その一
+++
「…………え?」
光を放ち始めた『門』を、彼は凝視する。
まさに、「あり得ない」ことだったから。
数刻前…………
酒を飲みながら、大人たちが成人の儀を間近に控えた兄への期待で盛り上がっていた。
そこにいる誰もが、兄を称賛し、儀式の成功はもとより、過去に類を見ない成果を疑っていなかった。
そんな兄は彼の自慢でもあった。
いつか、兄のようになるのが夢だった。
だからポロッと言ったのだ。
「僕にも! 僕にもできるかな! 兄者みたいに…………っ!」
「…………はあ?」
ドッと笑いが巻き起こる。
ーーー 無理無理!
ーーー ガキがなに言ってる!
ーーー よりにもよって、あいつと同じにできるわけがねえだろ!
頭にきた。
まだまだ盛り上がっている大人たちにむかつきながら、儀式に備えて縄張りがされ、人払いがされている「門」に行く。
誰もいないから、咎められもしなかった。
「僕だって、やったらできるんだ!」
深呼吸、一つ。
舞を始めた。
兄の練習を陰からずっとみていたから、完璧だ!
だから、できる!
あの親父たちの鼻を明かしてやるんだ!
背を伸ばし、息を整え、まっすぐに門へと手を掲げる。
「来たれ、客人!」
そうしたら…………
門が、光を放ち始めた。
「え…… う、うそ。ちょ、待って……」
できると思った。
やってやると思った。
だから、やってみた。
でも。
本当にできるだなんて思っていなかった。
それほどに、兄はすごくて、自分はまだまだだと、ちゃんとわかっていたのだから。
なのに。
門が、光っている。
あり得ない光景に、離せない視線の先で、
ーー門が開いた。
そして、そこから現れた「それ」は、意外な展開に驚いて言葉もない彼の横を、駆け抜けていき、固まったまま頭を巡らすこともできず、正面を向いた彼の目の前で、ゆっくりと、門は閉じた。
「…………あ」
静かだった。
続く宴席のざわめきは聞こえてくるけれど、彼の周りは、自分が唾を飲み下す音しか聞こえなかった。
ぎぎ………… とぎこちなく、振り返る。
そこに居るのは、彼だけだ、
誰も、いない。
………… ……………………
「わーーーーーーーーっ!」
…………やってみたら、できてしまった。
+++
右手に学生鞄、背にはディパックを背負い、左手に弓を抱えて晶は必死に走っていた。
体格が小柄なので、後ろから見たら荷物だけが走っているように見えなくもない。
夏休みまっただ中、八月の早朝である。
不意に、鞄にしまう暇もなかったために、制服のポケットに突っ込んだままだったスマホが鳴った。
「な、によ……っ、もうっ。人が急いでる時に……っ ……はい? あ…… うわ、浅野っ? ご、ごめんっ。今向かってるとこ…… 寝坊したのっ。どうしても数学が一問解けなくて、寝たの三時なんだもん。……だって気になるじゃないっ。だから、こうして走ってる……。悪かったわね、たいして変わらなくって! どうせ鈍足よ、わたしはっ! わかってるって。九時までしか道場使えないくらいっ。あと二〇分待って。何とかして着くから! はいはい、わかった。じゃあねっ」
画面を消してポケットに放り込む。
「って、どう考えたって二〇分でつけるはずないんだよね~…… あ~っ、しょうがないな。近道するしかないか!」
ほぼ直角に。
走っていた道を左に折れた。
***
高校三年の夏休み後半。
受験戦争まっただ中だというのに、この期に及んで部活動の一つである弓道部の練習に、向かっている途中だった。
……夏の大会が近いから。
運動神経がないなりに一生懸命励んで、せめて結果を残したかった。
三年間。
「運動神経のないあんたには無理だ」と言われながらも続けてきたのだ。
一度でいいから入賞したい、と思う。
「いい線までいくかもな」
顧問の竹谷がそう言ってくれたけれど、そんな不確かな言葉に最後のチャンスをかけたくなんかなかった。
できるだけ時間を捻出して、できるだけたくさん練習して。
例え九割の可能性が既にあったとしても、努力で九割五分や十割にしたかった。
……なのに。
(寝坊するなんて最悪っ!!!)
