鼻毛とひぐらしとチェット・ベイカー
鼻毛を抜いていたら、窓の外でひぐらしが鳴いた。
僕は書きかけの小説をながめてひとつため息をつき、パソコンを閉じた。
机の上に並べた鼻毛をつまみ、部屋の隅のゴミ箱に捨てる。
あちこちに脱ぎ散らかした洋服を拾い集めて、洗濯機に入れる。
それからベランダの外に出ると、生ぬるい風が吹いて、誰かがどこかでタバコを吸っているにおいがした。
ゴミゴミした都会の住宅街の低層階からでは、夕焼けは見えない。
僕は、向かいのマンションの白い壁の、夕焼けを受けてわずかに赤くなった部分を眺めながら、ずいぶん前に別れた彼女の頬を思い出した。
またひとつ、深いため息が出た。
ポケットからコードがぐちゃぐちゃに絡み合ったイヤホンを取り出し、チェット・ベイカーを聴く。
薄く流した音楽に混ざって、時々ひぐらしの声が聞こえる。
目をつむると、いつもは気づかないような、あるかなきかの風が髪を揺らすのを感じた。
忘れたいこと、忘れられないこと、忘れてほしくないこと、忘れてしまったこと……。
目を開けると、空はもう暗くなっていた。
ひぐらしはとうに鳴き止んで、タバコのにおいも、もうしなかった。
チェット・ベイカーが何曲目かを吹き終えたところでイヤホンを取り、部屋に戻った。
机の前に座り直すと、途端にアイデアが次々と湧き出してきた。
僕はパソコンを開き、ひとつ大きく息を吸って、小説の続きを打ち込み始めた。