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弐 その二



 なぜ自分が崖から落ちたのか、まったく記憶にない。

 川縁に流れ着いたことも。


 しかし、その理由を考えることはやめにした。大体にして、なぜ自分がこの祇園にいるのかさえ、理由がわからないのだ。それ以上のことを追求しても仕方がないと思うから。


 もう、週末に控えていた模試も、来春の大学受験も、夏休みの終わりにあった弓道の夏季大会も、合気道の昇段試験も、なにもかもが、自分には無縁のものとなってしまった。 

 あれだけ寝る間も惜しみ、がんばっていただけに悔しいのだが、どうしようもない。


 あの場所。

 あの時間に戻る方法が、わからないのだから。


 だから。

 今となっては、とにかく目の前の事態に対処することだけが自分にできることだった。



 それしか。

 もう、なかった……



***



 歩くに連れて、幾つかの道が合流して、次第に道を行き来する人の数が増えていく。七重村以外を知らない晶には、道行く人の様子がおもしろかった。時代劇に出てくるような衣装を着た人間が、実際のものとなって目の前にあるのである。

 駕籠が走る。馬が荷を背に結わえて引かれていく。三味線を抱えた女が歩く。笠を被った武士が伴を従えすれ違う。


「時代劇のロケみたいだな」

 それに目を奪われ、しばらくは疲れもなにも忘れていた。


 しかし、日が昇り、暑さが増すにつれ、歩む早さが遅くなる。手足は重く、先が冷たい。

「半日…… ぴったりよね」

 行く手に赤いのれんが見えた。緋毛氈を敷いた縁台も見える。どうやら休憩所らしい。香ばしい団子のにおいがする。

 しかし、当然、晶は金など持っていない。

 仕方なしに向かいの木陰に腰を下ろした。

 目の前で、旅人が数人、熱い茶を共に団子を食べている。

「目に毒だよ~。みたらし団子かな、あれ。長い間、食べてないなあ。そういえば、アイスも食べてない。かき氷もないよね、ここって。暑い間に氷とか食べないのかな……」

 包みから丸薬を一つ取り出し、少量の水と共に飲み込んだ。おにぎりもあるが、四つしかない。金がない以上買い足せないのだから、できるだけ保たせなければならなかった。お腹の不平に耳を塞いで、木にもたれる。


 木陰を、わずかばかりの涼しい風が吹き抜けていった。







「喰うか?」


「……え?」

 いつの間にかうとうとしていたらしい。

 声に目を覚ますと、目の前に湯気を立てた団子があった。


 皿に乗って三串。


 その皿は毛むくじゃらの腕に掴まれ、腕をたどると、相撲取り真っ青の巨体があった。相撲取りと違うところは、脂肪でぶよぶよしているのではなく、全身鍛え上げられた筋肉でできているところだろうか。顔はというとひげも髪も伸び放題で、どこに目鼻があるのかわからない。見るからに、胡散臭そうな男だった。


