弐 その一
目が覚めた。
ぼんやりとぼやけた視界に、黒ずんだ板の天井が見える。
(おかしいなあ。わたしの部屋、白かったはずなのに……)
そして、一瞬にして思い出す、ほんの最近の過去。
「……っ! そうだ、わたしっ!」
慌てて飛び起きようとしたけれど。
……頭が少し浮いただけだ。
「あ、あれ?」
なんとか体を動かそうと試みるが、腕もろくに上がらない。
「どーなって……」
「気がついたか」
もがいていると、聞いたことのない声が聞こえた。
頭を動かすこともできないので、声の主を見ることもできない。ただ、老婆だということはわかる。
「どれ」
まさに「ぬっ」という感じで、晶の視界にそれが入ってきた。
白い髪がワックスで固めたように天を指し、皺と染みだらけの老婆の顔だ。
「わ……」
叫びそうになって、慌てて声を飲み込む。
「ふむ、良さそうじゃの」
老婆は晶の下瞼を引き下げ覗き込み、口を開けさせ覗き込み、額に手を当て、胸に耳を当て、そして口の中に何かを放り込む。
ものすごく苦い。
顔をしかめると、大量の水が口に流し込まれた。半分むせながら、水と共にそれを飲み込んだ。
「起きてみろ」
しばらく後に、老婆がそう言った。
「そんなこと言ったって…… ……あれ?」
晶は恐る恐る手を動かす。
動いた。
手をついて、頭を上げて、体を起こす。そして、座ることができた。やっと、自分がいる状況がつかめた。
一間だけの板間の小さな小屋のようなところだ。
すぐ傍にいろりがあり、自在鈎に鉄鍋がかかっている。なにか異様なにおいを発するものがぐつぐつと煮立っているところが不気味だった。壁には隙間なく枯れ葉や木の実が干してあり、部屋の隅には小さな引き出しがたくさんついた戸棚がいくつも置いてあった。
「あ、あの……?」
しかし、なぜ自分がここにいるのかがわからない。
ここはどこで、この老婆は一体誰なのだろう。
確か、蓮華社にいたはずなのに……
「なぜ崖などに近寄った。しかも素足で。粗忽者よの。足を滑らせる事を考えなんだか」
「崖……?」
覚えがない。
「なんじゃ、覚えておらんのか。おぬしはこの下の川縁に引っかかっておったのじゃ」
「川に……? え……? な、なんでですかっ?」
「儂が知るわけがなかろうが。察するに、崖際の茸でも採ろうとしたのではないか? そうして落ちて、命を失うものもおる。何人かはこうして助けたこともある。誰も彼も同じ事をしでかしおって、手のかかる事じゃ」
「あ、すいま、せん……」
まったく記憶がないのだが、助けられたことは事実らしい。見るからに気むずかしそうな老婆なので、とりあえず謝っておく。
「あ、あの。わたし、どれくらい、こうして……」
「一晩じゃな。見つけたのが夕べの事じゃから」
「ひと、ばん……?」
そういえば、辺りはしんと静まりかえり、冷え切った清々しい空気が漂っている。町中の住宅地にいた時はまるでわからなかった、田舎の早朝の気配だった。
「うそ…… た、大変だ。戻らなきゃ! また、心配かけて……っ。 あ、あの、蓮華社に帰りたいんです。どうやったら、戻れますか?」
さあっと音を立てて血の気が退いていく。
記憶がないのだから、誰かに断ったはずがない。一晩無断で行方不明になっているに違いないのだ。行くと約束してあったのだから、灯が待っていたに違いないし、もしかしたら、庵にまで知らせが行っているかもしれない。
「蓮華社? 七重村のか?」
「はいっ。できるだけ早く謝りに行かなきゃいけないんです。約束破っちゃったし、もしかしたら、またみんな心配してくれちゃってると思うし……っ。 お礼には、後で必ず来ます。だからっ」
「早くて三日じゃな」
「……なにが、ですか?」
「七重村に着くのに早くて三日はかかると言うておる」
「……ええっ?」
思わず叫ぶ。
「なんで、そんなに……」
「川を下り、街道を入って香春の関へ着くに一日。関を越え、玻璃の首都へ行くに馬を使って一日。そこから馬車が相川まで出ておる。着くに半日、相川から七重までが半日。故に、乗り合わせなどがうまくいって合計三日じゃな」
「……ここから、七重村ってそんなに遠いんですか?」
「なんじゃ、それも知らんのか? 山川谷も関係なくまっすぐに行くとしても、軽く五里は越えるぞ」
「五里? たしか……二〇キロ近く? えっと、じゃあ、せめて知らせることはできないんですか? わたしがここにいるって」
「飛脚も同じ道をたどる故な。それに呼び寄せるにまだ手間がかかる」
「そんな…… あ~、もうっ! スマホ使えたらいいのにぃっ。……って、言ってもしょうがないか。ないんだから」
一人で叫んで一人で突っ込む。
「……あのっ。それじゃわたし、その道通って行きます。今から。今すぐっ! 少しでも早く戻らなきゃいけないんです。だから、すいません!」
