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その十

 琥太郎は井戸端で冷たい水を勢いよく顔に浴びせかけた。井戸水はキンと冷えて瞬時に目を覚まさせる。

「よしっ」

 両手で頬をたたいて気合いを入れる。今日は久しぶりに慎之介との手合わせをする約束をしたのだ。


「今日こそ、一本とってやる」


 今まで一度もとったことがない。自分なりに鍛練を重ねているはずなのに、どんなに渾身の力を込めて振り下ろしても、琥太郎の木刀は慎之介に軽く受け流され、空を切る。そして涼しい顔で笑いながら「まだまだだな……」と言われる。

 それが悔しくて仕方がないのだ。

「今に見てろよ……  ん?」

 見慣れない色が目端をかすめた。

 色鮮やかな布が、植木の向こうで動いている。

「……」

 建てかけてあった木刀を手にして、そっと後を追う。

 木陰から出ると、淡い山吹色の小袖と海老茶色の袴を身に着けた、小柄な人影が裏木戸へと向かっているところだった。


 また見たこともない着物だ。

 最近、一穂が仕立て直しにはまってしまい、日ごとに来ている着物が変わる。

「女の子は、可愛らしい色が使えて楽しいわ!」

 そんなことを言いながら、つづらをひっくり返している一穂が、また面白くない。

 今も、知らず眉間にしわを寄せて見送っていたのだが、ふと、あるものを目にとめて、咄嗟に追いかけた。


「おい!」

「うわっ!」


 一息で追いつき、彼女の左手をつかみ上げる。


「こ、こここここ、琥太郎、さんっ。な、なにっ?」

 一瞬にして蒼白になった晶が顔をひきつらせた。


「なんだ、これは!」


 晶が手にしていたもの、それは長弓だった。見れば、矢筒のようなものには、矢も入っている。赤い、色の……


「あ、えと、な、なんでも、ない、です!た、た、ただの、お、おもちゃで……っ」

 必死に後ろ手に隠そうとするが、もともと背丈より大きいのだから、隠せるはずもない。

 もとより、こんなおもちゃがあってたまるか。


「……射こんだのお前か」


 豪社が来た時、居間の隅に転がっていた、あの矢だ。


「な、なんの……ことっ」

「しらばっくれるんじゃねえ。居間に転がってたのと同じ奴だろうが、これ! 言え!何のためにあんなことをした! お前、まさか庄屋に手ぇ貸して、一穂さまを狙ったのか……!」


「ち、違います! そんなことしないです!」


 思いがけず、きっぱりと否定された。


「人なんか、狙いません。そんな危ないことしません。当たったら痛いし怪我するし。やりたくないです」

「……じゃあ、なんでだよ」

「だ、だって、忘れ物取りに来たら、一穂さんがちびデブちょび髭色ボケおやじにちょっかいだされそうになってたから! て、テレビで見たことあったし、で、できるかなって……」 

 だんだんと、声が小さくなっていく。

 しまいには、ちらりと琥太郎を見上げて、

「まさか…… あんなに真っ白になると思ってなくて…… す、すみませんでした!」


 がばっと頭を下げた。


 あまりの勢いの良さに、思わず身を退く。


「……」


 下げたままに後頭部を見下ろす。一向に上がる気配がない。

 顔をしかめ、ため息をつき、頭を掻く。視線を晶から外し、空を睨みつけて、もう一度戻した。

 晶の様子は変わらない。

 目もぎゅっと閉じたまま、小さく小さく体を縮こまらせて、今まさに落ちてこんとしている雷を待っている。


「……あー、畜生っ」

 叫んだ途端、晶がびくりと震え、琥太郎を見上げた。


「ご、ごめ……」

「謝るなっ」

「す、すみま…… ……え?」

「こっちが言えなくなるだろうが」

「……なに、を、でしょう」

 まだ怖ろしげに、晶は見上げている。

 この際、言うことは言うべきだ。そう、教えられてきた。

「……助かった」

「……はい?」

 晶が、首を傾げる。

「聞こえてんのか。助かったって言ったんだ、オレは!」

「なに、が……」

 まだ、首を傾げている。

「あの、な…… ったく、トロいやつだな! あの目くらましがなかったら、一穂さまを守れなかったって言ってんだよ! 礫投げただけじゃ、どうせ避けられてただろうし……」

