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その五

 琥太郎は木刀片手に木戸を出た。

 部屋では慎之介が村人から頼まれた手紙を書いているので、自室を追い出された身としては、そこでゴロゴロしているわけには行かない。

 一穂は一穂で居間で小袖をなにやら仕立て直している。あの色柄からして、たずねなくてもあの晶とか言う娘のものだとわかった。


 それが、何よりおもしろくないのだ。


 一穂は生来世話好きな質だ。若い娘があの庄屋の狩りに巻き込まれ、鹿に間違われて森を追い回され、その上、行く当てもなさそうときては、放っておけるはずがない。

 今は何をしてやれるか、それだけでめいっぱいのはずだ。


 それは、しょうがないことだいうことはわかっている。

 だからこそ、人望もあるのだし、頭巫女を務めることもできたのだ。


 しかし……


「だいたい、あいつは一体何なんだ」

 とにかく、今まで琥太郎が関わってきた娘の範疇に収まらない。

 夕べなにげに炊事場の横を通って中を覗き込んだとたん、目にしたものに慌てて飛び込んだ。


「その手を桶に突っ込むな!」

 薄切りにした瓜の入った桶にのばされた手を、手首をつかんで持ち上げる。

「な、なに?」

 急に現れた琥太郎に晶は目を白黒させていたが、そんな事に構っている暇はない。

「自分の手、見ろ、自分の手を!」

「手? あれ」

 持ち上げられた左の指先から、薄赤い筋がすうっと流れ落ちている。

「うわ、いつ切ったんだろ。あ、しょっぱ……」

 慌ててくわえた指を、晶は顔をしかめてすぐに出した。そのまま裏の流しへと走っていく。

「……しょっぱ?」

 桶を覗くと、瓜の周りに塩の粒が光っていた。

「おまえ…… てめえの指切ったのも気づかねえで、塩揉みしてたのか?」

「みたい、ですね」

「ですねって…… 普通、染みるだろうが!」

「そのはずなんですけど…… あ、でもわたし結構鈍いんですよね。怪我しても気づかないこと多くって。あはは……」


「……あのなあ」

 呆れて物も言えない。


「これ以上飯を台無しにされてたまるか! 出て行け!」

「え、でも、お手伝い……」

「なんじゃ、瓜の浅漬けもできんか」

 腰を曲げたまま、お茂がよっこらしょと裏手から顔を覗かせた。

「いえ、できるはずなんですよ? うちじゃ、野菜サラダぐらい作ってたし」

「まあ、そう言うことにしておこうかの。それより琥太郎、良いところに帰ってきた。そこの魚を捌けや」

 見れば、昼間釣ってきた魚がそのまま、桶の中に転がっていた。

「この娘、触れんのじゃと」

「は?」

 耳を疑う。

「あ、あの、丸ごとの魚って触ったことなくって……」

「はあ?」

 おまけにその後、魚を焼くための七輪の前にしゃがみ込み、

「うわあ、本物の七輪だ。ほんとに炭だけで焼けるんだ~」

 と、食い入るように眺めていたのである。



「魚喰ったことねえのかよ、あいつは」


 一人愚痴りながら裏山へと続く道を取る。そこで素振りでもするつもりだった。


 そこへ、前から小さな人影が走ってきた。横を通り抜けそうになり、立ち止まる。

「あ、琥太郎兄ちゃんっ」

 真っ青な顔をした弥吉だった。

 年は八つ。近所の吾作の次男で琥太郎に良くなついている。


「どうした、おまえ。なにそんなに慌ててんだ?」

「怪我してる人がいるんだって。あっちの方で。すごい怪我なんだって! だから、一穂さま呼びにいこうと思って……!」

「怪我?」


 昨日訪れた先で、順庵(じゅんあん)が言っていたことを思い出す。

 冬でもないのに熊が里に下りてきて、最近人を襲っているらしい。この界隈で、もう二人もそんな死人を見た……と。


「わかった。オレが見てくる。おまえ、一穂さまと慎之介に声かけて、庵で待ってろ」

「う、うん!」

 転がるように走っていく弥吉の姿が見えなくなるのを見送って、琥太郎は走り出した。



***



 しん、と庵の内が静まり返っている。

 琥太郎に続いて、慎之介も出ていった。


