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501.(ちょっとばかり運が悪い)

   ミステイク・ドローイング


 夕食の片づけを終え、洗ったお皿を水切りに並べると、ぼくは妻に呼びかけた。

「ともえさん、ともえさん」

 リビングのソファに寝そべり、昨日届いたばかりの黄色い表紙の自然科学の雑誌を読んでいたともえが顔を上げた。「なんですか、ダンナさん」

「ぼくのアトリエに入りましたか?」

 アトリエ、と云うのは誇張だ。書斎と呼ぶには趣味の本だのCDだの玩具で溢れかえり、カティングマットを敷いた工作デスクも相まって工房とか秘密基地とかそんなところがたぶん、相応しい。

 ともえは一瞬、きょとんとした目をぼくに向け、云った。「入ってませんよ」

 けれども、その口元がひくひくと動いているのをぼくは認めた。

 推定無罪、とは云うけれども。

 ぼくは濡れた手をタオルで拭い、ソファのかたわらに立つ。「入りましたね?」

「いいえ」

 視線を背け、雑誌の続きを読む振りをしながらも、ぷるぷると全身が震えている。

 ぼくはともえの頭に手を乗せて、その髪を撫でるというよりくしゃくしゃにしてやった。「入りましたね?」

「誤解です」

「相違ないですね?」くしゃくしゃと。

「ですから誤解です」

「申し開きは訊きましょう」さらにくしゃくしゃと。

「分かりました、分かりました」ともえは笑いながら雑誌を閉じると起き上がり、もーっと云いながらもくしゃくしゃになった自分の髪を手櫛で整える。「わたしのダンナさんはひどいです」

「だから、入ったんですよね?」

「入りました」

 ぼくはソファに座り直したともえの隣に腰を降ろした。「別に入っちゃいけないってことはないってことはないんだけどね」

「ええ、そうですよね」

「でも作りかけのプラモデルを組まれるのは困ります」

「え、だって」

「うん?」

「ばらばらになっててかわいそうだったから」

「あれはね、工作しやすいようにばらばらなんだよ」

「ごめんなさい」

「まぁ……よくできてました」

 実は、ちょっと感心していた。パーツ毎に分かり易いよう小分けにしていたけれども、触ったことのない人間が組み立てるのは云うほど簡単とも思えない。組図だってそれなりにページのある冊子だ。さらに云えば、前脚と後ろ脚の一部は同じ金型のランナーを使っているから、余計に分かり難い。

「大丈夫、なの?」

 心配そうな視線を投げてきたので、ぼくはまたともえの髪をくしゃくしゃにしてやった。「大丈夫だよ」そもそも後はデカールを貼ってトップコートを吹くだけ、ただそこでずっと工作が止まっていたのだから。「でも他にもあるでしょ」

 棚に飾ってあったアクションフィギュアが、一様に空手かカンフーみたいな恰好でずらっと並んでいた。全員同じ恰好。気付いてぞわっとした。全部が同じって。

「えっと、あれは、」

「うん。あれは?」

「勝手に動いたんだよ!」映画みたいに!

 それも怖い。むしろ怖い。アクションフィギュアはお人形みたいに供養対象になるのかなぁ。燃やしたら有害な気がする。PVCとかABSとかPSとか。

「ともえさん、ともえさん」ぼくは手招きした。

「はい?」

 寄ってきたともえの頭をがっしり掴むと、また髪をくしゃくしゃにしてやった。

「やーめーてー」

 ごめんなさい、ごめんなさいと、ともえ。

 だめです、だめですと、ぼく。

 ふたりでひとしりき笑い合って、ひといき。ともえが淹れてくれたお茶を並んで飲んだ。

「あれ、難しいね」ポーズつけるの。

「でも綺麗に並んでいたよ」

 中にはギミックが内蔵されているものもあり、対象年齢も十五歳以上だったりする。慣れない人が触るには相応に難しいと思う。パーツも細かい。とは云え、年の割に子供っぽいところがあるともえは存外、器用だ。と思ったけれども、それはぼく自身も余り大差ないと思い当って、ああ、そうか、だからともえなんだと改めて思った。