自分で自分をぶん殴りたくなる。
心の中で悪態をつきながら、住宅地の外れ、重なる屋根の向こうに見える鳥居を目指す。
そして、何度か角をまがった末に、そこにたどり着いた。。
乗用車二台が止まれば一杯になりそうな小さな空き地。
その一番奥には桜の木が一本、枝を天に伸ばしていた。
その下に、かつては社があったらしいが、今はその跡が残るだけだ。
手前には本来二基あるはずの石灯籠が一基だけ、半分朽ちかけてかろうじて立ち、そのすべてを守るように、鳥居が晶の前に立ちはだかっていた。
鳥居もかつては立派なものだった、らしい。
けれど今、晶の目に映るそれは元の色が何色かもわからないほど色あせ、古ぼけ、往時の姿は見る影もない。
ここを抜けると、高校へ続く道へ出るのだ。
「……気持ち悪いから、行きたくないんだけどなぁ」
鳥居も、石灯籠も、桜の木も。
夏休みの肝試しのために存在しているとしか思えない。
近道と呼ばれる道でさえ、手入れもされず雑草に埋もれ、小学校までは近寄ってはいけないと口を酸っぱくして言われた場所だった。
……しかし、背に腹は代えられない。
本来三年になった時点で引退していなければならない晶が練習をしようと思えば、後輩たちが出てくる前の時間しか、道場を開放してもらえない。おまけに、午前中には補講があり、昼からは合気道の強化合宿がある。その上、夕方から塾が控えている身としては、弓を引くことが出来るこの時間を無駄になんか、絶対できないのだ。
ふと。
―――急に、辺りが薄暗くなる。
「……なに?」
空を見上げるとまるで三日月のような太陽がそこにある。
「あ~。そういや、皆既日食あるってこの間テレビで言ってたっけ。そっか、今日だったのか……」
スマホが鳴った。
「っと。は、はいっ!」
『晶先輩、なにしてんのっ、遅いですよっ。せっかく教えてもらえると思って早起きしてるのにっ』
「た、谷口…… ごめん、あと一〇分!」
そうだった。
のんびり太陽見てる場合なんかじゃなかった!
スマホを手に、叫びながら、鳥居に向かって突進する。
鳥居に下をくぐった瞬間。
なにかにぶつかった。
まるで、薄いガラスの板を突き抜けたような、軽い衝撃だった。
「な、なに……っ?」
まったく意図しないことに、足元がぐらつく。
自慢ではないが、晶のバランス感覚はほんとうに涙が出そうなほどになさけない。
到底、持ちこたえられるはずなんかあるわけなくて。
「ぅきゃ……っ?」
左手に弓、右手にスマホ、脇に学生カバンを挟んで、背中にディパック。
支える手段もなく思いきり。これ以上はないほど見事にずっこけた。
「った~…… なんで、急になんなのっ」
ぶつけた膝も痛いが、手にした弓の方が気に掛かる。とりあえず、なんともなさそうなことを袋の上から確かめてほっと一息。
それから改めて血が滲んだ膝を眺め、一人でぼやく。
「思いっ切り膝ぶつけたじゃないよ。それにスマホがどっかにいっちゃっ……た」
手を離れたスマホを探すつもりで辺りを見回し、固まった。
涼しい風が髪を揺らす。
穏やかな葉音が聞こえる。
鳥が、鳴いている。
「……え?」
さっきまでのアスファルトとコンクリートに跳ね返された熱気の中にいたはずなのに。
晶が当惑する間に、辺りを包んでいた薄闇が、ゆっくりと明けていく。
空を見上げる。
頭上の太陽がゆっくりと真円を取り戻す。
視界を埋める緑が鮮やかになる。
「……どこ? ここ……」
その光景に。
様々な姿の木々が適度な間隔で並んでいて。
地面には雑草がみっしりと生い茂っていて。
そして……
その果ては、見えない。
「……森?」
見るからにそうなのに、語尾が上がってしまうのはしょうがないと思って欲しい。
だって、これほど住宅地の中にあるものとしてあり得ないものはないのだから。
それでも立ち上がり、手を伸ばす。幹に触れる。そのざらついた感触は、夢でないことを晶に教える。
「うそ…… なんで?」
わけがわからない。
「いったい、どうなって……」
ほんの少しでも手がかりが欲しくて。
今の状況を説明出来るものが欲しくて。
ゆっくりと、辺りを見回した時。
ふ、と。
初めて緑以外の色が、目端を掠める。
鮮やかな丹色。
弾かれるように振り返る。
大きな。
大きな鳥居が、晶を遙か高みから、見下ろしていた。
「なに、これ…… すご……」
