その三
障子に襖、行灯に衝立。
「うわ……」
惚けている晶の前に、どんと音を立てて行李が置かれた。
「さあ、どれがお似合いかしら」
一穂が嬉しそうに行李の蓋を開ける。
中には色とりどりの着物がぎっしりと詰め込まれていて。
「これかしら。いえ、でもこちらの方が……」
一穂は一つ手にとっては次を手に取り、首をかしげながら選び始めた。
だが、やがてその場に立っている晶に気づき、
「あら、晶さま。早くそのお召し物をお脱ぎになってくださいな。こちらのものを着ていただいている間にお洗濯して差し上げますから」
「え? いえ…… わたし、そんな悪いですっ。いいです、このままで……っ」
「まあ、いけませんわ。そのように汚れたままでは。さあ、ご遠慮なさらずに」
一穂の手が伸びて、ブラウスのボタンを外そうとする。
「あら? 変わった形をしていますこと、この留め金は。ええと……」
「あ、あのっ。本当に、大丈夫で……っ」
「外れましたわ!」
嬉しそうに叫び、一穂は次々とボタンを外し、あっという間にブラウスもスカートも取り去ってしまった。
晶は下着姿で立ち尽くすしかない。
「あら。まあ! 怪我をなさっておいででしたのね? どうして、先におっしゃってくださらなかったのです。先にお手当をして差し上げましたのに」
「へ? 怪我?」
両手を前に回し、縮こまることに必死だった晶が一穂の視線を追うと、確かに膝を擦りむいていた。
「ああ、こんなの放っておいても……」
「だめですわよ。きちんと治療をしなければ。お着替えをすまされたら薬箱をお持ちしますわね。さあ、どの小袖を着ていただこうかしら」
晶の前に、どんどんと小袖が積みあがっていく。
「あのお……っ?」
「待てっ、琥太郎っ」
声がして。
途端に、部屋がさあっと明るくなった。
背後から日が差し、晶の影が正面へと伸びる。
小袖を手にしたまま、一穂の視線が晶を通り越し、その先へと注がれ、目が丸くなる。
つられて晶も肩越しに振り返った。
背後の障子が全開になっていた。庭に張り出す縁側があり、そこに釣り竿が放り出されている。
そして、琥太郎が片膝を縁に乗せ、今まさに部屋に上がり込もうとした姿のままで、固まっていた。
その横で、慎之介が琥太郎の着物を引っ張って頭を抱えている。
「あ、お、お邪魔してま……」
言いかけて、気がついた。
今の自分の姿。
制服は一穂の隣にある。そして、着物は一穂の手にある。
と、いうことは……
「……っ。わ……っ」
「出てお行きなさい~っ」
晶が叫び、しゃがみ込む前に、一穂の手が行李の蓋を縁側に向かって投げつけた。
琥太郎が蓋を抱いて縁を転がり落ち、直後に障子が音を立てて閉まる。
「も、申し訳ありません、晶さまっ。あの子、お客様がおいでになられた時はこの部屋を客間として使うと存じているはずなのですが……」
真っ青になりながら、一穂が何度も頭を下げる。
「い、いえ……」
あまりにも必死なその様子に、蹲ったままの晶はなにも言えなくなった。
「こっちがお邪魔してる立場なんで…… それに、幸い後ろだけですし。いや、別に前でも大差ないんですけど。だから、気にしないでください」
あはは……と、とりあえず笑ってみる。
「まあ、晶さま……」
一穂は潤んだ瞳で晶を見上げ、そして、その手をがっしりと握りしめた。
「一穂さん?」
「晶さま。なんて、お優しい……」
そのまま、きらきら見上げてくる。
「私…… 私、決めましたわ!」
「なにを、ですか?」
「こうなれば、誠心誠意お世話させていただきます。ええ、させていただきますとも」
「だ、だから、気にしないでくださいって……」
「いいえ。もう決めましたの。さ。まずはお着物ですわ。さあ、どれが良いかしら!」
そして、次の小袖を手に取ったのだった。
***
「だから、待てと言ったんだ……」
行李の蓋を抱きかかえたまま、縁から転がり落ちた琥太郎に向かって、慎之介がつぶやいた。
「つうっ…… だ、誰だ、あれっ」
「誰って、晶ちゃんじゃないか」
「晶ぁ?」
だれだそれは。
「お前が今日、拾っただろ」
「拾ったって…… あのガキ、女だったのかっ?」
「……知らなかったのか?」
「知るか、んなもん。知ってりゃ誰がっ…… 大体、なんであいつがオレの部屋に居るんだよ」
「客が来たらここは客間になると、お前も知っているだろうが」
「あいつが客かっ」
その時だ。
