その二
「着物着ねえでなに着るってんだ。素っ裸で歩けってのか!」
琥太郎は目の前の子供を怒鳴りつけた。
「あ、いえ…… そんなつもりじゃ……なくて……」
「じゃあどういうつもりなんだよっ」
びくつく様が余計かんに障り、なおさら突っかかる。
こういうはっきりしない手合いが、一番気にくわないのだ。
「いえ…… あの……っ」
「言いたいことあるならとっとと言え!」
「こら、なにを騒いでいるんだ。また見つかるぞ」
後から声がして、慎之介が茂みを掻き分けて姿を現した。そして、足元になにやら重そうな物をどさりと置く。
「けどな……っ ……なんだ? それ」
さっきまでは、そんなものなど持っていなかったはずだ。
「その子の荷物だ。なくなると困るだろうと思って拾ってきた。それよりなに怒鳴ってた。そんな小さな子に」
「だってよ、妙なこと聞くんだぞ。なんで着物着てるのだとかなんとか。着物着てんのなんか当たり前じゃねえか。なのにこいつふざけたこと言いやがるから……っ」
「……ふうん?」
慎之介は顎に手を添え子供へと視線を移した。
その目は線のごとく細く、本当に見えているのかどうかいつも不思議に思う程だ。
試しに同じくらいの目の細さで外を歩いてみたことがあるが、ほとんど何も見えなくて、危なっかしいことこの上なかった。
(……わかんのかね?)
あの目で、何を観察しようと言うのだろうか。
琥太郎は慎之介から、慎之介が見ているものへと目を転じた。
年の頃は十を少し出たぐらいか。
色も妙に生白く、手も足も細い。
見たこともない風変わりな着物、そして、いま慎之介が置いたばかりの荷物も妙な形をしていて……
「……芸人か? おまえ」
そう訊きながらも、内心そうじゃないだろうという思いが勝っていた。
たまに流しの大道芸人が回ってきたりするけれど、それでもたいていが一座を率いてくるからだ。
しかし、琥太郎の問いに対する答えは返ってこなかった。
子供はひたすらただぽかんとこちらを凝視している。
「……あのな、人が訊いてんだ。ちゃんと答えろ!」
すこしいらつき気味に詰め寄る。
「あ、す、すみません……っ」
「だ~から。怯えさせてどうする。よけい答えられなくなる……」
その琥太郎の襟首をつかんで引き戻した慎之介が、不意に言葉を切った。
人の声とざわめきが近づいてくる。
「ち…… なんで今日はあいつら鼻が利くんだ?」
琥太郎も顔をしかめ、二人同時に下生えに身を伏せた。当然、目の前の子供の頭もさっきと同じように草むらに押さえつける。
直後、随分間近で治助と六郎の声がはっきりと聞こえた。
「ちくしょう、絶対こっちの方に逃げたと思ったんだがな。あれは大きかったぞ。絶対、鹿か猪だった」
「おめえ、もしかして射殺しちまったんじゃねえだろうな」
「いいや、ちゃんとねらいは外したぞ。西へ追い込んだはずなんだ。だからこの辺に……」
「けど、いねえべ」
「う…… お前らの鳴らす鉦がでかすぎたんだ。だから、逃げちまったんだ。せっかくおれが……」
「おめ、人のせいにすんのか?」
「なんだと?」
「なんか、文句あんのか」
「なにぃ?」
険悪な雰囲気になりかけた時、馬蹄の響きが近づいてきて。
「おぬしら、追いもせずになにをしておる!」
馬上から、顎のしゃくれた武士が二人を睥睨する。
「すでに中天も過ぎておるというのに、このようなところで無駄口を叩くなど、余裕のあることだな」
「せ、瀬能様……」
「いや、わしらはちゃんと…… ここまで鹿を追ってきたところですだ。ただ、見失っちまって……」
「口ではどうとでも言えるわ!」
ぴしりと鋭い音が響いた。
瀬能が手にした鞭で六郎を打ったのだ。
「うっ…… け、けんど……っ」
「お前たちがそのつもりならばそれでもよい。ただ、弓引く庄屋様の腕の力がいつまで保つか…… 何かの拍子に、傍に控えしおぬしたちの女房に向かわんとも限らぬぞ」
「そんなっ」
「それが嫌ならば、早々に獲物をこの山から追い出して参れ。あと一刻をして果たせぬ場合は、いつもの通り家畜を引き出して参るのだぞ。わかったな!」
瀬能は二人に否やを言う暇を与えずに、今度は馬に鞭あて走り去った。
「……大丈夫か?」
