その四
「どう?」
居間で書をめくる慎之介の側に、湯気を立てた茶が差し出された。顔を上げると、一穂が微笑んでいる。
「いただきます」
書を横に置き、湯飲みを手に取った。
「あの子は、どうしてますか」
「もう、お休みになられたみたい。お疲れになったのでしょうね、今日はいろいろ大変でしたもの」
一穂が晶の様子を見てきたことなどお見通しだ。
「……五社を知らないんですよね」
一口、茶を飲んでから、ゆっくりと切り出した。一穂はその言葉を受けて首を傾げて慎之介を見上げる。
「あなたのことを説明するつもりで、あそこに蓮華社があると言ったら、返ってきた答えが『蓮華を祀っているんですか?』でしたからね」
「異州の方?」
「そう考える方が、妥当でしょうね。あの衣服、持ち物。琥太郎は芸人の子だと思っているみたいですが、異州からの流れの民、かもしれません。ただし、そうではないかもしれない。装う事は簡単です」
「……」
「……得物として、もしくは娘として、どちらにしても庄屋殿の目に留まっては問題だと思い、つれて帰って来たのですが。もしかしたら、早まったことをしたのかもしれませんね、俺は」
ちらりと、一穂を見る。
一穂は考え深げに視線を泳がせていたが、やがて慎之介に戻しにっこりと笑った。
「いいえ。あなたはいいことをしたのよ。あの子、いい子だもの」
「そう、見えますが……」
「本当に、いい子よ。わかるわ。だから、大丈夫。本当はあなたもそう思っているのでしょう?」
「……あなたには、敵いませんね」
苦笑する。
「あなたも、大変ね」
一穂が、新たな茶を湯飲みに注いだ。
「他人事のように言わないでくださいよ? 俺が何のためにここに居ると思ってるんですか」
「……」
問いに答えることなく、彼女はにっこりと笑った。
***
瞼を明かりがくすぐる。
軽やかな鳥の鳴き声がする。
「ん……」
晶はゆっくりと伸びをした。久しぶりによく寝たような気がする。
「…… え? うそ、寝坊っ」
飛び起きた。部屋はすっかり陽光で明るい。
「なんで目覚ましならなかったんだろ。今何時よっ」
枕元にある携帯に手を伸ばし…… しかし、そこには何もなかった。
「どこに……」
辺りを見回す。そして、目にはいるのはまるでなじみのない部屋の風景だ。
「……そう、か」
ゆっくりと、記憶が戻ってきた。
「スマホ、落として来ちゃったっけ」
ため息を付く。
「本当に、どこだろう、ここ」
眉間に皺を寄せて考え込む。すると、考えがもっとあり得ない方向に転がっていく。
「やっぱ、異世界? いくら今流行りだからって、わたしに順番廻ってくる? だいたいさ~、こういうのって、どこかで説明する人出てくるんじゃないの? いきなり矢が降ってくる中ほっぽり出されるってないわっ、出てこい責任者!」
そば殻らしき枕を殴りつける。
もちろん、誰も出てこない。
「は~っ」
軽く頭を振る。勢いをつけて布団の上に立ち上がり、
「よしっ」
気合いを入れる。
起きるに遅いことには変わりはない。さっさとこの部屋から出ていかなければ。
こちらの人たちにすれば、自分は身元不明の不審者である。
特に若干一名には嫌われていると思われる。
昨日から、傷の手当から、食事、着物、寝床と、お世話になりっぱなしだ。
多少なりとも恩返しをせねばなるまい。
枕元に畳んでおいた昨日借りた小袖を手に取った。だがそこで考え込む。昨日半日着ていただけなのだが、前は緩むし、裾は絡むし、袂は濡らす。着慣れないだけに散々だったのだ。
「……着物には違いないし、こっちにしよ」
晶はディパックに手を伸ばした。
「お、おはようございます!」
弓道着を身につけて居間へ入った晶を見て、まず一穂が目を丸くする。