 その男が、なお皿を晶に突きつけ、


「喰え」


「な、なんでですか?」

 一応、警戒する。

「腹が空いているんだろう?」

「ど、どうして……」

「それだけ派手に鳴らしてりゃ、誰にでもわかる。喰えよ」

 表情がわからない。汚れた着物、むき出しの脛、そして、それに不似合いな腰の剣……

「い、いいです」

 欲しいのは山々だが、それ程無節操ではないつもりだ。もらっていい人と悪い人の区別ぐらいはつけられる。

「遠慮か? ガキのくせにかわいげがないな。こういう時は素直に喰うもんだ」

「で、でも、いいです。お先に!」

 慌てて立ち上がって、街道に戻った。できるだけ早く歩く。少しでもあの男から遠ざかった方が懸命だろう。

 これ以上、余計な関わり合いにあって時間をとられるのはまっぴらだ。


 しかし、それが災いしたのか、夕暮れ前に息が切れてきた。

「おか、しいな。まだ、保つはずなのに……」

 動かないものは動かない。むりやり這いずるようにして木陰に潜り込む。

 今夜はここで野宿ということになるのだろうか。


「一日で、関に着くって言ったのに。着かないよお…… 戻るの遅くなる……」

 膝を抱えて顔を埋める。腹が盛大に鳴った。

「……仕方、ない。食べよ」

 包みを開けた。

 おにぎりを手に取ったが、何となく食欲がわかない。


「……はあ」

 ため息をついた。


 風の渡る小枝の音が、周りを包む。

 人の話し声が嫌に遠くに聞こえた。

 木陰で、自分がこうしていることを、誰も知らない。


 そう。

 誰一人……


 おにぎりを包みに戻し、また膝を抱え込んだ。


「……あたし、なにしてるんだろ。独りで。こんなとこで……」


 しかし、その問いに誰も答えてはくれない。


「……」


 視界が、ゆがむ。




 その時だ。



 近くの草むらが動いた。

 警戒して凝視する。


「なぁ……」

「……へ?」

 子猫が、出てきた。

 薄い茶縞の猫で、大きな目が若葉色をしている。その猫が、ふんふんと鼻を鳴らしながら近寄ってきて、晶の前に座った。

「なあ」

 小さく鳴いて、晶を見上げる。

「なに? あんたもお腹空いてるの?」

 目元を袂でこすりながら、訊いた。

「なあ」

「ふふ…… じゃ、あげる」

 おにぎりを半分にして、猫の前に置いた。

 子猫は随分飢えていたようでがつがつとあっという間に食べてしまった。

「もう半分、要る?」

「な」

 子猫はふるふると首を振り、おにぎりを持った晶の手を鼻先で押し返した。

「あたしに食べろって? いい子だね」

 頭を撫でた。


 ……暖かい。


 普段なら、こんな事、怖くてできないはずだった。今までペットを飼った事がないので、動物に触ったことがなかったのだ。友達の家に行って、犬や猫がじゃれてきても、必死になって逃げ回っていた。


 でも、今は、平気でできた。ひとしきり首や頭を撫でまくってから、傍にうずくまって動かない猫を横目に、おにぎりを少しずつ食べる。


 ……暖かい。


 先ほどまでの寂しさとか、そういったものが、今は不思議と感じない。

 たった一つ。

 別のぬくもりが傍にあるだけで、こんなにも違うものかと思う。


(……だから、みんなペットとか飼うのかなぁ)

 もし向こうに帰ることができたなら、考えてみてもいいかもしれない。

 そんなことを、考えた。



「な」

 晶が食べ終えた頃、子猫の耳がピンと立った。

 そして、茂みの奥へと目を向ける。

「なに?」

 耳を澄ます。


 晶の耳にも「それ」は聞こえてきた。


 何か、柔らかいものを殴る音だ。そして、小さなうめき声と、

「いい加減強情なガキだな!」

「ないものはないと言っている。さっさと去ね!」

「なんだと。てめえ、ちいっとばかり、偉い親父を持ってるからって、いい気になるんじゃねえぞ。今の状況がわかってねえのか!」

 また、殴る音。

「ちぃ。仕方ねえ。身ぐるみ剥ぐだけで勘弁してやらあ」

「ま、まて…… それは……」

「てめえ、公家のガキだろう。なのになんでこんなもの……」

「汚い手で触るでない。返さぬか!」

「うるせえっ。あ、こいつ、こら、離せっ。あっ」

 そして、それは放物線を描いて晶の前に落ちてきた。

 赤い錦の布の袋に入った長い物体で、手にしてみるとかなり重い。

 落ちた拍子にほどけたのか、口を結んだひもが緩み、中身が半分ほど姿を見せていた。

「これ……」

 刀に、見える。恐る恐る手に持って、持ち上げてみると、するりと鞘から抜け出して刀身が光る。耳にかけてあった髪が覗き込んだ拍子に落ちて、刃に触れただけで切れた。

「わ。ほ、ほん、ものっ」

 怖くなって慌てて鞘に収め、袋にしまって紐をきゅっと少し強めに結んだ。


「畜生。飛んでいっちまったじゃねえか。兄ィ、面倒くせェからその着物引っぺがして、売り飛ばしてしまいましょうや」

「ばかやろう、頭を使え。こんなものを質入すりゃあ、簡単に足がつかあ。おい、小僧。持ち合わせがねえなら、持ってこさせな。泣き入れた手紙でも書いてもらおうかな」

「誰が書くか、そのようなもの!」

「なんだと、生言うんじゃねえぞ、このクソガキ!」

 また、殴る音。


(痛っ)

 自分が殴られているわけでもないのに、痛い気がする。

 音がするたびに、身をすくめる。

 晶はいたたまれなくなってきて、そっと近づいていった。


 年相応の体つきをした、むさ苦しい男が二人、まだ十にも満たないであろう子供を羽交い締めにしていた。一人はまるでサンドバックのように、その子供を殴り続けている。


 ……リンチのようなそんな場面を、初めて、見る


 痛い。

 痛い。

 とても、痛い。


「や、やめ…… やめろっ」

 晶は思わず草むらから飛び出た。


 男達が、眉を顰めながら。

「なんだ、このガキ?」

 じろりと睨みつけてくる。


「……っ」

 怖い、と思った。

 それでも、そこに立ったまま。

 

「や、やめろよっ。こ、子供相手に、二人がかりなんて、ひ、卑怯だろ!」

 声が引きつってまともに口が動かない。

「卑怯? はっ。こいつぁいい、オレたち相手に『卑怯』と来たか!」

 男の一人が楽しそうに笑う。

「それが世の中を渡る術ってもんさ。なあ」

 ずいっと顔を近づけてくる。

「ん? 震えてんのか。へっへ…… まあ、出てきちまったのが運の尽きってもんだ。触れ回られると困るんでな。次からはおとなしく見て見ぬふりを決め込むんだな。ボウズ。次があればの話だがな!」

