弐 その三
「お前みたいな細っこいのが一人で関越えして七重までだと? 大体、手形持ってるのか?」
「手形?」
「関を越える手形だ。あれがなきゃ、越えられんだろうが」
「そんなの……要るんですか?」
そんな話、聞いていなかった。
「手形もないか…… 大概だな」
男がばりばりと頭を掻くと、ふけが雪のように振ってくる。
すると、子供が派手なくしゃみをして目を覚ました。
「な、なんだ……」
「あ、気がついた?」
晶が抱きかかえたまま顔を覗き込む。
子供は二三度目をパチパチと瞬かせ、そして自分の状況を悟ったのだろう。
いきなりぱっと顔を赤くして、飛び離れた。
「な、なんだそなたは!」
「通りがかって……。はい、刀」
「か、返せっ」
差し出した刀をひったくるように奪うと、さっさと腰に差した。
「まったく、油断も隙もないわ」
「おまえ、命の恩人にたいしてそれはないぞ」
男が口を挟む。
「恩人……?」
子供は淡い記憶をたどっているように眉を寄せ、そして、思い出したらしい。きっと晶をにらみ付けた。
「よけいな事をしおって!」
「え?」
晶はなぜ怒鳴られたのかわからなくて、きょとんと相手を見返した。
「私は一人でもなんとかできたのだ。よけいな手出しなど無用であったものを!」
「ほお。じゃあ、お前一人で切り抜けられたって言うのか?」
大男がおもしろそうに口を挟む。
「当たり前だ。私の刀さえあれば、あのような輩一刀両断にしてくれたわ!」
大男をきっと見上げ、子供は言い放った。
「ほー、そうかいそうかい。そりゃたいしたもんだ」
しかし、男は相手にしていない。
「ぶ、無礼者め。武士を愚弄したな! 成敗してくれる!」
子供が腰の刀に手を伸ばす。
「いい加減にしなさいっ」
それまで黙っていた晶がいきなり動いて子供の頬をひっぱたいた。
「な……」
あまりの迫力に、子供も気圧されたようだ。頬を押さえたまま目を点にして固まっている。
だがすぐに顔面に血を上らせて、
「よ、よくも武士に手を挙げたな。こいつらと同じ輩だ。所詮、下賤な者は身分の違いを認識できぬのだな! 身の程知らずにも程があろう! そなたも成敗……っ」
「う・る・さいっ」
晶は今度は両手で子供の頬を挟み込んだ。目は完全に据わっている。
「にゃ、にゃにをっ」
「助けられた礼も言えないくせに、偉そうな口聞くんじゃない!」
「ぶ、ぶしにぶれいにゃ……」
「まだそんなこと云う口はこれ!? 武士だろうがなんだろうが、身分なんか言って通用しなけりゃなんの役にも立たないの! そんなこともわからないなら、一歩も家から出なきゃいいでしょうが!」
「お、おいおい。なにもそこまで……」
大男が割って入ろうとするが、晶は完璧に黙殺した。
「さあ、言いなさい。この人にすみませんって。それが最低限、今のあんたがしなきゃいけないことなんだから!」
「ひ、ひえるか…… このわたしが……」
「……言うの」
額を子供に付けて、鼻先も触れんばかりに近づけて、目をまっすぐに見据えて、重ねて、言う。
しばしの沈黙。
「わ、わかった……」
とうとう、子供が折れた。
「て、手数をかけた。詫びをとらす」
腕を組んだまま、そっぽを向いて、はき出すように子供が言った。
「ちゃんと顔見る!」
晶がむりやり子供の顔を大男に向き直らせた。
子供は眉間に皺を寄せ、唇をとがらせ、頬をふくらませながら、
「助かった! これでいいのか。もう言わぬぞ!」
ぷいと余所を向く。
「ま、いいか。許してあげる」
「な、なんだ、その物言いは。仮にも武士に対して……!」
「なに?」
「い、いや。なんでもない……」
晶の視線に、子供が口ごもった。
どこからか口笛が聞こえてきたが、この際無視。
晶は改めて子供を見た。
上等そうな細かな刺繍を施した着物と袴を着ている。髪はきっちりと結い上げて、足袋に分厚い草履。晶にさえ、上流階級の子供だと言うことがわかる身なりだった。少しブリーチをかけたような茶髪に金茶色の目。よく見れば綺麗な顔立ちをしているのだ。
「ではな」
その顔をしかめっ面にして、子供はくるりと背を向けた。
「どこへ行くんだ。屋敷に帰るのか」
「どこへ行こうと私の勝手だ。無用な詮索はせぬが良い!」
「しかしだなあ。せめて手当ぐらいはした方がいいぞ。そのツラ下げて帰ったら大騒ぎだぞ」
「うるさいっ!」
鬱陶しそうに言い放つ。
しかし、
「若あああっ」
ほとんど絶叫に近い声が林にとどろいた瞬間、子供の顔が一瞬にして引きつった。
「若、どこにおわすのじゃ。若あっ」
老人の声だ。案外、近い。子供はあたふたと辺りを見回した。
「若。恥ずかしがることはございませぬぞ。初床など誰もが通る道。若はおなごにおとなしゅう従えばよろしゅうございます。ささ、もう子供ではありませぬぞ。早うお出ましになってくだされ!」
「うい、どこ……? ……っ」
その言葉が意味することに思い当たった途端、晶は顔が真っ赤になった。