「あら、晶さま、お貸ししたものはお気に召しませんでした?」
「あ、いえ、そういうわけじゃなくて、こっちのほうが動きやすいだけです」
「ああ」
それで合点が行ったらしい。クスリと苦笑する。
昨日の惨状を一穂も見ていたからだ。
「でもそれでは……」
愛想も何もない、白い道着に、紺の袴。
「……わかりましたわ」
一人、頷いた。
「あの?」
「なんでもありませんの。さあ、お食事にしましょうか。お腹がお空きになったでしょう?」
「すいません、寝坊しましたよね? いま、何時ですか?」
「そうね、四つぐらいかしら」
「四つ?」
晶は首を傾げる。それが何時のことをさすのか、もちろんわからないからだ。
「そう遅いわけではありませんわ。ですから、今日は晶さまに行っていただきたい所があるのですけれど、よろしいかしら。もちろん、お食事をお済ませになってからでよろしいのよ」
「もちろん、構いません。どこだって行きます! でも、わたしにわかりますか」
「大丈夫ですわ。裏手の階段を上がれば良いだけですもの」
「裏の、階段……」
「ええ。社の巫女に一応挨拶に行っていただきたいんですの。頭巫女の灯にはもう伝えてありますから」
「わかりました!」
そして、朝食を終えて階段を上り始めたのだが、幾ばくも行かない内に安請け合いを後悔した。
段数が半端ではないのだ。昨日、慎之介が指し示した鳥居の位置を思い出して、一瞬いやな予感はしていた。だが、実際上るとなるとそれどころではない。振り返ればまだ庵の庭が見えているのに、見上げればただ延々と石段だけが続いている。
「くそ、こんなに体力不足だったのか、わたしって」
夏休みを受験勉強優先で過ごしてきたツケが来ているらしい。手にしたものを杖代わりに、一段ずつ上っていく。
「ここでできる事って、少ないなあ、わたし」
昨夜、腰を痛めた料理番を務めるお茂という老婆を手伝って、瓜の塩揉みをしようとしたのだが、いつの間にか指を切ってしまっていたらしい。
急に琥太郎に手首を掴まれて驚いた。
大体、晶は痛みの閾値が高いらしく、怪我をしても気づかないことがよくあった。だから、その時も笑ってごまかしたのだが、
「だからってそのまま塩もみするか? 鈍いにも程があるぞ……。これ以上飯を台無しにされてたまるか!」
そう呆れながら琥太郎に台所を追い出された。
その上、琥太郎がつってきた魚を捌くどころか怖くて触ることもできず、七輪で魚を焼くにしても、七輪自体見たのは初めてだし、ついでに言うと、マッチもライターもないのでは火をつけることさえできなかった。
どっぷりと自己嫌悪に沈み込んだので、今朝、心機一転張り切ったところなのに、このありさまである。
「ああ、もう! へこむなあ。 できることなさすぎでしょ! わかんないことばっかりだし! 祇園って言ったら京都でしょ~ なんで違うの~」
ため息とともに、石段に腰を下ろし膝に顔を埋める。
そして昨夜のことを思い返した。
「ここは祇州。……祇園だよ」
夕食の後、慎之介が半紙に大きな丸を書いてそう言ったのだ。
「ぎ、おん……?」
「そう。その祇園の南西にこの天宝藩は位置している。天宝の朱嶺郡にある七重村。これが今きみが居るところだ」
丸の左下に丸を、その丸の中の左側に丸を。最後に一番下に筆先をつけて、慎之介が晶を見た。
晶は半紙を睨みながら、慎之介の言葉を反芻する。
「祇園…… 天宝…… 朱嶺郡…… 七重村……」
「てんぽうって、天保年間のあれじゃないし。少なくとも祇州なんて州、日本にゃなかったし」
勉強するつもりで鞄に放り込んでいた日本史の参考書を、夕べ念のためめくって確かめてみたのだが、もちろん、そんな州も、国も、藩も、載ってはいなかった。