「すぐ戻ります。さっき(よろず)が餌をねだりに来たばかりですから、まだその辺りにいるでしょう」

 けが人となれば、村唯一の医師である順庵の手が必要となるだろうからと呼びに行ったのだ。


 お茂は離れで横になっているはずだし、善爺は吾助の田を手伝いに行っている。

 一穂は居間で熱心に針を運んでいた。

「これならば、晶さまもご自由に動けるでしょうね」

 そして一人で微笑む。

 たとえ正体がどうであれ、いま、あの娘が今ここで頼る宛ても行くべきところもないことに違いはない。口に出して言いはしないものの、それぐらい見ていればわかるというものだ。


 それに……


『あの…… 大丈夫、なんですか?』

 夕べ、食事の後。

 琥太郎と慎之介が部屋へと引き上げてから。

 心配そうに、尋ねてきた。


 何のことを言っているのか、わかる。

 琥太郎の腕の傷のことを、心配しているのだ。


 どうやら、あの狩りの最中、矢が掠めたらしい。

 その傷を、魚を捌こうと襷がけにしたときに見つけたのだ。

 赤く、少し腫れた、二寸が程の。


 見つけたとき。

 晶は真っ青になってそれを凝視していたという。

 そして、慌てて何度も何度も頭を下げて琥太郎に詫びて。

 最後には

『うるせえな! オレはこんな傷ぐらいで堪えるほど柔じゃねえんだよ!』

 琥太郎に怒鳴りつけられて。

 それはそれで終わりになったのだけれど。

 食事の時もそのあとも、ちらちらと琥太郎に視線を移しては、きゅっと口をかみしめている。


 あんな怪我。

 少なくとも、いまの世では日常だ。

 一つ一つに心配をしていてはきりがない。

 そんなこと、誰もがわかっているだろうに……


 彼女は、それこそ泣きそうで。


 それはつまり。

 ここでの生活に縁がないと言うことだ。


 そんな『独り』の娘に手を差し延べるのは、当然のことだろう。


 それに……

 一穂自身、そういうことが好きでたまらないのだ。

 あまりにもお人好しすぎると琥太郎に呆れられるが、やめられないのだから仕方がない。


「うふふ。笑ったら、きっとかわいらしいわ」

 針先をこめかみに滑らせて、縫い進めようとした。



 突然。

 馬のいななきが聞こえた。

 数人の足音。

 荒々しい喚き声。


「……もう」

 一穂は手を止め、ため息を付いた。


 どうやら、招からざる客が来たらしい。


「昨日のお狩りはこのためだったのかしら。てっきり、今日の内にお見えになる巡見使(じゅんけんし)の方をおもてなしするためだと思ったのに」

「庄屋さまもよほど物覚えが悪いと見えますな」

 腰をさすりながら、お茂が入ってくる。

「寝てなくていいの?」

「ずいぶんましになりましたでな。しかし、何度一穂さまが同じ事を言ってお聞かせしても、庄屋さまはわからんようでございますね」

「本当にねえ…… 今日だってご接待のご準備がおありでしょうに」

「今日だからとはちげえますか? 都からの役人に美妙なる奥方を見せつけたいと思っておいでになるんでございましょうよ」

「まあ、私は飾りものではなくてよ」

「まだ一穂さまの本性をわかっておいでにならんから……」

「なにか、言った?」

「いいえ。さ、一穂さま。お茂がひとまずいなして参ります。その間に、ご準備なさいまし。適当にあしらってりゃあ、小猿も慎の字も帰ってくるでしょう」

「そうね。じゃあ、お茂さん、お願いするわ」

 一穂は、針仕事の道具をすべて押入に押し込んだ。


 そして、時間をたっぷりとかけて着物を着替え、玄関へ出向いた。

「これはこれは、豪社(ごうしゃ)様。このようなむさ苦しいところへ、よくぞお運びくだされました」

 手指を揃え、前につき、首を傾げ、柔和な微笑みを浮かべる。

「これ、遅いではないか。いつまで、このような場所へ庄屋殿を立たせておるつもりだ! 何はさておき、出迎えに参るのが筋と……」

 側用人の瀬能が叫びだしたが、

「あら。嘗ては巫女でありましても、今はすでに退きただの女でございます。みすぼらしい姿で仮にも庄屋さまをお迎えする事などできましょうか。なべて女の身支度には時間がかかるもの。ご容赦くださいませ」