 ふいと、余所を向いて、それでも言うことはいった。


「……じゃあ、役に立ったんですか?」


「は?」

 

 顔を戻すと、晶が呆けていた。


「わたし、みんなの、役に立てたんですか?」

「ま、そういうことに、なるんじゃねえ?」

「う……わ…… やったあ……」

 

 ……瞳がきらきらと輝き、頬がそまる。

 両手をぐっと握りしめて


「やっと…… やっと役に立てた! あは…… ありがとうっ」

 晶が琥太郎の片手を握りしめて、ぶんぶん振り回す。


「お、おいっ。やめ……っ」

「あのっ。もう、絶対迷惑なんかかけませんから。もっと、もっと、できること増やして恩返しします! 弓もこれから練習してきます! 今日も社から帰ったらお手伝いします! 夕方までには戻るようにして、迷惑かけませんから! 本当に、ありがとうございます!」

 そして、今度こそ本当に階段へと跳ねるように走り去っていった。手に弓と矢を持ったまま。


「……なんだ、ありゃ」


 握られていた手を宙に浮かせたまま、しばらく立ち尽くす。


「ちびデブちょび髭色ボケおやじ……」


 まんまだな、と、思った。



+++



 それから、半刻ほど庭先で素振りを続けていた時だった。


「…!」


 飛んできた何かを叩き落す。

 足元に、へこんだどんぐりが転がった。


「ああ、ここにいたのか」



 声の方に顔を向け、そのまま息をのんだ。


 垣根の向こうにやせぎすの男が立っている。

 腰までの長さの癖のある黒髪を緩く編み、その上に笠を乗せていた。

 背に荷を背負い、足作りも堅固で見るからに旅装である。


「おまえ…… 何しに来やがった! 性懲りもなくまた一穂様を……っ」

 半身になって身構える。

「落ち着け、今日はそういう用件ではない」

 男は琥太郎の気迫にも動じる風はなく、淡々とした口調で続けた。

「この間のあれは仕事だ。しかし、しくじったおかげでお役ごめんになってな、これからまた職探しに行くところだ」

「はっ。いい気味だ、自業自得じゃねえか。さっさとどこへでも行っちまえ!」

「行く前に一言、断りを入れておこうと思ってな」

「断りだ?」


「ああ…… 俺たちは、俺たちの邪魔をした奴を決して許さん」

 初めて笠を上げた。細い冷徹な光を宿した目で、琥太郎を静かに見据える。


「……」

「なに。今は、お前には手はださん。物事には順番というものがあるからな。だが、覚えておけ。近いうちにまた相まみえよう。それまでに、腕を磨いておくことだな。あっさり決着がついてしまってはつまらん。存分に楽しませてくれよ」

「なっ……」

 琥太郎は何かを言い返そうとしたが、その時すでに男は背を向け、垣向こうの立木の陰へと歩き始めていた。



「……ちっ」


 琥太郎は両手を見た。血の気が引いた掌に、食い込んだ爪の跡が残る。知らぬ間に思い切り握りしめていたらしい。じっとりと汗で濡れ、まだ小刻みに震えていた。


「なんて……野郎だよ。……上等じゃねえか。返り討ちにしてやらあ!」

 もとより、後悔などないのだ。

 一穂を守るために被ることなら、どんなことでも受け止めるつもりだった。





 朝靄の中、見送った父親の背中。

 それが最後の記憶だった。




 日が昇り、村が動き出して、やがて、井戸端で動かぬ見知らぬ子供を不審に思った大人たちが近づいてきた。


「すぐに戻るから」

 その言葉を信じて、一歩も動かなかった。


 しかし、中天を過ぎ、陽が傾き始めても、父親は現れない。

 互いに押しつけ合う大人たち。


 その無責任な会話の中で、たとえようもなく心細くなった時、差し出された白い手。





 その時から、一穂は琥太郎の全てになったのだ。






「よしっ」

 もう一度頭から水を被り、何でもない風を取り繕って表へと回ると、慎之介と一穂が楽しげに話していた。

「本当に、晶さまのあの嬉しそうな顔。がんばって仕立てたかいがありましたわ。若い娘さんの着物を仕立てることが楽しくて楽しくて。今までは、巫女として育てることの方が大切で、そこまで気を使ったことなどなかったから…… さあ、次はどんな生地で仕立てようかしら」