「遊んでる途中でミサイル飛んできた」

 ともえは前髪をかきあげ、おでこを見せる。「ここ」当たった。

「大丈夫? 痛くなかった?」

 痕になってないか、ぼくが顔を寄せると、ともえは恥ずかしそうに身を引いた。「やだなぁ、もう」

「えっ」

「ダンナさんが玩具を大事にしているの知ってますけど、先にわたしの心配をしてくれるなんて」

「そりゃあ」ちょっと気恥ずかしさもあったけれども。「ぼくの、奥さんですから」

 すると、ともえは。「ダンナさん、ダンナさん」今度はぼくを手招きした。

「なに?」

 がしっと両脇から頭を掴まれたと思った次の瞬間、額にキスをされた。それからぼくを解放すると、自分の頬を掻きながら照れくさそうに笑い、話し始めた。

 それは今日昨日のことでなかったらしい。ぼくが知らぬまま静かに、ゆっくりと進行されていた。初日は一体、フィギュアをお相撲さんみたいに四股を踏む恰好にさせた。ぼくが気付かなかったので翌日は数体、どすこい張り手(ともえ談)にしてみた。それでも反応がなかったので、さらに全部のフィギュアをアチョーな恰好(ともえ談)にしたついでに、ばらばらだったプラモデルを組み立て、カッティングマットの中央に置いたと云う次第だ。さすがにこれに気付かないとなると病院か実家か、あれこれ考えたと云う。

「なんか、ぼーっとしてるし、かと思えば難しい顔したりで、」

 ちょっと心配してたんだ、と悲しげな視線を投げてきた。ぼくの胸はちくり、と痛んだ。

「ごめん、」

「なんか気になってること、あるんでしょ?」

「うん、まぁ……」

 歯切れ悪く口にして、すぐさま失言に気付いた。彼女に余計な心配をさせたくない、と思う。

「話したくなったら、話して欲しい」

 ともえはまっすぐ見つめてきた。

 ぼくは、たぶん、その言葉を待っていたのだと思う。

「仕事、なくすかも」

 素直に、言葉が出た。ともえの顔は見れなかった。「ちょっと……いや、かなり大きなミスをした」

「ダンナさん」

 そう云うと、ともえはぼくの頭をぎゅっと抱き込み、自分の胸に引き寄せた。「だいじょうぶだから」

「どんなミスか、訊かないんだ」

「話したい?」

 ともえの鼓動を感じた。ともえの呼気を感じた。ともえの体温が、ぼくの気持ちをやわらかに包んでくれた。

「訊いてくれる?」

「もちろん」一分の迷いもなく、ともえは云った。

「ダンナさん」

「うん、」

「ダンナさんはちょっとばかり運が悪い人なんです」

「それじゃともえがとばっちり受けるじゃ──」

「わたしは運がいい人。だからプラマイゼロ、ううん、プラス。プラスだよ」

「そう、かな」ともえの気遣いはとても嬉しかった。同時に、苦しくもあった。

「前の会社が倒産したのだってダンナさんの所為じゃないし、その前の会社のことだって、見過ごせなかったんでしょ?」

 ともえがずっとぼくのそばに居てくれていたことに、改めて思い知らされた。

「ダンナさんは何も恥じることもないし、今度だってきちんと切り抜けられます」

 だから、と云い含めるようにともえは続けた。「そのために、わたしがいるんです」

 自分の意思に反して、ぽたっと涙がこぼれた。自分の不甲斐なさとか惨めな気持ち、そしてともえの言葉にこめられたぬくもりが、涙になってぽたっとこぼれた。

 情けなくて悔しくて苦しくて、でも、嬉しかった。

 心の奥底に澱となって溜まっていたそれが涙となって身体の外へと出たのを感じた。

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