「ああ、まあ、これくれえなら……」
「……どうする」
「これ以上、馬や牛をおもしろ半分に射殺されちゃあたまんねえ。仕方がねえ、今度は南の沢に回ろう。こないだ太一が狸を見たっちゅうてた」
「狸で勘弁してくださればええがのう」
「そうじゃな」
がっくりと肩を落とし、それでも小走りで二人が駆けていき、やがてその後ろ姿は木の間に消えた。
「……」
琥太郎は枝の間に潜んだまま、手を握りしめ、唇を噛みしめる。
「……あんの、色惚け親父っ」
思わず、声が漏れた。
「俺たちが免れているのは、ほんの少し、恵まれてるからだからな……」
慎之介も嘆息する。
「……とにかく、帰るか。一穂様も心配なさっているだろう。予定よりも随分遅い」
「あ、そ、そうだな。急ごうぜ!」
琥太郎は慌てて草むらを飛び出した。
瀬能の横暴も許せないし、六郎達にも悪いとは思うけれど、何より、一穂に心配をかけるようなことだけはしたくない。
続いて慎之介が藪から出てきて、そして振り返る。
「さあ、出ておいで」
藪に向かって手を伸ばした。
「慎之介、なにやって…… あ」
すっかり忘れていた。
そういえば、もう一人いたんだった。
「……どうすんだよ、そいつ」
思わず眉間に皺が寄る。
「こんなところに放り出していくわけにもいかんだろう。ひとまずつれていこう」
「げ…… な、なんでだよっ、冗談じゃねえ!」
「ったく…… そう毛嫌いするな。言っておくが、最初に関わったのはお前だぞ」
「そ…… そいつは、そうだけど……」
「ま、お前の気持ちもわからんでもないさ。なにせ一穂様の世話好きは普通じゃないからな~ それはもう夢中になって構い倒されるだろうな~」
にやにやしながらからかってくる。
「や、やっぱり、放って……!」
「無理だな。あきらめろ。 ほら、出ておいで。もう追われる心配はない。俺たちの家に来てお茶の一杯でも飲めば、落ち着くだろう」
慎之介が苦笑しつつも手招きをすると、やっとの事で子供が恐る恐る辺りを見回しながら道へと出てきた。
「で、でも……」
遠慮がちにこちらを見る。
「……いいんですか?」
……どうやら、歓迎していないことを感づいているようだ。
「構わないよ。あれのことは気にしなくていい」
「誰があれだ!」
「うるさい。ちょっと黙ってろ。……まあ、日頃客が多いところでね、なにも気を使う必要もない。ここから少し歩くことになるが、大丈夫かな」
「慎之介!」
「ごてるとそれだけ帰るのが遅くなるぞ」
「……っ」
……それだけは、いやだ。
だから。
仕方なく口を噤んで、きっと子供を睨みつけるだけに留めた。
なのに。
また子供がびくりとびくつくから、とうとう拳骨が頭に降ってくる。
「~~~~っ……!!」
「あ、あの……っ?」
「ああ。いいよ、ほっといて。さあおいで」
「は…… はい……」
笑顔で再度手招きされた子供が、おずおずと外へとやっと藪からこちらへと出てきながら、頭を抱えて蹲るこちらをチラチラと気遣わしげに見たりするから余計に気に入らないけれど、これ以上何か言うと、何をされるかわからないから、余所を向いて眉を釣り上げ舌打ちするだけで我慢した。
「じゃあ、いこうか」
慎之介が地面に置いた荷物を担いで歩きだす。
仕方なく琥太郎も後に続いた。こうなってしまえば、琥太郎に覆すことなどできはしないからだ。
後から、パタパタと必死な足音がついてくる。
……まるで、置いていかれることを怖れるかのように。
こういう足音を知らないわけじゃない。
それを思い出せば、連れていくこともまあ仕方がないかとは思う。
だが、連れて帰った後の出来事が簡単に想像できるだけに、素直に納得できない、というのが本当のところなのだ。
「あ、あのっ。あの人、大丈夫なんですか?」
「あ? 誰がだよ?」
だから、振り返らないままに返した返事が多少つっけんどんであったとしても、それくらいは大目に見て欲しい。
「あの、なんか、叩かれて…… 怪我、してたでしょ。真っ赤になって…… なんで、あんなこと……」
「ああ…… 瀬野のおっさん、短気だからな。鞭ぐらいで済んで、まだいい方だぜ? 六郎も頑丈な方だから、大丈夫だろ」