「私、決めましたわ。こうなれば、誠心誠意お世話させていただきます。ええ、させていただきますとも!」
一穂の断固たる言葉が障子の向こうから聞こえてきた。
「……今、なったみたいだな」
気の毒そうに慎之介が笑った。
「藪をつついて蛇を出したか。自業自得だ、諦めろ」
「オレは悪くねえっ」
「しかし『見た』事は事実だろう?」
「『見た』? なにを」
「この部屋の中」
「中がどうしたって……」
障子を開けたがために、差し込んだ陽の光に浮かび上がった光景が、ふっと蘇る。
「~~~~~~~~っ!」
思い出して、絶句した。ぼっと瞬時にして顔が熱くなった。
「ほら、それがその証拠だ。言い逃れのしようもないな」
「しょ…… くそっ」
身を翻す。
「琥太郎?」
「うるさいっ」
庭を駆け抜け、階段を駆け上る。社の境内を抜け最奥にそびえる椎の木に飛びついた。枝を伝い、反動を利用し、身軽にたちまちてっぺん近くまで登りつめる。
枝に躰を投げ上げ、腰掛ける。
「くっそおっ」
頭を包んでいた手ぬぐいを取り去った。
陽が傾き、染まりだした空と同じ。いや、それ以上に鮮やかな紅の髪がふわりと風にそよぐ。その髪を荒々しく掻き上げ、組んだ足に肘をつき、手に顎を乗せて見下ろした。
「……」
ここに来ると、七重村の全貌が見渡せる。
疲れ切った様子の男たちが、一人、また一人と、それでも明るい顔つきで家の中へ消えていく。どうやら、一応はつつがなく狩りは済んだらしい。
母親の呼び声に答え、子供たちも家に駆け込んでいく。
そして、人影が視界から消え、動くものがなくなった村。
その村の中心に、村の水源となる井戸がある。
村ができた時からあり、枯れたことはないという。
女房たちはこの周りで野菜を洗い、洗濯をする。
男たちは水を浴び、水を汲む。
誰もが集い、なにもかも、ここから一日が始まる……
「燦、ちょっと待ちなさいよっ。お庭のお掃除、あなたの番でしょう!」
琥太郎の意識を強引に引き戻す甲高い声が鼓膜を打った。
あっという間に渋面になり、琥太郎は下を見下ろした。
「代わりにやってよ、いま忙しいんだもん」
「何よ、髪を編んでいるだけじゃない。そんなこと、後でも出来るでしょ」
「あ、何するのよ。せっかく編んだのに…… 灯様~ 秋がひどいことする~っ」
「どっちがよ…… 灯様っ、わたしが悪いんじゃないんですよっ。燦がお掃除さぼろうとするから……っ」
白い着物に緋の袴をはいた娘が二人、叫びながら庭から本社へと走っていく。
「……成長しねえな、あいつら」
吐き捨てるようにつぶやいた。
譲りの庵は巫女となるべき子供を育てる庵だ。男でも女でも関係ないのだが、この蓮華社は代々姫巫女がたってきたために、おおかた少女を引き取ることになっていた。
琥太郎が来たばかりの頃は、いてせいぜい二人か三人。しかも、村で選ばれた優秀な子供ばかりであったし、琥太郎も幼かったために逆に彼女たちにかわいがられていた。
その生活が変わったのは、ほぼ一〇年前の事になる。
前の庄屋に代わり豪社が任に就いた。
就いた当初は精力的に働く良い庄屋だと、郡に暮らす人々は安堵した。支配者が変われば生活も変わる。庄屋の交代は彼らにとっては死活問題なのだ。
しかし、その安堵は長くは続かなかった。豪社が監視のためにいた中央の役人が去ると同時に本性を現したからだ。
まずは狩りだった。
月に二度ないし三度の勢子を村人に強いた。
そしてもう一つ。
豪社は女に目がなかったのだ。
己の領地でこれと目に留めた女は、若かろうと嫁した者であろうと許婚がいようとお構いなしに、屋敷へと連れ込んだ。その後、彼女たちは二度と家に戻ることはなかった。
領民たちは何とか妻を娘を姉を妹を守ろうと必死になった。ある者は家から一歩も出さず、ある者は男装をさせた。しかし、豪社の獲物を追う目から逃れることは出来なかった。次に奉公に出そうとしたが、それにも限度がある。交流のある商家などたかがしれているのだ。
朱嶺郡の人々が暗澹に沈む最中、七重村にはもう一つの逃げ道があった。
蓮華社だ。
社は神域。たとえ豪社であろうとその魔手を伸ばすことは出来ない。
生娘たちだけに限られたが、誰もがこぞって娘を庵へ連れてきた。たとえ嫁することが出来なくても無事であればいい。それこそ最後の頼みの綱とすがるような気持ちだっただろう。
しかし。
そのすべてを引き受けることなど、とうてい無理な話だった。