 両手が晶に向かって伸びてきた。

「う、うわっ!」

 晶は咄嗟にすっと身をかがめた。男の腕を流し、つかみ、懐に入り込んで両腕を思いきり振り下げる。

「え……? うわあっ」

 男の躰が地面に投げ飛ばされた。

「……わ、うそ、決まった!? ご、ごめんっ」

 おもわず謝ってしまう。、

「なんだああ? ふざけてんのか、このガキ!」

 子供を捕まえていた男が、子供を突き飛ばし、こちらに突進してくる。

 今度も無意識に躰が反応する。

 半身をずらし、体を入れ替えて腕を捕まえ、地面に押さえつけて固めた。

「い、痛て……」

「ご、ごめ…… で、でも、そっちが悪いんだからっ!」

 なぜできてしまうのか自分でもわからないが、これ幸いと力を籠める。男がうめくが、気にしないことにした。

「てめえ、このガキがどうなってもいいのか!」

 声に振り返ると最初に投げ飛ばした男が、子供を再び羽交い締めにしていた。


 子供は殴られすぎたのか、ぐったりとしていて動かない。


(……)

 その途端、不思議なほどに、落ち着いた。

 覚悟が決まるというのはこういうことかもしれない。

 


「……どうにかする前に、こっちの腕、折るよ」


 心臓がうるさい。

 緊張で、顔が火照る。

 だが、この際、そんなことはどうでもいい。平気を装い、相手をにらみ付けた。そして、捕まえている腕をなおさら締め上げる。男が、悲鳴を上げた。

「その子を……離せ。そして、あんたたちもどっかに行け!」

 自分のものとは思えないほど、低い声だ。

 早くそうして欲しかった。火事場のバカ力もいいとこなのだ、いつまでも力がもたない。既に、腕はぷるぷる震えてきている。

「おい、離せ」

 押さえつけられている男が言うと、

「わかった……」

 男が子供の腕を放した。

 そして、晶に向かって突き飛ばす。よろめいて倒れそうになる子供に手を差しのばし、抱き留めた。


「だ、大丈夫? ねえ…… ……っ?」

 影が被る。

 男が二人、晶を見下ろしている。

「好きなこと、ほざいてくれたじゃねえか」

「この腕の礼、させてもらわなきゃなあ」

 舌なめずりをする。


「……」

 晶は子供を背に回し、相手をにらみ付けた。手も足も震えているが、逃げ出すことなどできはしない。子供を担いで走るなんて芸当できるわけがないし、大体にして、もう手足が動かない。


 だから。

 子供を背にして、ただ睨む。


 その晶の前に立ちはだかるように、子猫が背を丸めてうなっている。


「覚悟しな!」

「……っ」


 思わずぎゅっと目を瞑った瞬間だった。


「するのは、お前だろう」


 野太い声がしたと同時に、男が一人、軽く五メートルは吹っ飛んでいった。

 目を瞬かせれば、晶の前には巨大な背中が立ちはだかっている。


「お前も、やるか?」

 大男がにっと笑い、残った男に歩み寄る。

「な…… な、な…… こ、この野郎っ」

 その圧倒的な力の差に震えながら、どこに隠していたのか、短刀を構えて男が飛びかかってきたが、大男はそれを気にする風もなく、拳を男の顔面に向かって無造作に突き出した。

 風を切る鋭い音がする。そして、ほんの数ミリ手前で拳を止めたのだが、風圧で男は後方に吹っ飛び、立ち木にたたきつけられた挙句に、白目を剥いた。


「……わ」


 ……特撮かなんかだろうか。


 あまりの迫力に、晶は言葉も出ない。

 子供を抱きかかえたまま、ぼうっと大男を見上げた。


「なんて無茶するガキだ」

 晶の顔を、大男は覗き込む。髪や髭で良くはわからないが、その口調からどうやら苦笑しているらしい。

「そんな細い腕で、よく投げ飛ばせるもんだな。なにか心得でもあるのか?」

「あ、合気道を、ちょっと……」

 声がまだ震えている。

 実際、自分でも驚いているのだ。演武形式でしかしたことがないのに、打ち合わせもしていない男を投げ飛ばせたのだから。

「あいき……? それで、どこまで行くんだ?」

「えと、あの、七重村まで……」

 思わず、正直に答えてしまった。

「七重? ああ、天宝のか。とすると、香春の関越えをするわけだな。で、連れは?」

「え?」

「だから、連れだよ。お前みたいなガキを一人放ってどこに行っている。用足しか」

「いえ、あの…… 一人、ですけど」

「……え?」

「一人です。一人で七重まで……」


「はああああああっ?」


 晶の言葉を遮って男が叫んだ。


 

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