「鞭……? あれが…… で、でもっ。頑丈でも、痛いでしょ? 大丈夫ってこと、ないじゃないですかっ」
「……?」
子供の口調に、思わず振り返った。
「君の方が、痛そうだな」
琥太郎の後ろで、同じように立ち止まっていた慎之介が苦笑する。
その言葉通り、子供の顔は泣きそうに歪んでいた。
「……あれっくらいのことで、なにびびってんだよ。情けねえやつだな!」
こんなこと、日常茶飯事だ。いちいち気にしていたらやっていられないのだ。
カチンときて反射的に睨みつける。
「あ、ごめ……」
「こら」
慎之介にまた後頭部を小突かれた。
「痛ぇな、なにすんだよ!」
「だから、怯えさせるなと言ってるだろうが。……あとで、湿布でも届けておくよ。そんなに心配しなくてもいい」
ほら、おいで。
もう一度、慎之介が声をかけると、不安そうな陰は消えないものの、ほんの少し、子供の顔に初めての笑みが浮かんだ。
(……)
琥太郎はそれを見てふんと鼻を鳴らし、わざと足音荒く二人を引き離していく。
……とにかく。
気に入らなかった。
***
森を抜け、道は穏やかな農村風景の中に伸びていく。
晶は慎之介と呼ばれていた男の後を必死になってついて行っていた。
おそらく二〇を少し超えたくらいだろう。慎之介は晶の荷物を全て担いでいるにもかかわらず、さっさと歩いていく。
知らず小走りになりながらも、きょろきょろと辺りを見回した。
不揃いの水田、草をはむ牛、庭で遊ぶ鶏。
電線も電柱もなく、小川沿いに水車が回り、中心部あたりに大きな井戸がある。
その周りで、膝丈の着物や腹掛けだけの子供が風車を手に走り回り、赤ん坊を背負った少女が遠くに行くなと叫んでいる。
前をいく男も着物に袴、素足に草履履きといういでたちだ。おまけに、腰には刀。
先ほど、夕食を調達してくると言って別れた少年も、腰丈ほどの着物に半パンのようなズボンをはいて、下駄履きだった。
先ほどの森の中での男たちと侍のやりとりを思い出してみても、全ての記憶がつながるのは……
「……時代劇みたい」
父親が好きなので、一週間に放映されている時代劇は全て観る羽目になる。おかげで、同級生の中では晶が一番その手のことに詳しくなってしまった。
その中で、俳優が演じている日常風景。それが今まさに目の前にある。
だが、もちろん撮影現場などではないことは、十も承知だ。
ということは。
(まさか、わたし…… いや、そんな莫迦な……)
思い浮かんだ考えを、即座に首を振って追い払った。
そんなことが起こっていいはずがない。
脳裏に浮かんだ、最近の流行の可能性を、首をぶんぶん振って追い払う。
「ああ、出迎えてくださっている」
さすがに息が切れだした頃、慎之介が立ち止まった。
「あそこが、今からいくところ。蓮華社の譲りの庵だよ」
手を伸ばし、ずっと先を指し示した。
正面に山が広がる。
中腹あたりに、丹色の鳥居が見え、そこから木陰に見え隠れして階段が下へと伸びていた。その麓に、今まで見てきたよりも一回りは大きな家屋があり、木戸が開き、小さな人影が手を振っている。
「前の頭巫女、一穂様だ」
「……そう、なんですね?」
そう言われても、晶には何のことだかさっぱりだ。
首をかしげ、慎之介と人影を見比べた。
すると、慎之介の眉が少し寄る。
これは、なにか答えないといけなかったところなのかもしれない。
「蓮華を祀ってるんですか? あの神社」
「……」
慎之介は、無言のまま晶をじっと眺めている。
ハズレ、だったらしい。
沈黙と視線が、非情に気まずい。
「あ、あの……」
ふう。
大きく息を吐き、
「そうじゃないよ。蓮華社は炎を祀る神社のことだ」
慎之介がやっと言葉を口にした。
「炎?」
「そう。他に風を祀る楊柳社、水を祀る石菖社、大地を祀る蘚苔社、天雷を祀る天道社がある。これに蓮華社をくわえて、総じて五社と言うんだ」
「神社、五つしかないんですか」
「……いや。蓮華社も、他の社も、他の村にも、国にもいくつもある。ただ、どこにでも好き勝手に社を建立する事はできない。選ばれた地でなければね。だから、この七重も選ばれた地と言うことになる」
「じゃあ、凄い……んです?」