 一穂は顔を上気させており、実にうれしそうに見えた。


「……」

 一瞬にして、琥太郎の表情が不機嫌なそれに変わる。


 こんな風に、一穂が晶に夢中になっていることが、おもしろくない。



「慎之介、約束だぞ。手合わせしようぜ!」

 木刀を投げつけた。


 慎之介は宙でそれを受け止め、

「随分気が入ってるな。いつまで続くか見物だな」

 不敵に笑う。





「ちっくしょう! もう一回だ!」

「まだまだ!」

 庭先で、木刀が打ち鳴らされる。琥太郎の叫び、慎之介の叱咤。足は土を蹴り、剣は風を切る。行き交う体、途切れる息づかい。

 一刻、二刻……

 時が過ぎる。

 その間、お茂は台所仕事を黙々とこなし、善爺は風呂を沸かし、一穂は自室で針を運び続けていた。

 何度、慎之介の切っ先が琥太郎を掠めただろう。その度に、肌に薄く赤い筋が浮かび上がる。その気になれば骨に響くほど打ち据えることもできた。それを手加減でその程度に抑えているのだとわかるだけに、よけい悔しい。逆に、力任せに振り下ろした木刀が巻き起こす風圧に慎之介が身を退いても、琥太郎の木刀は慎之介にかすりもしないのだ。

 踏み込んだ瞬間、慎之介に足をすくわれ、琥太郎は地面に倒された。起きあがる前に切っ先がのど元に突きつけられる。

「これで、五度は死んだな、お前」

 慎之介がニッと笑った。


「……っ。終わらせるかっ!」

 左手で木刀を握りしめた。


 首を少し傾けて、右の首筋に木刀を滑らせながら身を起こして立ち上がる。

 そのまま右足を軸に体を回して、慎之介の背後に回った。

 勢いに乗せて木刀を振るう。

 

 慎之介の右肩。


 鈍い音がする。

 琥太郎は木刀を振りきったまま、肩で息をしながら止まっていた。

 慎之介も片膝をつき、信じられない面持ちで肩越しに琥太郎を見上げる。

「ばかな、ことをする。真剣なら、首が切れるぞ……」

「剣の峰だろ。切れても皮一枚ぐらいじゃねえ? くそ…… 今度はとったと思ったのに……」

 歯ぎしりをした。

 振り下ろした琥太郎の木刀は、咄嗟に背負った慎之介の木刀のほぼ半分までめり込んだだけに終わったのだ。

「とったも同然だな。これ以上、これでは戦えん」

 立ち上がった慎之介が軽く振っただけで、木刀は半分に折れた。

「身のこなしと力『は』、俺より上だからな」

「『は』、ってなんだよ、『は』って。でも、剣で勝てねえじゃねえか」

「当たり前だ。お前に刀の振るい方を教えたのは俺だ。その俺が簡単にお前に追い抜かされてたまるものか。立つ瀬がない」

「ふん」


 琥太郎は、山で拾ってきた松ぼっくりを懐から取り出して放り投げた。

 チン……

 微かな音を残して、慎之介の刀が鞘に収まる。

 地面に落ちた松ぼっくりは、一呼吸置いて四つに割れた。


「……見えねえもんな」

「あと一〇年は修行だな。そうすれば、俺ほどにはなれるだろう」

「……本当か? 慎之介ぐらいになれるか?」

「下手をすれば、越すかもしれんぞ。さっきも言ったが、お前の瞬発力と力は俺の比ではない。やる気次第だ」

「よしっ。やるぞっ。強くなってやる!」

 琥太郎は両拳を握りしめた。



「……なんのために?」



「え?」

「なんのために強くなる?」

 慎之介が真顔で琥太郎を見ている。

「そんなもの。一穂様を守るために決まってるじゃねえか。あんなちびデブちょび髭色ボケおやじがどんな奴を雇ったって目じゃねえぐらいに強くなって、一穂様をオレが守るんだ」