子供は子供で、反対に蒼くなりながら、おろおろしている。
男一人平然どころかおもしろそうに笑いながら、
「そうか。お前、元服すませたのか。それでなんで隠れるんだ?」
子供を覗き込んだ。
「だ、誰も隠れてなど……っ」
「そうか。それなら…… おーい、ここに若様が……」
「戯けっ」
子供が男の脛を思い切り蹴り飛ばす。
「痛ってえ…… で、なんでだ?」
「……自分で、選ぶ!」
「あ?」
「相手など、自分で選ぶと申したのだ。誰が、爺がえらんだおなごなど…… 与えられてよしとするものではない!」
「ほお……」
男は感心したように顔をつるんと撫でた。
晶も驚いた。まだ、小学四年ぐらいだろうに、今からそんなことを考えているらしい。
この世界の適齢期とは幾つぐらいなのだろう。ふと疑問に思う。
「で? どうする」
大男が子供を覗き込む。
しわがれ声の雄叫びが、次第に近くなってきている。
「……」
子供は不機嫌そうに大男を見上げていたが、やがて決心したように、
「よい。同道を許す。そなた等が行くところへ案内せい」
言い放った。
「俺たちの?」
「金ならあるぞ、金二〇だ」
「……そんなにあるなら、なぜさっき出さなかった。なら、痛い目に遭わずにすんだだろうが」
「意に染まぬ者には従わぬ。どうするのだ。行くのか、行かぬのか」
「ほお…… なかなか粋なことを言うもんだ。よし、気に入った。なら、協力してやろう」
男は言うや子供を肩に担ぎ上げた。
「な、何を……」
「爺さんに見つかりたくないんだろう? なら逃げるが勝ちだな」
そして、手近な石を遙か遠くに投げつけた。
「若、そこにおいでかっ」
物音を勘違いして、老武士が林を横切っていく。頭ははげ上がっているくせに、髭だけは綺麗に整えられ、左右対称にピンと跳ね上がっている。鷲鼻の頑固そうな老人だった。
「それ、今の内だ!」
大男が走り出す。
「……え?」
晶は面食らった。男が自分まで小脇に抱えあげたからだ。
「ちょ…… ちょっと……!」
「どうせ腰抜かして立てやせんだろ。ついでだ」
「ついでって…… 誰も一緒に行くなんて……!」
「気にするな気にするな」
「気にします~っ」
だが大男は走り続け、子猫がその後をちょこちょこと追いかけてきた。
***
街道に戻ると、男は駕籠を二つ止め、それぞれに子供と晶を押し込んだ。
「あ、あの?」
「担いでいけんことはないが、いくらなんでも目立つ。夜までには香春に入りたいところだしな。おとなしく座ってろ」
「いえ、だから……」
何かを言う前に垂れを下ろされた。
「武士たる者、このような軟弱な乗り物など使ってたまるか!」
子供がわめいている。
「だったら置いていくぞ」
「……」
「行ってくれ!」
「へい! で、旦那は?」
「俺も一緒に行く。構うな」
「へへえ…… しかし、着いてこれますかい?」
「いらん気を回す前に走れ。日暮れ前に香春に着けば駄賃弾むぞ」
「へい。合点承知!」
途端に駕籠が浮き走り出した。
後にも先にも、これ程気持ち悪い思いをしたのはこの時だけだ。上下左右に揺れる揺れる。手足を突っ張ろうにも周りはゴザ同様の頼りなさだ。ただひたすら天井から下がる釣り紐を握っているしかないのである。そう言えば、鎖国後だったか、外国人がひどいものに乗せられたと、憤慨した記録を残したのだと、日本史の教師が言っていた。それも今なら当然と思えた。
駕籠が地に着き垂れを上げられても、しばらくは気持ち悪くて出ることもできなかった。
「なんだ。駕籠に乗るのは初めてか?」
「は、はい……」
ふらふらと泳ぐように駕籠から這い出ると、道ばたにうずくまる。
「そうか、そいつはまずかったな」
男は困ったように、頭を掻いた。
「いえ、あの。少し休んだら、動けます。だから、ちょっとだけ……」
「飲め」
竹筒を差し出された。遠慮もなしに口を付ける。冷たい水が喉に染みた。
「ふん。情けないやつめ」
すぐ傍で、子供が平然と晶を見下ろしている。
「何とも……ないの?」
「あるわけなかろう。この程度のこと」
「ふうん、すごいね」
素直に感心した。
すると、なぜか子供の顔がさっと赤くなる。
「な、なに、当然のことだ!」
ぷいっと横を向く。
その様子が妙に可愛いくて、思わずくすりと笑ってしまった。
たとえどんなに大人ぶっていたところで、所詮は子供なのだ。
そう思えば、今までの言いたい放題もすんなり飲み込めた。
そして、やっと周りを見る余裕が生まれる。
日が暮れ、窓という窓に明かりが灯る。
軒に連なる提灯が風に揺れながら暖かな灯りを回りに投げ、行灯に炎が踊る。
その自然な灯りの中を、女達が誘い、男が女に話しかける。
袖を引く女、格子を覗き込む男。
したたかに酔って千鳥足で道を行き、すれ違う女に色目を投げる。
「……ここって、もしかして」
こんな風景を、テレビで観た覚えがある。
言葉が続かなかった。