 一穂がにっこり微笑むと、

「も、問題ないぞ。さもあらんさもあらん。うむ、今日の一穂殿もまた美しい。なによりじゃ!」

 それまで、遅いといらつき瀬能をせっついていた豪社は、瞬く間に鼻の下をのばして瀬能を押しのけた。

 一穂の手を取らんばかりに接近し、

「さて、一穂殿。今度参ったのは他でもない……っ」

「お茶の用意ができております。居間へお通りくださいませ」

 軽く手を退いて身をかわし、一穂は先に立って歩き出した。

「う、うむ」

 空を切った両手を持て余しながらも、豪社は片足を上げた。小者が素早く草履を脱がせる。反対側も脱ぎ捨てると、一穂の後を追うように小走りでその小太りの体を揺らしながら廊下を進んだ。後に残された瀬能は甲高い声を張り上げながら、供の者に指示を出している。

 豪社が居間にたどり着いたとき、一穂は既に茶席に着いていた。

 酌を使うその白い手、謹厳とも言えるその横顔。

 豪社は立ちすくんだままふたたび鼻の下をだらしなくのばした。その頭の中では、事が成った暁の事態が渦巻いている。

「か、一穂殿っ」

 妄想に駆られて飛びつきかけたが、


「どうぞ、お座りくださいませ。まずは一服……」

 きめ細やかに泡だった茶碗が勧められる。


「う、うむ」

 茶などどうでもいいのである。

 目的はいつ来ても何度来てもただ一つなのだ。

 それなのに、その度にはねつけられ煙に巻かれて成就できないでいる。

 今日は大事な日だ。そのためにも、今日こそは目的を果たさずには帰れなかった。

 早く用件を切り出そうと、一息に茶を飲み干した。ところがそれが煮えたぎっており、途端に茶碗を取り落とした。

「み、水っ!」

「あら、『少々』お熱うございましたか? 申し訳ありません。まあ、どういたしましょう。庄屋さま、大丈夫でございますか?」

 見るからに心配そうな憂いに満ちた一穂に見上げられ、豪社は急いで取り繕い、

「い、いや。『少々』じゃ。大事ない」

 本当は少々どころではない。口の皮がめくれ、口中ヒリヒリしている。

「け、結構なお手前であった。さすが一穂殿よ。これなら、巡見使殿の御前でも、はずかしゅうはないの」

 さりげなく、話題を振る。

「巡見使? まあ、都からお役人が参られるのですか」

「うむ。今宵、参られることになっておる。大いにおもてなしをし、この朱嶺郡の良きことを覚えてお帰りになってもらわねばならぬ故、一穂殿にもご助力をお願いしに参ったのだ」

「まあ、私ごときになにができましょう。ご冗談を……」

 ころころと笑う。

「冗談ではないぞ。うむ、冗談ではないのだ。一郡を納める庄屋たるもの、いつまでも独り身ではならぬ。とくに、都からの役人をお出迎えするに、それでは格好が付かぬのだ!」

「あら、ではどなたかお娶りになられては? お屋敷にはそれこそ『星の数ほど』おいでなのでしょう?」

 笑顔のまま、次の一服を点て始める。


「ほ、星の数ほどとは、大げさと言うものぞ」

 豪社は眼を白黒させながら、汗を手ぬぐいで拭いた。


 豪社の悪癖の中に、女好きというものも含まれている。これぞと眼につけた娘は手当たり次第に屋敷に囲い、飽きればどこかへ売り飛ばすという噂だ。狩りはもちろんの事、この事についても一穂や華音がなんど諫言したかしれないが、その度に豪社はシラを切り通していた。


「そ、それに、儂が娶りたいのは他でもないっ」

「もう一服、お口直しにいかがです?」

「茶などいらぬ。一穂殿、何故に我が屋敷へと来てはくれぬ!」

「お忘れでございますか? 私は嘗て巫女を務めし者。この神域より、出ることは許されません」

「そのようなしきたりがなんぞ。儂は庄屋ぞ。この七重村はもとより、朱嶺郡は儂のものぞ。この内のことは儂が決める!」

「無体なことを申されるものではございませんわ。社のしきたりは、創始帝(はじめのみかど)の御代より連綿と続くもの。簡単に変えることなどできぬものです。もし安易に違えてしまえば、それこそ手に負えぬ事態となりましょう。思し召しはうれしゅうございますが、どうぞ、お諦めくださいませ」

