いかいえ
「異界の怖い話、詳しいか?」
一週間ぶりに大学にやってきた桑名は、妙に憔悴した空気で答えた。
通学どころか連絡もなかったので問い詰めようとしたらこれだ。
普段から充分濃かった目の下の隈はひどくなっているが、体が匂うとか髭が伸びているということはない。こざっぱりはしているが、精神的な疲弊があったことは伺い知れる。
この男のことだから、きっとまた危険な心霊スポットにでも行って苦労したのだろうと思って尋ねたが、言うに事欠いて異界とは。
「異界……いわゆるパラレルワールドとか異世界みたいな話ですよね。きさらぎ駅とか、異世界に行く方法なんか2ちゃんねるで有名です。それくらいは知ってますよ」
文芸サークルのメンバーの中で、俺や桑名はホラー系が好きだからつるんでいる。この辺りの話も、かつてはインターネットの中のアングラだったが、昨今では一般文芸にラノベ、ゴールデンタイムの夏の特番や映画化もされているほどメジャーだ。ホラーに詳しくない人でもきさらぎ駅くらい小耳にしているのではないか。
「じゃ、なんすか? 一週間連絡がつかなかったのは異界にいたとでも?」
「お前と俺は連絡とってなかったのか?」
「は? とってないですよ」
「俺はとってたよ」
何言ってんだと思ったが、桑名はスマホの画面を向けてきた。そこには確かにメッセージアプリに俺とのやり取りがあった。
他愛無い会話に、俺が桑名をいぶかしむ様子、学校に来ないことを軽く詰る言葉もあったが、どれも俺が送ったメッセージではない。
しかし内容を見てみると、それはいかにも俺が送りそうな文章だった。同じように桑名からこう送られてきたら、そう返していただろう文言が居並ぶ。
「……悪戯ではないんですよね?」
「そんな下らんことはしない」
桑名は、どうも俺ではない俺と、既存のトークルームでメッセージのやり取りをしていたと。
「なんで異界に?」
「それを今から話すんだよ」
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異界の行き方は様々だ。
きさらぎ駅の場合、特定の区間、時間、寝過ごす、そんな条件がある。
エレベーターで特定の手順を踏むだとか、特定の場所の鏡と時間で異界に繋がるとか、知っていて真似すれば可能だが偶然起こすことはまずない。
ともすれば儀式的なものですらある。鏡面や宵と明けの狭間のような異界に繋がりやすいものを準備して意識を異界に向ける、なんて黒魔術的な雰囲気の儀式。
とはいえそれは都市伝説的なものだ。面白おかしく、子供が怖がり過ぎないために作られたホラーって感じだ。
一方で理不尽な恐怖を描くホラーや教訓的なものもある。ゲゲゲの鬼太郎に出てくる妖怪なんかは枕を返すだけとか、死にたいと呟くだけで異界に連れ去ることもある。起きたら異世界だった、なんて日常的な行動の中でパラレルワールドに引きずり込まれる理不尽な恐怖を描いた話も……。
話が逸れたな。
俺は後者、お手軽異世界に迷い込んだんだ。
普段通り、心霊スポットの情報を調べながら帰宅して、すぐに気付いた。
家の中が微妙に違うんだよ。といっても、これが違う! みたいな大仰な違いはない。
なんだろうな……靴箱の靴も冷蔵庫の中身も、ほとんど一緒だった。調味料の総量も変わってないんじゃないかな。
ただ、例えば靴紐の結びのゆるさとか、袋の中の塩の膨らみ方とか、缶ビールの向きとか……、ほんの小さな地震が起きてズレたみたいな。
けれど決定的に朝、家を出たとは違う違和感が全てに顕著にあった。
まあ、ストレートに違うこともあったんだが。
「おかえり」
「……ただいま?」
一人暮らしなのに、知らない女がいたんだよ。
俺に彼女はいないし甲斐甲斐しく世話を焼く幼馴染もいない、母親も実家だし女兄弟もいないのに、若い、年も近いだろう女がいた。結構綺麗だった。
無言で手を伸ばしてきて何かと思えば、服をもらって洗濯籠に入れてくれる。感覚的にはたぶん妻とか将来を考えて同棲している相手なんだろうな。
食品や日用品も俺一人分しかないのに、何故かその女はそこに住んでいるようだった。
その女のリアクションが、俺を変質者として見ていないから、これは異常事態に巻き込まれたと思った。
事故物件に住んだ甲斐があったよ。
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「……それで監禁でもされたんですか?」
「いや? 良い女だった。ヤってはないが」
「じゃあなんで一週間も……」
「だってお前そりゃ、楽しまないと損だろ? 異界なんて来ようと思って来られる場所じゃねえんだから」
桑名はそういう奴だった。ひとりかくれんぼだの異界へ行く方法なんて全部試しているし、今も心霊スポットに行って、まるで何かに憑りつかれたかのように何かに憑りつかれようとしている。
普通に考えれば女が桑名を変質者に思うより、桑名が女を変質者だと思って通報するのが普通だろうに、そんな非日常すら楽しんでいる節がある。
「……じゃあ、なんですか? 家から出たら異界から戻ってしまうかと思って、家から出たくなかったと」
「ああ」
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自分の住むアパートが異界だった。
でももし玄関からすぐに出たら、同じ世界に戻ってしまうかもしれない。
異界に行くやつの結末はだいたい三つ、戻ってくるか、そこに居続けるか、死ぬ。
これを帰還、継続、死と呼ぶとするだろ?