 さも当たり前のように琥太郎が答えた。


「そうか……」

 慎之介の顔に微笑が浮かんだ。


「あー暑ぃ。水浴びてこよ」

 琥太郎は手で顔を仰ぎながら井戸へ走っていく。




「誰かのために強くなる…… それなら、いいさ。強くなれ、父にも母にも恥じぬほどに。それこそ、主が俺に望んだことだ……」




「慎之介、大丈夫?」

 いつの間にか後ろに居た一穂が冷たく絞った手ぬぐいを差し出した。

「背中に痣はついたでしょうけどね、まだまだ、負けませんよ」

 手ぬぐいを受け取りながら、心配そうなまなざしにことさら明るく笑って見せる。

「そう? なら、いいのだけど」

「あいつが強くなるのは、貴女の為だそうですよ?」

「うれしいこと…… でも、まだ見つけていないからでしょうね。本当に守るべき方を」

「一穂様」

「もう、一九になったわ。姉様が遺した言葉が本当になるのかしらね」

「一穂様……」

 小柄な一穂がことさら小さく見える。


 慎之介はその細い肩に手を伸ばしたが、

「どなたか、ご在宅か!」

 案内を請う声に、寸前で留めた。


「あら、お客様?」

 まったく気づかぬ一穂が枝折り戸を振り返る。そこに半白の茶筅髷が見えた。

「ああ、忘れていましたよ。そう言えば水瀬が来ることになっていましたっけ。水瀬、ここだ、入ってこい!」

 応じて、腹の出た中年の男が勝手知ったる様子で庭へと廻ってきた。

「これはこれは、一穂様。先日はお会いできずに誠に残念にございました。相変わらずお麗しい。誘いに応じて懲りずに参上致しました」

 カラカラ笑いながらも、丁寧に挨拶をする。

水瀬順庵(みなせじゅんあん)、後で脈でも……」

「診なくていい。お前の目的はこっちだろう」

 慎之介が飲むふりをする。

「それよそれ。さすが我が友、神田慎之介、ご明察ご明察。しかし、ここを訪れし目的はもう一つある」

「なんだ?」

「例の奴を連れてきた。お前のできの悪い弟子に丁度良い弟分だぞ」

 順庵の足下で、黒毛に白の足袋をはいた犬と、そして、一回り小さな白い犬がしきりに尾を振っていた。



***



 冷たい井戸水を、また頭から被る。

 そうすることで熱が体と頭から退いて、また気合が入るのだ。


 慎之介が庵に住み着いて三年。


 琥太郎が剣の修行を始めて、三年。


 そうすることで、それまでもてあましていた自分を、剣へ向けることで解放できた。

 今はまだ直接自分の拳で闘うほうが力を発揮できるが、いつかは剣で闘いたい。

 そう、思っている。


「あと、一〇年か……」

 一〇年、修行すれば慎之介に追いつける。慎之介の剣技が卓抜していることぐらい、琥太郎にもわかる。その腕に追いつける。もしかしたら、追い越せるかもしれない。


「やってやる。誰よりも、強くなる…… オレが、守るんだ」


 どんな奴が来ても、今朝のような男からでも。

 自分に差し出された優しい手。誰にも汚されることのない様に。


 そのためなら、自分などどうなってもかまわない!


