505.(誰一人気付かずだもの)
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「問題はこれ」
所長はついと階段の上に視線を向けた。そこに、扉があった。そんな図面を引いた憶えは──と思っても小さな階段が現に出来ている以上、自身に自信がない。
「へーっ」ともえが感心したような声を上げた。「すごいね、」
「すごい?」意味を捉えあぐねた。
「誰が描いたのかな」
云われて気がついた。それは非常にリアルに描かれた絵だった。騙し絵と呼ぶにも、見事なものだった。
「これ、主任が描いたんですか?」
「まさか」
「子供の頃は画家になりたかったって言ってたじゃないですか」
「えっ」と所長が驚いた。
ふたりは同級生だと訊いている。付き合いもかなり深かったであろう所長が画家の話は知らなかったのは、もしかしたらタブーだったのかもしれない。自分の口の軽さにちょっと嫌気。
「俺には無理だよ」
こんなにうまくない、と主任は云った。
「でも心当たりはありそうだね」くふっと所長。向けられた視線をついと主任は受け流した。
ふたりの間に何があったのだろう。下世話だと思いながらも、勝手に想像が広がってしまう。とは云え、同じ職場だから何かあったのならば、それはそれで困る。なにぶん所長は義姉で主任は恩人。
「十勝くん」所長は云った。「なんならボクから云っちゃおうか」
すると主任は、微笑んだ。それを了解としたのか、所長も微笑む。「キミの叔父さんだね」
「そうだね」主任は頷いた。「間違いないと思う。このタッチは叔父のクセがでてる」
「変な話だね」
「うん」
ともえが困ったような目を向けてきた。ぼくも狐につままれたような気分になった。
ふたりだけ言葉少なに、けれどもきちんと意思疎通をしている。同級生だったふたりだけの、ふたりしか知らない、特別な言葉のようだった。
「叔父はね」主任はふとぼくを見て云った。「ずっと前に、他界しているんだ」
突然、投げられた言葉にぎょっとした。
「違うよ」所長が云った。「神隠し」
「まさか、冗談でしょ?」
ともえはそう云ったけれども、所長の顔は真剣だった。
「七年経つと死んじゃったことになるのよ」
所長の言葉尻を主任が続けた。「本来ならば、何年も前に叔父はそうなってしまう」
「……なにか事情があるんですか?」
所長が主任が一瞬視線を投げ合ったのに気が付いた。
主任は云った。「毎年ね、俺の誕生日には電話をくれるんだ、おめでとう、って」
「じゃぁ失踪でも神隠しでもないんじゃないですか」
「うん──、」
「居場所、分からないんですか? 自分で隠れているとか」
「何処にいるのか訊くのは、やめたよ。どうしたって分からないんだ」
「でも死んでるわけじゃないですか」
「俺はね、叔父がいなくなって四年目、たまたま誕生日を挟んで出張していたんだ」
「はぁ」
「出張先のホテル宛てにバースディカードを届ける、そんな芸当できると思う?」
「……近くに、いるんじゃないですか?」
主任は空を見上げて、ぽつりと云った。「うん。俺はそう思っている。けれどもたぶん、それは半分正解で半分不正解だと思っているんだ」
「でも、そのバースディカードは証明に──」
「いや」主任は首を振って否定した。「それは翌朝にはなくなっていたんだ。さんざん探したけれども、見つからなかった」
しかしそれだけでは証明にならないだろうに。
主任は続けた。「前日、預かっていたカードを渡してくれたフロントマンは、カードの存在自体をすっかり忘れていたようだよ。あれが劇団員ならいい役者だろうね。でも彼はホテルマンだ」
「たぶん、位相がズレているんだろうね」
所長の言葉に、主任は頷いた。「うん」
「たまたま平行線が交わるのがキミの誕生日なんだと思う。特異点なんだよ」
「そうだろうね」
「キミだって経験、あるだろうに」