ちょうど前の姫巫女が死去し、頭巫女であった華音が姫巫女となり、灯が頭巫女にあがり、社自体もあわただしい時だった。
すべてを差配したのは一穂だ。
つてを伝い、奉公先を探し、近隣の他社にも問い合わせ、最終的に五人の娘を手元に残し、すべての女たちを無事に領外へと出すことに成功したのである。
そして、その日を境に琥太郎の平和な生活は消え失せた。
残った娘たちが、揃って琥太郎に敵対したのだ。一穂の庇護を受けていることが気に入らなかったのか、多勢を頼んだのか、ことある毎に琥太郎を標的にした。
たまったものではない。
結果、琥太郎を完璧な女嫌いに仕立て上げた。一穂はもちろんのこと、華音とかろうじて灯は別格に属するが、他のすべての女は「すぐわめいてすぐ泣いて何でもかんでも他人に責任をなすりつけて厄介な仕事は他人に押しつける」嫌悪すべき存在となったわけだ。
烏が鳴いた。
気がつけば、かなり陽が傾いて、空は薄墨のような色に沈み始めている。
「やべ。戻らねえと一穂様、心配するな」
上体を起こした時、足から下駄が脱げ落ちた。
「げ」
いやな予感がした。そしてそれは見事的中する。
「いったああああいっ!」
下で悲鳴が上がった。
「ちょっと、猿でしょ!こんなことするのっ」
「誰が猿だ、誰が!」
螢の金切り声に怒鳴り返す。つい一月前に社に上がったばかりの娘だ。まだ一二にしかならないと言うのに、琥太郎のことを猿呼ばわりしてはばからない。
「燐姉様、秋~ 琥太郎がわたしに下駄ぶつけた~」
既に泣き声でわめき散らす。それに呼応して白と赤の人影が木の下へと集まってくる。
「ちょっと、何してるのよ、あんた。ご神木に登っちゃいけないって、言われてるでしょ!」
「人がどこに居ようが勝手だろうが!」
「なによ。ただの居候のくせに。わたしたち巫女にそんな偉そうに言っていいと思ってるの!」
「そうよそうよ。わたしたちの方が偉いんだから!」
「下りてきて謝りなさいよ! でないと一穂様に言いつけるから!」
「お仕置きしてもらうんだから!」
「ご飯抜きなんだから!」
「お社の修理、全部させるからね!」
「あ、それいいね」
「そうでしょ。縁側の板、一枚抜けてたじゃない? あれ、直させよ?」
「いい、いい、それ~。やらしちゃおう!」
下で勝手に盛り上がっている。
「こら。あなた達、何をしているの、こんなところで固まって」
大人の声が加わった。
「あ、灯様」
「琥太郎、いけないんですよ。ご神木に登ってるの!」
「わたしに下駄ぶつけたの!」
「謝らないの!」
「だから、お仕置きしてください。ほら、縁側の……」
「それはあなた方のお仕事でしょう?」
「ええ~。やらせちゃいましょうよ~。ちょうどいいのにぃ」
「社の世話は巫女がするものと決まっています。明日にでも皆でしましょう。さあ、もう夕食の時間ですよ。早く添え社に戻りなさい」
パンパンと手を打ち鳴らす音がする。
「つまんない~。せっかくいい考えだと思ったのに~」
「わたしたちで直すのお? やだなあ」
巫女たちが口々にぼやきながら、添え社へとぞろぞろと引き上げていった。
「ざまあみやがれ。はっ」
「琥太郎。あなたもよ。早く庵へ戻りなさい」
まだ残っていたらしい。灯が叫んだ。
琥太郎は答えずに枝からも動かない。
「一穂様が夕食をお待ちになるでしょう? それともそれであなたは平気なの?」
「……わかった」
琥太郎は無造作に枝から身を躍らせた。途中、枝に何度か手をかけ、足をかけ、速度を殺しながら下へと落ち、中程の枝で体をくるりと回転させて、灯の頭上を飛び越えて石段の最上段へ飛び降りた。
「……たく、あなたって。見ていたらいつか心臓が止まるわ」
灯が大きく息を吐きながら額を抑えた。灯は琥太郎が幼い時を知っている。
「昔はあんなに可愛かったのに……」
「んだよ、それ。大丈夫、そんなへましねえから」
「わかってはいるのだけれどもね。とにかく、早く庵へ帰りなさい。それと、明日にでもお客様にご挨拶に上がっていただけるように申し上げておいてくれるかしら」
まだ三〇にもならないと言うのに、貫禄のある微笑みを顔に浮かべる。
「客って……なんで……」
「あなたが、ここに登りに来る時は、一穂様に構ってもらえない時でしょう? ご機嫌を損ねたか、それともお客様がいらっしゃったか。それぐらいお見通しよ。じゃあ、頼んだわよ」
片目を瞑って、そして添え社へと歩き去る。
「……ちぇ。敵わねえな」
口をとがらせて、そのまま階段を駆け下りた。