22 真相は誰も知らなくて良い
───あれからどれほどの時間が経っただろうか。この窓もない薄暗い地下室では時間なんて分からない。渚を死なないギリギリまで痛めつけることが依頼された内容だと言った男は、たまに最低限の水分を飲ませるためにやってきて、無理矢理飲ませたらすぐに帰っていく。食事など与えられるはずもなくそれだけならまだ良かったかもしれないが、戻ってきたもう一人の男が好きなように渚を苦しませていた。肉体的にも、精神的にも。
男はどこで手に入れたのかも分からない数多の薬品類を飲ませたり、少しの抵抗もできないように拘束された上からさらに抑えつけて強引に虫を食べさせ、冷え切った地下室で何時間も頭から冷水を浴びさせるなど徹底的に渚を弱らせ、拷問のような行為を繰り返していた。さらにそれらはすべてカメラに収められている。
最初は痛み、頭痛、眩暈、吐き気、呼吸困難や寒気、空腹などと戦っていた渚も次第に何も感じなくなり、生理的な涙さえ出なくなったようだった。ただ一つ、変化があるとすれば瞳から光がなくなっていっただけ。
しかし男がいない間に何とか暖を取ったり止血をしていたので、軽く見るだけならそれほど酷い状態は見えない。じっくり見れば隠しきれていない傷が山ほどあるが。
「───……来た」
「あ?」
五感が異常に発達している渚だけが聞き取れるほどの僅かな足音。渚が少しの抵抗もしなくなって以来初めて発した言葉に、目の前で立っていた男は扉の方を振り返った。
その一瞬の隙を狙って足枷を破壊した渚は男の持っていたカメラを蹴り落して壊す。この時のために少しずつ足枷に傷を付けていたのだ。
その勢いで首筋にも蹴りを入れ、男はそのまま気絶した。直後、地下室の扉が大きな音を立てて開けられ、中を見た男……渚の父は一瞬瞠目して動きを止めたがすぐに渚の元へ駆け寄った。
「渚っ!」
「危険です、咲夜様お待ちください!」
「大丈夫だから離せ! そんなこと言っている場合か!?」
「………っ」
止める護衛を振り切って渚の元へ向かい、急いで拘束を解いた咲夜はすぐに渚を抱きしめた。
「渚、声は出せるか?」
「……です」
「何だ?」
「うる……さい、です……」
「悪い。今は薬を持っていない。屋敷まで耐えられるか?」
「はい」
咲夜の言う薬とは五感の異常発達を抑えるものだが、この状況でも一番に気にする程度には渚にとって大事なものである。監禁されていた間は当然服用できていなかったため、彼は非常に危険な状態だった。
咲夜の後から入ってきた彼の部下によって渚に気絶させられた男は捕えられ、ここに辿り着くまでの間に他の関係者も捕まったようだ。
「大丈夫……ではないと思うが何をされたか、話せるか?」
「少しナイフで傷付けられただけですよ。顔は死守しましたけど」
「へぇ……というか、敬語は良い。自分に気を遣え」
「じゃあ遠慮なく。俺が誘拐されてどれくらい時間が経ったの?」
何を考えているのか、渚は本当のことを話すつもりはないらしい。事前にしっかりカメラも壊されているので例の男達が自白することはないであろうことを考えると、この件の当事者以外は真実を知ることができないだろう。
「俺も時間の感覚がおかしくなっているから正確には分からないが大体二、三日だな。大々的にこの件が広まっているわけではないから安心しろ。いずれ知れ渡ってしまう可能性はあるがそれは我慢してほしい」
「そう。……あの時俺と一緒にいた護衛は無事だよね? 勝手に出歩いた俺が悪いんだから処罰はなしにしてよ。無理でも軽くして」
「分かった。思っていたより酷いことになっていなくて良かった。詳しい話は帰ってからしよう」
「はいはい」
この時はまだ誰も気付いていなかっただろう。これ以上こんな暗くて狭い場所にいたくないしね、と苦笑しながら言った渚の違和感に。彼の瞳の奥が闇に染まっていたことに。
だが気付いた時にはもう手遅れだった。事件前にはたしかにあったはずの明るい光が、彼の瞳からは消えてしまっていた。
人は暗い感情ほど記憶に残りやすい。平気そうに見せているが渚はまだ十にも満たない子供だ。普通に考えて大人でもトラウマになるレベルの事件。この二、三日で感じていた不安や恐怖はどれほどのものだったか。それは渚以外の誰にも分からないが───
『桜井渚誘拐事件』。後にそう呼ばれ、世間に知れ渡ることとなってしまったこの事件で、幼かった渚は人間にとって多くの大切なモノを失った。
◇
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