家に居続ければ女がいる限りそこは異界だ。継続の可能性が高く、次に女か何かによって死、寝て起きて気付けば帰還なんてパターンもある。
でも玄関を出れば、家の外が異界化していれば継続、元通りなら帰還、いきなり爆死なんてことはないと思うから死はいったん考えない。
俺は異界を継続したかった。せっかく超常に向き合えているのに早々とリリースしたくなかった。命だって惜しくない。
幸い女は深くこちらと話をしなかった。かといって俺も女に根掘り葉掘り聞くことはしなかった。女が豹変して化物になって俺を殺すとかならまだいい。女が無言のまま、家を出て消えてそのまま帰還することが嫌だった。終わらせないためにだけ当たり障りなく振舞った。
家の中で出来ることは色々と試した。インターネットは変わらず使えるし、窓やベランダから外を覗くこともできた。
飯は何故か無限に出てきた。女が買い物に行く様子はないが、気付けば女は調理していて食卓に飯が出てきた。食器や箸も家になかったはずのものがある。思わず写真を撮ったね。女は一瞬俺の方を見て、すぐに食事を続けた。
奇妙な同棲生活は存外に心地よかった。ヨモツヘグイじゃないが異界の飯も食えたし出るもんも出た。一日二日とは寝なかったが、結局意識を失っても寝起きも問題なかった。
だが家の中だけじゃできることは限られてくる。特に短期間だと。
だって、テレビもネットもあまりにも普段通りだからな。平凡なニュースにくだらないワイドショー、「異界に来たけど質問ある?」ってスレ建てようと証明できなさすぎてクソスレ扱いだ。
一ヵ月、一年と継続したところでただただいたずらに時間が過ぎるだけだから諦めた。
最後に試したのがお前だ。
お前にメッセを送って、家に来てもらって、喋って、結果「馬鹿じゃないですか? 授業出た方がいいですよ」つって取り付く島もなかった。
お前って、異界でも異界じゃなくてもつまんねえよな。
んで、言われた通りに学校に来たわけ。
―――――――――――――――
「……え? こっちがつまんねえんですけど? なんで最後俺への文句で話を終わってるんですか?」
「俺が異界でワクワクしてたのに全部つまんなくなったもん」
「そりゃ全部詳らかにしようとするからでしょう。『家に帰ったら知らない女がいた、怖くて扉を閉めて、再び開けたら元通りだった、あれはなんだったんだろう』、それで終わらせれば永遠の謎でずっと怖いままでしょうに」
……別に、桑名は嘘を吐くような人じゃないから、充分に怖い話だと思うが。
「でも、俺が行った異界がつまらない異界だってわかったのはお前のおかげでもある。きさらぎ駅とか次から次へと異常現象が起きて面白そうだけど、『地下の丸穴』みたいなつまらない異界もあるもんな」
地下の丸穴、も2ちゃんねるの怖い話だ。平行世界に来て自分の顔も名前も別人で別の家庭を築くが、ほとんど元の世界と変わらないから日常に溶け込んでいくといったような話だった気がする。
「何もない異界に見切りをつけた感謝だ。これ、持ってきたから食ってくれ」
「えっ……と、これは」
先輩がタッパを取り出したかと思うと、一食分くらいの肉じゃがが出てきた。甘辛く煮た香りは食欲をそそるが。
何の変哲もない、それに異様な違和感を覚えた。具材に変わったところはないのに。
「もちろん、異界産の肉じゃがだ。どうせならお前も食ってみたいだろ?」
不思議とそれが食べ物である認識さえ持てない。香り付きの消しゴムを嗅いでも食欲がわかないように、それをよくできた造形物だと認識しても口に運ぼうという意識はまるでなかった。
無言で手をこまねいていると、桑名はあっさりとそれを食べていき、綺麗に完食した。
「信じられないものを見る目してんな」
「……なんともないのか?」
「最初は俺もそうだった。でも食っちまえば大したもんじゃない。タイで食ったパクチーサラダもそうだったし、サルミアッキも慣れればこんなもんだ」
こいつは――異界の家に帰った時の違和感を、全部受け入れたのか。
受け入れた上で――平然と、もう慣れてしまった。
「やっぱイカれてる……」
「人聞きが悪いな。多様性の時代だぞ。これも異文化交流だ」
平気な顔をしてタッパーをしまうと、桑名は満足げに立ち上がった。
「まさか帰るんですか?」
「察しがいいな。そりゃあ日常に戻ったんだし家がどうなっているかそろそろ確認したいだろ!」
興奮気味で桑名は動き始めたが、その足は部室を出る前に止まった。
「……何か忘れ物でも?」
「いや、やっぱ興が削がれた」
「どうして?」
「だって帰って仮にあの女がいたとしても、もう俺が異界に行ったと言うより、あの異界の家がこっちに来ただけだろ。それはなんというか、つまらん」
「つまらんことはないでしょ。警察に言うなり身元を調べるなりやりようはあるし、俺も会ってみたいですよ」
「いや、乗り気にはならないな。そしたら……向こうの俺が羨ましい」
「……それはなんでです?」
「俺の住んでる事故物件が手に入ったんだぞ? 異界から来た事故物件なんて……異界の俺には最高の贈り物だろ」
桑名の思考はもう追いつくこともできない。勝手に残念がっているのを無視してため息をつく。
家に帰ってそのまま帰ってこなくてもいいのに、次会った時彼は女もいなくなっていたと、妙ににこやかに言っていた。
異界帰りの事故物件が嬉しいのだろう。