「……となると、やっぱ異世界確定なのか~。何かできることあるかな~」
なかなかに、難しそうだ。
特大のため息が漏れる。
「いかがなさいました?」
ふと、辺りがかげった。
見上げれば、自分より上の段に人影があって、自分を見下ろしている。
目を細め、それがやっと緋袴をはいた巫女だとわかった。
「おいでになられないのでお迎えに上がりました。私、七重の蓮華社にて頭巫女を務める灯と申します。晶さまですね?」
「え? あ、はいっ。すいませんっ。すぐに……っ わっ」
慌てて立ち上がり、一歩踏み出した途端に袴の裾を踏んでずっこけた。
***
ぜいぜいと息を切らしながら、どうにかこうにか階段を上りきった。
目の前に、あの山の中腹に見えた丹の鳥居が堂々と立っている。笠木に掲げられた額には『蓮華社』とくっきりと金泥で彫り込まれていた。
「あれ、これ、どこかで……」
つい最近、見た映像が脳裏によぎったが、
「うそつきぃっ」
金切り声に、思考が遮られた。
「な、なに……」
視線を落とせば、鳥居の下に緋袴の少女が五人、一列に並び口を尖らせて灯を睨み付けていた。
「お客様、連れてきてくださるっていうからお留守番していたのに、灯様のうそつきっ」
中でも一番年長らしい少女が口火を切る。
「女の子だって言うから、一緒に遊ぼうと楽しみにしてたのにっ」
「だから、お掃除だってちゃんと早く済ませたのにっ」
「何を言っているの、あなた達は。ちゃんとお連れしたでしょう?」
「でも男の子じゃないっ」
「男の子なんか、猿と一緒で、乱暴で口が悪くて態度が大きくてっ」
「わたしたちの方が偉いのに、ちっとも言うこときかないくせに、一穂さまにかわいがられるしっ」
「そんな男の子なんていらないっ、こっから先になんて絶対行かせないんだからっ」
灯の言葉にも聞く耳持たず、口々に叫びつづける。
「……」
晶はあっけにとられて、その様をただ見ていた。
どうやら男と思われているらしい。
なぜだ。
「い…… いい加減になさいっ。こちらの方は…… 晶さまはれっきとした女性ですっ」
「え~~~~?」
灯の雷と共に一斉に視線がこちらに向いて、それぞれが疑わしそうに近づいてくる。
晶をぐるりと取り囲み、疑わし気に凝視する。
「あ、あの?」
やがて、手が伸びてきた。手に、肩に、腰に、遠慮なく触れてくる。
ペタペタペタペタペタペタペタペタ……
「ほんとだ、女の子だあ!」
最後に胸に触った一番幼い少女が無邪気に叫んだ。
「な……」
あまりのことに、声も出ない。
「あなたたちっ、なんて失礼なことをっ」
灯が慌ててその少女を引き剥がした。
「晶さま、申し訳ありませんっ。その…… おそらく、そのお召し物のせいだと思うんですけれど……」
「あ。いえいえいえ。気にしないでください。よくあることなので!」
言ってて悲しくなるが、寸足らずで真っ平なのは自覚しているので、むしろ、道着のせいにしてくれた優しさに感謝したい。
「あの、猿って?」
「琥太郎のことですわ。身軽さと髪が赤いせいでしょうね。何度注意しても治らなくて…… 恥ずかしいことですわ」
「いえいえ、そんな…… わっ?」
彼もそれなりに苦労しているのだと、同情していると、手を引っ張られた。
今度は打って変わって、巫女たちがわれ先にと晶の手を取り鳥居の奥へと引きずっていこうとする。
「晶さま、遊びましょう。宝物見せて上げる」
「綺麗な絵巻物があるんですよ」
「鬼ごっこしましょ。それとか、かくれんぼとか」
「ね、晶さまっ」
「お八つもしましょ」
「あっちにきれいなお花が咲いてるの」
「ね、晶さま!」
「ちょ、ちょっと……」
「お待ちなさいっ。華音さまへのお目通りが先ですっ」
灯の雷が落ちた。