「凄いことだろうね。そこで姫巫女になることはこの上なく難しい。姫巫女を補佐する頭巫女にのぼることも。一穂様はその頭巫女を務められた方だ」
ということは。
とても偉い巫女だと言うことだ。
少し、緊張してきた。
木戸の向こう、待ち構えていたその人は、小走りに駆け寄ってくる。
「ああ、やっと帰ってきたのね、慎之介。順庵様のところへ行ったとわかっていても、帰ってくるのが遅くなれば心配するものよ。おまけに、庄屋様のお狩りどころか日隠れまであったのですもの」
「どうも申し訳ありませんね。途中、治助たちに行き会いましたよ」
「まあ、それで?」
「いえ、それが理由だというわけではありませんが」
「そうでしょうね。あなた達が追いつかれるはずがありませんものね。あら、そう言えばあの子は?」
「手ぶらでは格好が付かないと、魚を釣りに行きましたよ」
「まあ。じゃあ、がんばって捌かなければいけないわね、久しぶりに」
「お茂さんは?」
「今朝、おみそをかき混ぜている最中に腰を痛めてしまったらしいんですの。だから…… あら、この方は?」
その三〇をいくつも出ないだろう、色白でふっくらとにこやかな、のべつ真無しにしゃべり続けていた女性が、やっと晶に気がついた。
その無邪気とも言える視線を真っ直ぐに向けられて、偉い巫女だというからてっきり五〇、六〇だと思いこんでいた晶は、とっさに頭を下げた。
「あ、あの……っ は、はじめまして! 急にお邪魔してすみません!」
「湯沢の森で人にはぐれた様子でしてね。疲れていたようなのでお茶でもどうかとつれてきたんですよ」
慎之介が横から助け船を出してくれて、ほっとする。
あの状況を簡潔に説明することなんて、とてもじゃないが無理だ。
「まあ。それは大変でしたわね。どうぞ、頭をお上げになってくださいな。あなた…… いいえ、お名前を教えてくださらないかしら。その方が仲良くなれそうですもの」
「な、仲良く、ですか?」
……びっくりした。
初対面の相手から、そんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「そうですわ。せっかくおいでいただいたお客さまと、仲良くなりたいんですの。私、一穂と申します。あなたは?」
だが、一穂は満面の笑顔で、キラキラと輝く瞳を興味深そうに晶に注いでくる。
「た、高梨、晶です」
「晶さま? まあ、なんてお可愛らしいお名前かしら! 良いお名前だわ!」
「かわいい、ですか?」
意外、だった。
生まれてからこの方、少なくともこの名前を「かわいい」と言った人がいた記憶はない。
十人いれば十人とも「変わってる」と言うのが当たり前だった。
普通女に「あきら」とはつけないだろう。
どう考えても男の名前だ。
おまけに兄が「雪」というのだから、親のネーミングセンスは一体どうなっているのか、子供ながら不思議でしょうがない。
「あら、可愛らしいではありませんか。さあ、晶さま。お上がりくださいな。お茶をお淹れいたしますわ。昨日、ちょうどおいしいお団子をいただいておりますの。一緒にどうぞ」
だが、一穂は晶のそんな疑問をすっぱりと片づけて、手を取り、ぐいぐいと庵へと誘おうとする。
「あ、あの、ちょっと…… 待って下さい!」
慌てて足を踏ん張る。
見事に転び、逃げまどい、藪に投げ込まれて伏せ続けていたおかげで、制服には泥や木の葉があちこちにこびりついているのである。
とてもではないが、こんな格好で人様の家に上がることなんてできるわけない。
「あら、なにか?」
「あの、汚れてるから……っ」
「あら」
一穂の目が丸くなる。
そして、晶の頭のてっぺんから足の先までをゆっくりと眺め、
「まあ、気づきも致しませんで、申し訳ありません。さあ、こちらへどうぞ」
手を一つ、軽く打ち鳴らすと、今度は裏手の方へと引っ張っていこうとする。
「あ、あのっ?」
「さあさあ、どうぞ」
「あのおおおおっ?」
ずるずると引きずられるままに、助けを求めるように慎之介を見たが、慎之介はただ笑いながら(きっと笑っていると思う。目が細すぎてよく解らないけれど)手を振って見送ってくれるだけで。
結局、裏手から板間の小さな部屋へ連れ込まれてしまった。