 ……そう、思うから。




 ガサッ……




 不意に庭の茂みが揺れた。

 そのまま、しんとなる。

 またあの男が戻ってきたのではないかと、一瞬身構えたが、生き物がいる気配はない。そっと近づいて覗き込む。


 あの赤い矢が落ちていた。


「あのやろ…… 練習って下手に調子づいてんじゃねえだろうな」

 舌打ちをしながら飛んできたと思われる方向を睨みつける。

 遙か上方に、社の裏手にある雑木林が視界に入る。


「……まさか、あそこから引いてんのか?」


 少し、呆れた。

 下手をすれば、治助より遠くに飛ばしているかもしれない。あんな細い腕をしているくせに、よく飛ばせるものだと思う。

「……でも、そんな広い場所あの辺りにあったか?」


「琥太郎、水瀬が来た。こっちへ来い! いいものがあるぞ!」

 首を傾げたちょうどその時、庵の方から、声がかかる。


「あ。わかった、今行く!」

 慎之介の声に、琥太郎は矢を縁側から珍しく開け放たれたままの晶の部屋へ投げ込んで、表へと回った。




「おお小猿! 元気そうではないか!」

 口調と表情とは裏腹に、順庵は拳を繰り出した。

 琥太郎は右腕で拳を払い、左の手刀で順庵ののど元を狙う。

「って、こないだ会ったばっかじゃねえか」

「まあそう言うな。腕も上がったか。ちょっかいだすのも命がけだな」

 順庵は自分の喉に触れる手刀を押し戻し、豪快に笑った。

「しかし、利き手が左というのでは、やりにくいだろう」

「そうでもねえよ、生まれつきだし。慎之介と相対してると鏡見てるみたいでかえってまねしやすい」

「そんなもんかね」

「それより今日は一体……」


「わん」


「へ?」


 琥太郎が見下ろせば、くっつき虫や枯れ草を体中につけた白い子犬が、黒い犬の傍らで舌を出し尾を千切れんばかりに打ち振って、自分を見上げていた。


(よろず)…… と、なんだ、こいつ」

 子犬を抱き上げると、琥太郎の顔をしきりになめ回す。

「わ、やめろよ。こらっ。随分人なつっこい奴だなおまえ」

「そいつは万の息子でな。どうだ?」

「どうって……」

「いるか?」

「オレに? いいのか?」

「そのために連れてきた。この万が懐いているからな、そいつなら丁度良かろうと思ったんだが」

「いる! いるって、絶対。名前は?」

「万の息子、千の弟、故に(ひゃく)だ」

「百?」

「わん!」

 呼ばれたと思ったらしい。またしきりに子犬が尾を振る。

「異常な鼻利きでな。どんなに離れていても、かぎ当てる。現に、神田の文を嗅がせたら俺より先にここに来た。狩りの供に役立つだろうさ」

「へええ。そうか。百、お前、今日からここに住むんだぞ。明日から早速山に行こうな!」

「わん!」



「水瀬様。ほんとうにありがとうございます。よい子をいただいて。あの喜びよう……」

 框に膝を折った一穂が礼を言いながら、目を細めて琥太郎を見た。


「貴女のほうが嬉しそうですが。ま、いつも良い酒とうまい料理をいただいているささやかな礼ですよ。ご遠慮なく」

「ということは、今日もそれを当てにしているということか?」

「言わずもがなではないか。一人寂しい男やもめ。手酌で飲む酒ほどわびしいものはないぞ。今夜はつきあってくれるんだろうな?」

「そのつもりだろうが」

 順庵と慎之介が揃って笑う。

「それにしても残念ですわ。ここに晶様がいらっしゃれば、水瀬様にご紹介できましたのに」

 一穂がため息と共につぶやいた。

「ほう。どなたかまた巫女となるべき娘御をお預かりになりましたか」

「いいえ。そうではありませんのよ。ただ、お世話をさせていただいているだけですの」

「では、行商人の娘ですか? 毎度のごとく、親御が商売の間預かっておくという……」


「違いますわ。琥太郎と慎之介がお助けして、身よりもあてもないというのでこちらにおいでいただいてますのよ」


「……ほう。それは奇特な」


 順庵の目が、すっと細くなった。

 慎之介がそれを見て小さくため息をつく。


「それはかわいらしい娘さんでね。とてもいい方なの。今はお社にいってらっしゃるのだけど、晩には帰ってこられると思いますから、その時にお引き合わせしますわ。水瀬様も絶対好ましく思われてよ」

 一方。一穂はそれは嬉しそうに話を続けた。


「それはそれは、お会いするのが楽しみですな」

「そうでしょうそうでしょう。本当に良い子で……」

「なんでそこまでほめるんですか……っ」

「あははは…… 拗ねるな拗ねるな。それはともかく、神田。まずはかけつけ一杯といかんか?」

 順庵が笑いながら慎之介に向き直る。

「まだ昼飯前だぞ」

 呆れたように慎之介が肩をすくめた。

「冷たい蕎麦に冷たい一杯はたまらんぞ?」

「ほほ…… では、蕎麦を早速ゆでますわね」

「いや、これはこれは、まるで催促をしてしまったようで……」

「ようもなにも、催促しているのではないか。よし、ゆであがるまで、一勝負どうだ」

「将棋か。今度は負けんぞ」

 慎之介のあとを、順庵は腕まくりをしながら着いていく。

「一穂さま、俺、手伝うよ」

「あら、ありがとう。助かるわ。それじゃあ、井戸から水を……」

「わかった! 百、来い!」

「わん!」


 そして、玄関先には、誰もいなくなった。



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