立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らず、膝砕けになって布団に倒れ込んだ。
「うそ……」
力無く布団にへたり込んでいるこの状況が信じられない。
一体何がどうなったというのだろう。
確かに体力はなかったけれど、さすがにここまで来ると呆然としてしまう。
「無理をするでない。ただでさえ冷え切っておったのじゃ、すぐに歩こうなどと無茶なことを考えるな」
「でも、わたし……!」
必死だった。
一時間でも、一分でも一秒でも、とにかく早く帰らなければ……
でなければ、また……
……また……っ
「やれやれ、詮ないのう……」
そんな晶の様をじっと見ていた老婆が、ほうっと大きく息を吐いて。腰を九〇度に曲げたまま小屋を横切り、棚へと歩み寄る。様々な引き出しを開け、分量を量っては鉢に入れ、すりつぶしたり練ったりすること約三〇分ほど。
「ほれ」
晶の前に壷を一つ、包みを二つ、置いた。
「……なん、ですか?」
「この丸薬は手足に力をつける。今飲んだのもこれじゃ。すぐに動けるようになったろう。今は初っ端じゃから着付け程度じゃが、次からはも少し長くもつ。ただ、効き目は半日がいいところじゃ。切れれば元に戻る。一回に一粒飲め。飲みきる頃には体力も元に戻っておろう。こちらの丸薬は精力を補う。一日に一粒飲めば良かろう。この塗り薬はどんな傷にも効く。おぬしの手足や背中には枝でひっかいたのであろうな、傷がある。こまめに塗り込むがええ」
そして、竹筒を一つ添えた。
「そこの川で水を満たしていけ。それと、着替えじゃ」
小袖が一枚。それを広げてみたが、心持ち控えめに、
「あの、袴、ありませんか?」
「あれは男が着るものぞ。……そう言えば、おぬし、着ておったな」
「わたし、このままだと裾まくれないように歩く自信なくて……」
「ふむ。待っておれ」
部屋の隅の行李をひっくり返し、一枚とりだした。
「これを着るがいい」
「……すみませんっ」
きっちり正座をし、両手をついて頭を下げた。
「お礼には、必ず来ます。だから、本当に、無理ばっかり言ってごめんなさい!」
「気にすることはない。薬屋は道楽じゃしな。道中気をつけるがいいぞ」
「はい! 本当に、すみませんでした」
晶は早速丸薬を一粒飲んだ。そして、立ち上がる。歩いてみる。歩ける。
どんな効能なのかわからないが、この際気にしない。
歩けるのなら、それ以上は望まない。
とにかく…… 戻らなければ……
早速着替えに取りかかる。一分一秒を無駄にできない。
ふと、右肩に引っ掻いたような傷を見つけた。よく見れば手や足にもあちこち怪我がある。
「崖から落ちてその程度ですんだのじゃ。ましだと思え」
老婆がこともなげに言った。
まったく気づいていなかった。
(んっとに鈍いなあ…… わたしって。ま、どうせ大した怪我じゃないんだろ。こうして動けてるくらいだし……)
自分に呆れながらもきちんと着物を着て、襟元にブローチをつける。襟元がはだけないためにと、一穂が髪留めを利用して作ってくれたのだ。のこりの着物はボロ同然だったらしく、既に捨てられてしまっていた。
外に出る。
流れが速い川岸に、小屋は建っていた。遠くから、滝の水音が聞こえている。その両側に張り出すように崖があり、それは川下の方へとずっと続いている。
あの高さから、落ちたらしい。
今更ながら、ぞっとする。
本当によくぞ助かって、動ける程度の怪我ですんだものだ。
けれど、今はそんなことは大した問題ではなかった。
とにかく。
少しでも早く、あの庵へと戻らなければならないのだから。
これ以上、あの人達に心配をかけてはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
……怒らせてはいけない。
戻って、謝って……
そして、やはり一人で生きていく方法を考えよう。
一人なら、誰にもこんな風に心配も迷惑もかけずにすむのだから。
「……よしっ」
もらった薬とおにぎりを腰に下げて、教えられた川岸を下る。
すこしでも、はやく……
+++
「あれでよいのか?」
意外なほどの早さで小さくなる後ろ姿を見送りながら、老婆が連れに聞いた。
「ああ。望みは叶えさせた方がいい。それがあいつのためだろうさ」
連れが答える。
「しかし、あれでは道中一人では無理じゃぞ。薬で保たすにも限度がある」
「その点については、心配ない。ちゃんと、考えてる」
「物好きじゃの。ほれ」
「薬屋は道楽じゃなかったのか?」
差し出された老婆の手に、数粒の金を落とす。
「何を言う。道楽にも金はかかるんじゃ」
きしし…… と老婆が笑った。
「まあ、いいか。じゃあ、薬屋。世話になったな」
じゃり。
踏み出した足元で、砂利が鳴いた。