 一穂はきっぱりと言い切った。澄んだ眼差しを豪社に向ける。


「な…… な……」


「なんという無礼な!」

 瀬能が叫んだ。


「庄屋殿に向かって、そのような物言い、許されると思うてか。引っ捕らえよ!」


 しかし、庭に控えていた武士たちはすぐには動かなかった。巫女であった者に手をかけるなど、できぬ相談だったのだ。


「何をしておる。さっさとせぬか! この者は庄屋殿を愚弄せし不届き者ぞ!」

 瀬野の声にも武士たちは、互いに視線を交わすばかりで動かない。

 それでも意を決したように一人が足を踏み出した途端、


「控えよ!」

 豪社が叫んだ。


「一穂殿に手出しは成らぬ。一穂殿は丁重に我が屋敷へお迎えせねばならぬのだ。さあ、一穂殿、わがままをおっしゃるものではない。儂と共に参られい。すでに、否やは聞かぬ!」

 強引に、一穂の手首をつかんだ。

「何をするのです。お離しなさい!」

「巫女様!」

 一人の武士が動いた。庄屋の手を押さえる。

「なんのつもりぞ?」

「庄屋様。おやめください。一穂様にお手を出されるなど……!」


「どきな!」

 直後、武士は殴り飛ばされ庭へと転がった。


 庄屋と一穂の前に、やせぎすの男が一人立っている。

 髪は褐色の直毛。腰まであるそれを編んで垂らしている。

 眼は細くても眼光鋭く、その光は冷たさしか発しなかった。口を不気味にゆがめ、笑う。


「しょ、小吾、ようやった。この者、このようなこともあろうかと私が雇いし者でござります。ささ、これで心おきなくその巫女をお引き立てくださいませ!」

 瀬能がへつらうように笑う。

「う、うむ……」

「こんな女一人手に入れるぐらいで、なに手間取ってやがる。かっさらえばいい話だろうが。俺が運んでやらあ」

 豪社を押しのけその男が一穂の肩に手をかけた。



「お止めなさい!」

 豪社同様、一穂はその手も払いのけようとしたが、一瞬早く男の手が一穂の手首を鷲づかみにする。

「……おとなしく、するんだな」

 ぎりっとばかりに握りしめられて、一穂は思わず顔をしかめた。



 その時だ。

 金属的な音が響き、炉の釜が倒れた。

 次の瞬間には、熱湯が灰に降り注ぎ、瞬く間に辺りに灰が舞い上がる。

 灰が充満し、何も見えない。

 居合わせた者が皆咳き込み、眼を瞬かせる。


「ぐっ」


 その中で、一穂の肩をつかんでいた男が呻いて仰向けに倒れた。

 自由になった一穂は身を翻し、隣の部屋へ駆け込む。


「も、者ども、何をしておる。一穂殿を、一穂殿を……っ」


「一穂さまをどうするって?」


 庭先に、息を切らせた琥太郎が立っていた。

 ぎっと深橙の瞳に怒りの炎を煌めかせ、手の上で小石を弄んでいる。


「この、色惚け親父! 性懲りもなく一穂さまに手ぇ出しに来やがって! 今日と言う今日は許さねえ!」

 豪社に殴りかかる。


 が。

 その拳を、別の掌が止めた。


 二人の間に、別の男が立っていた。

 先ほどの男と違うところと言えば、髪に癖があり、色が漆黒であることだろう。


「オレが相手をしよう。雇い主に傷を負われてはかなわん」

 ニッと笑う。


「……っ」

 琥太郎は微かに目を眇めた。

 その笑みを目にした瞬間、背筋に寒気が走った。


 ……できる。

 しかし、このまま引き下がるわけには行かない。


「上等だっ」

 いきなり殴りかかった。

 しかし拳は空を切り、男の身が低く沈んだ。琥太郎がのけぞると、顎先を一撃が掠めていった。そのまま後転で間を取る。

「ほう……」

 男は眼を細めた。

 口端が楽しげに持ち上がる。



「少しは楽しめそうだ……」


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