「うん、まぁ──」主任は歯切れ悪く、頭を掻いた。
「彼もね、一度神隠しに遭っているんだ」
さすがに驚いた。主任はメガネの奥の小さな目をぱちぱちとして、なんだか居心地が悪そうだった。
しかし所長はにやっと笑って。「学生時代だったっけね」
「俺自身があまりよく覚えてないことだから、」
「そうだね。まぁ妹夫婦よ、世の中にはそう云うこともあるんだよ、ってことで」
義姉はどこか意味深い雰囲気の笑みを口元に浮かべた。
「叔父がいなくなったのは不思議な話でね」つと、主任が口を開いた。「突然連絡が途絶え、そのとき住んでいたアパートを尋ねたんだ。両親と俺で」
「キミのお母さんの弟さんなんだよね、叔父さんって」
主任の言葉に主任は頷き、穏やかな口調で続ける。「アパートには見知らぬ女の人が住んでいたんだ。しかも彼女はそのアパートに二年住んでいると云う。叔父も確かそのくらい住んでいた」
「部屋を間違えたとか、」
「もちろん、すぐに大家さんに確認したよ」主任は笑った。「でも記録がぜんぜんないんだ」
「どこにも?」
「そう」それから主任はふっと唇をすぼめた。「まるで、ロウソクの火を吹き消すように、叔父は消えた」
「へぇーっ」ともえは不作法で、でも興味深げな声を上げた。「不思議なことってあるんだね」
「ともえ」不謹慎だよ。
「主任さんの叔父さんって、隠れる理由ってあったんですか?」
「うん──」ちょっと考えて。「分からないね」
「たとえば、その女の人が叔父さんだったとか」
あはっ、と所長が笑った。「斬新な解釈きましたよ、十勝くん」
主任は苦笑する。「さすがに女装していたにしても性別を変えたにしても、気付かないことはない、かな」
「そうは云っても、十勝くん。ボクだってキミと再会したときは本人だと思わなかったよ」
主任は苦笑した。「俺はすぐに分かったけどね」
「ずるいな」
「そうかな」
「他人がいて、自分が自分であることになるからね、だから君が入れ替わっていたとしてもなんら不思議じゃない」
「別人でも良かったんですか?」と、ぼく。
「ううーん」所長は唸った。「ちょっと語弊があったかな。問題は、私が彼の何をどう認識していて、どれくらい自身を信じているかどうかに尽きる」
「折角だから最後まで話してしまおうか」主任は所長に視線を向けた。「叔父の住んでいた部屋にいた女性は、実は叔父と同級生だったんだよ」
ふふっと所長は穏やかに笑う。「世間はホントに狭いものだね」
「ああ」
所長と主任は並んで絵の正面に立ち、それぞれ描かれたその絵に思いを馳せているようだ。
「あのさ」ともえが云った。「どっちにしてもそれが叔父さんの落書きって断定するのは無理じゃない?」
「ともえ、」
「そうじゃん? お姉ちゃん、なんか隠してることあるの?」
「まさか」所長は苦笑した。「わたしの方が知りたいわよ」
「論理的に考えるなら、たぶん美術部の悪戯だろうね」と主任。
「伝統かしらね」所長は肩をすくめる。さほど困ったようでもない。
いいのかなぁ。所長としての仕事ぶりは遜色ないと思う。むしろ有能で、ぼくはひそかに尊敬している。けれども義姉としてはどちらかと云えば大雑把な嫌いがある。
「あまり気にしないが良いわよ」
内心を気取られたかと思って、ひやりとする。
所長は続けた。「どうしてか発注から設計、施工に至まで誰一人気付かずだもの」
「でも──」
「壊すにしても図面、これでオッケィ貰っちゃったからね」所長はあっけらかんと笑った。「揚げ句にこの落書きときたもんだ。お上のお墨付きだと思えばいいのよ」
呆れ気味に主任が云う。「お前ってほんとに、」
「ほんとに、何よ?」
「なんでもない」
このふたり、相性はとても良いんじゃないだろうかと思うけれども、どうにも恋人同士という感じでもない。かといって、長年連れ添った夫婦にも見えない。
ああ、そうか。
ぼくは気がついた。
このふたりは、相棒なんだ。