌詞?》
すぐに彼から返信があった。
〈聞いてみたかっただけ〉
私の口角が自然と上がる。
《わからないよ》
ミセスの曲? と言わないところが好きだ。メッセージの相手は彼は同僚の大海くん。今は家にいるのだろうか。
ブランキー・ジェット・シティーのベンジーは、ライラックのことを「たぶん赤くて五センチくらい」と歌っている。大海くんがライラックを知らなかったことも、ベンジーみたいで好きだと思った。もし、彼が花に詳しくても大好きだと思うけれど。
〈今度の土日、どっちか空いてる?〉
駅前のコンビニで買ってきた、いちごサンドとヨーグルトと野菜ジュースをテーブルに並べる。スマートフォンで『ライラック』を流した。
《どっちも空いてるよー》
〈じゃあ土曜日、桜を見に行かない?〉
《OK。どこで見るの?》
〈港でランチして桜並木が見たいな〉
《わかったよ》
いちごの甘酸っぱい香りがする。ブランキーの『ライラック』は冬の歌だ。「その友だちは、きれいな心を持ってる」という歌詞が響く。きれいな心とはどんな心だろうか。大海くんはきっと持っている。私にもあるだろうか。人は人の、きれいな心に惹かれる気がする。
電車の中から桜を見るたびに、ここに大海くんが居たら、と思っていた。土曜日の桜は、満開を過ぎているだろう。まだたくさん咲いているといいなと思いながら眠りについた。
待ち合わせの港の駅で降りると、すでに大海くんが改札の外で待っている。こちらに手を振っていた。
「お待たせ」
「さっき着いたところだよ」
もうすぐ正午だ。予定していたカフェの、二人がけの席に案内される。前に来たときと違い、春のメニューになっていた。
「満開だね」
笑顔の大海くんが窓から視線を私に向ける。カフェの大きな窓から、桜並木が見えていた。
「うん、雨で散らなくてよかった」
私も笑顔で言った。
大海くんのアイスアメリカーノと、私のアイスカフェラテが届く。
「今日は何か買うの?」
「ううん」
「スニーカーが欲しいから、あとで付きあってよ」
「いいよ」
大海くんは和牛のビーフシチュー、私はモッツァレラとトマトのポモドーロを食べ終わり、カフェと同じファッションビルに入っている靴屋に行った。ネイビーのスケートハイを試しに履いている大海くんは、「俺はヴァンズとマーチンしか履かない」と言っている。私もヴァンズの黒いオールドスクールを持っていた。今日はマーチンのチェリーの3ホールを履いている。黒の8ホールを履いていた大海くんと、お揃いのようで嬉しい。
大海くんがネイビーのスケートハイを選び、ファッショビルを出ると目の前に桜並木が続いていた。潮風が吹くたびに花びらがアスファルトに舞い落ちる。雪が振っているようだった。胸がぎゅっとなる。大量の桜の木から次々に花びらが零れていた。
「すごいな」
大海くんも舞い散る桜を見ている。駅まで二人で並んで歩いた。桜の中の大海くんを感じる。冬に彼女に振られたばかりの大海くんと出かけるのは、今日がはじめてだった。今でも大海くんの心の中には、前の彼女がいるのだと思う。私は何も言えない。この時間を壊してしまうことはできない。大海くんと桜の中にいる、この時間が永遠でありますようにと、祈ることしかできなかった。




