507.(たっぷりのメープルシロップ)
*
「あの扉、どこに通じてるのかな」
校門を並んで出たところで、ふと、ともえが云った。
「ただの絵だよ」
「絵だと思えば絵だけど、そうじゃないかも」
「そうかな」
「わたしの旦那さんは頭が固いです」
「ぼくの奥さんは想像力が豊かだと思います」
五月の日差しが、さんさんとぼくらに降り注いだ。暖かで気持ちのいい日だ。
「あの扉、いつか開くのかな」
ともえの言葉に、もしかしたら、と思った。
もしかしたら、開くかもしれない。
「ちょっと気になったんだけど」
「うん」
「あの扉が開いたとして、何かがやって来るのかな。それともどこかへ行くのかな」
「ブギーマン」
「なに?」
「クローゼットの怪物だよ」
「やだ」ともえはぼくにチョップ。「わたしのダンナさんはロマンチック分が足りないです」
「すいません」
それから暫くふたり、黙って歩いた。街路樹がアスファルトに影を落とし、なんとなしにぼくはその葉を数えていた。
「扉の数だけ物語がある」ひとりごとのようにともえが云った。
「ん?」
「昨日ね、窓の外を見ながら思ったんだ。色んなビルとかマンションとか建ってて、その向こうには誰かがいて、そのひとそのひとそれぞれの生き方とか考え方とか、それこそ一部屋ごとにひとつとして同じなものはなくて、」
「──ドアがあれば、その向こうにはその数だけの物語がある」
「うん」
引き継いだぼくの言葉に、ともえは頷いた。
「そう思うと、扉って不思議じゃない?」
「そうだね」そんなこと、考えたこともなかった。
扉。ありきたり過ぎたからなのかもしれない。
そしてぼくらの家にも、扉はある。
「あのさ、ともえ」
「うん?」
「ありがとう」
「なによ、突然」
ともえはなんだか少し困った様な、でも照れたような顔をした。「何もしてないよ?」
ぼくは首を振った。「気持ちが楽になったよ」
「……学校に、行ってよかった?」
「もちろん」ぼくは即答した。「本当に、ありがとう」
「それは主任さんとお姉ちゃんだよ」
「それもあるけど──」
云いかけたぼくをともえは遮った。「だって全部の責任をダンナさんにおっかぶせるなんて簡単だもの」
「……それはこわいちゃんだね」
うんうん、と首肯するともえ。「それをみんなの責任ってことにして、落書きだってされちゃったし、もうなんでもありだよ」
苦笑する。さすがにあの落書きまでが容認されるの難しいと思う。と同時に、しかし、という思いも拭えない。あの魔女なら、きっとどうにかしてしまうと思えてしまう。
「お姉ちゃんの云う通り積極的に受け入れちゃえばいいよ」
「そうだね」云うほどに、簡単にはいかないだろうけれども。
「だいじょうぶだよ」ともえは云った。「大丈夫」
そうだね。
そうだよね、ともえ。
ともえの云うことならぼくはきっと受け入れられると思った。
ともえが云うのだから、ぼくは必ず受けいられると思った。
「ダンナさんダンナさん」
「なに?」
「なんだか気味悪いです」
「えっ」
「にやにやしちゃって」
「うん──」なんかずっと、ともえに主導を握られっぱなしみたいで、ちょっと逆襲したくなった。「ぼくはつくづくすてきな奥さんと一緒になれたんだなと思ってたんだよ」
「あらやだ」ともえはおかしそうに笑った。
五月の日差しに負けない、鮮やかで屈託のない笑顔。
やだなぁ、と、ともえは口を尖らせた。「わたしのダンナさんは、そう云うことをさらりと云えちゃうんだから」
「ともえは?」
ともえは、まっすぐ前を向きながら、口の中をもごもごと動かした。
「なに?」
訊き返しても、もごもごするばかり。
「なんなのさ?」
「だから、ダンナさんと結婚したんじゃない」
云って、耳まで赤くするともえを、ぼくは今までにないほどに強く愛しく思った。
「あのね、ダンナさん」
「うん」
「もし、目の前に突然扉が現れたら、どうする?」
「驚く」
「それから?」
ちょっと考えて。「ともえは?」
「訊いてるのはわたしだよ」
「違うよ」ぼくの答えに、ともえはきょとんとした目を向けた。
「ともえと一緒なら、開けてみようと思う」
「そう?」
「一緒に、来てくれる?」
ともえは立ち止まった。「答えなきゃ、だめ?」
ぼくも立ち止まって、ともえを見つめた。
答えは訊くまでもない。
ともえの答えは訊くまでもなく、最初から分かっていた。
だからぼくは云った。「一緒に行こう」
うん、とともえは子供のようにはっきりと頷いた。ぼくはともえの手を取り、再び歩き出した。ともえの手はやわらかくて華奢で、あたたかだった。
もし目の前に扉が現れたら、それは何処へと続く扉だろう。
その答えも、今なら分かる。
ぼくらの前にある扉なら、それは未来へと続く扉にほかならない。
明日か明後日か、一週間後か一月後か、一年後か十年後か。
いつか、どこかへたどりつく、その最初の扉。
例えば夜空に輝く星にしてみれば一瞬のことであっても、短すぎるなんてこともない。ふたりなら、どんなに短い時間であっても、短すぎることもないと思う。どんなに長い時間でも、長すぎることはないと思う。
「しあわせの定義ってなにかな」
赤信号。立ち止まって眩しい日差しに目を細めながら、ともえが云った。
行き交う車と、信号が変わるのを待つ人たち。
ぼくは少し考え、答える。「おいしいご飯が食べられて、ほどほどに満ち足りていること」
うん。「おいしいご飯は必須よね」
「それからともえがいる生活」
「やだなぁ、もう」
「なんでさ」
「わたしのダンナさんはそういうのさらりと云えちゃうから」
「云わない方がいい?」
「それはやだ」
「ぼくの奥さんは、素直だったり素直じゃなかったりする」
えー。「そうかな」
「そうだよ」
「なら、そうなんだ」
「それでいいの?」
「わたしはダンナさんの云うことにいつだって賛成だから」
そのとき、ぐぅ、と音がした。
「さて。ぼくの奥さんはお腹が空いたようですね」
くすくすと、ともえが笑う。
「わたしのダンナさんは、どこか美味しいお店を知っていると思います」
「お家でパンケーキを焼くのはだめですか?」ホットプレートを出して。
するとともえは、うーん、と人さし指を自分の顎に当てて。「ダンナさんはどう?」
「お好きなように」
「じゃ、パンケーキ」
ともえはきゅっと、ぼくの腕に抱きついてた。「バターと、たっぷりのメープルシロップ」
「ちょっと買い物していきましょうか」
「了解でっす」
信号が変わる。人の波が動き出す。五月の新緑に跳ねる眩しい日差しの街を、ぼくらは並んで歩いていく。
いつか、どこかへたどりつく、明日への扉が開くとき。
何が起こって、何が始まるだろう。
明日への扉が開く先。
きみとぼくの物語。
─了─