堂々とした太い柱、鋭い笠木。そこに掲げられる黒漆の額。そこには金泥の文字がある。
「木……霊……社?」
引き寄せられるように、一歩踏み出した。
瞬間。
「なにか動いたぞ!」
「大きい…… 逃がすなっ」
ヒュ……ッ
ヒュ……ッ
足元に何かが突き刺さる。
矢が、二本。
「……矢?」
うわわああああああ……っ
突然、歓声が沸き上がった。
鉦や太鼓の音が鳴り響く。
左の方から押しつぶすような勢いで、音が、押し寄せてくる。
「な……に……?」
その場で、その音が聞こえてくる方を見て。
その音とともに、なにかが来る。
なにか。
決して、自分には良いと思えないような、何か。
「……っ!」
反射的に荷物をかき集めて、反対へと走り出した。
「気づかれたか!」
「追え! 逃がすな!」
頬をかすめて、矢が飛び行く。
「追い込めろ!」
「治助、l殺しちゃなんねえぞ。なんとしても、庄屋様の前へ追い出すんだ」
「わかってる! まかしとけ!」
次々と矢が飛んでくる。
「や……」
必死になって逃げた。
一生懸命走っているつもりだ。
それでも、もともと運動神経なんかないに等しいから、すぐに息が切れてくる。
「だ……め……」
足が動かなくて。
胸が、焼け付くようで。
立ち止まって、しゃがみ込んだ。
声が、音が、迫ってくる。
矢が、容赦なく降ってくる。
「うわっ……」
学生カバンを頭にかざす。
軽い振動が手に伝わり、落ちた。
目の前に転がったカバンに突き刺さった矢が見える。
「……うそ」
矢にうがたれたカバン。
明らかに、破壊されたモノ。
あれが、自分だったら……
「……なんで…… どうして……」
しゃがみ込んで、頭を抱えて。
その間にも、周りの地面に次々と矢がささり、ついには一本、傍を掠めて髪留めを貫き壊す。
「……やだ…… こんなの、や…… 誰か…… 誰か助けて…… 助けてよぉっっっ!!!!!」
叫んだ。
怖くて。
怖くて。
ただ。
怖くて……!
「来いっ」
ぐい、と。
手が、引っ張られる。
「……っ。離してっ!」
反射的にふりほどこうとするが離れない。
それどころか余計にぎゅっと握られて。
引かれるがままに走り出すしかなかった。
だが当然、すぐに足がもつれてきて、体がふらつきつんのめりそうになる。
「ち…… しょうがねえっ!」
軽い舌打ちと同時に躰が浮き上がり、次の瞬間、耳元でひゅっと風が鳴った。
「……?」
その突然の感覚の変化に、力任せに閉じていた目を開いてみると、ものすごい勢いで風景が後ろへと流れていっている。
「へ……」
そのままの状態で辺りを見回して、やっと自分がどういう状況にあるのか理解する。
……肩に、担がれているらしい。
そして、担いでいる人物はそのまま走っているらしく、ついでにその速さが異常なほど速い。
このままの格好では遠ざかる景色しか見えないけれど、それでもみるみる歓声と鉦や太鼓の音が小さくなっていく。
「……すご。……ぅわ!」
思わず感心してつぶやいた瞬間、いきなり放り出されておしりをまともに地面にぶちつけた。
「ったあ…… っわ……っ?」
「頭下げてろ。また狩り出されてえのか!」
小さく、それでも鋭いささやきと共に、頭が押さえ込まれ、顔を草むらに突っ込まれる。
「……」
そう言われた途端に、あの怖さが甦ってきて、晶はその場で固まってしまった。
辺りが静まりかえる。
聞こえてくるのは、ほんの少し前に感じた葉音と、鳥の声。
そしてうるさいほどの心臓の音。
風の音。
さやさやと。
揺れる葉擦れの音……
「……もう、大丈夫か。ったく、あいつら、人と獣の区別もつかねえのかよ」
頭を押さえていた手の力が弱まった。
それでもしばらくはそのまま頭を下げたまま、今起こったことを理解しようと必死になって考える。
……だが、どうしたって無理だとすぐに悟った。
わかるわけがない。
その代わり。
ふと思いつく。
……そう言えば、助けてもらったことになるの、かな?
もしかしなくても、そうらしい。
なら、お礼を言わないと!
「あの…… どうもあり……」
頭を上げて言おうとして。
そこから、言葉を続けることができなかった。
目の前にいた人物の服装が、信じられなくて。
「……なんで、着物着てるの?」
お礼の代わりに出たのはそんな言葉。
「はあっ?」
そして返ってきたのは、それこそ意外だといわんばかりの叫び声だった。