あなたを死なせてなるものか
穏やかな朝。秋の陽射しが冷んやりとした寝室に射し込んできた。私はぼんやりとカーテンを見る。締め方が甘かったのか、日光がすり抜ける隙間が出来ている。
「ふむん?」
カーテンが揺れている。隙間から見える窓も微かに開いていた。ベッドに横たわりながら、きちんと窓が閉まっていなかったかな、と考えていた。
「アマンダ!起きてくれ!」
死角から、やたら滑舌の良い中音域の声が降ってくる。私はガバリと跳ね起きる。
「ヘンリック?ちょっと!乙女の寝室に入るとか!信じられない」
「緊急事態なんだよ。許してくれよ」
だいたい、この窓にたどり着くには、館を取り囲む魔法防壁を通らなければならない。こいつは、つい最近出禁登録されている筈だ。
この辺りは郊外で、隣家まで馬で数時間はかかる。その距離をこいつは、来る日も来る日も魔法を使って半刻程でやってくる。こいつの住む隣家との間にある丘で、幼い頃に出会った仲だ。最初はウチの家族も訪問を歓迎していた。
ところがある日、我が家の魔法道具を勝手に改造しようとして壊した。その後数年間に渡り、同じことを繰り返しているのだ。壊すばかりではないのだが、知らない機能がつけられた魔法道具で、私たち家族が酷い目に遭うことも多い。
結果、隣人ヘンリックは出禁にされた。
「なに勝手に魔法防壁解除してんの?強盗がはいったらどうしてくれんのよ!」
「解除してねぇ。通っただけだよ」
「また腕を上げたのね」
「嫌そうな顔すんな」
「嫌だもの」
「何でだよ?自慢の彼氏だろ?」
「はいはい、うちの家族に見つかっても助けないからね」
「冷たいなぁー」
はぁ、とため息をついて、私はベッドから降りる。
「うはっ、なにおまえ、まだ白ワンピタイプ着てるの?だっせ」
「うるさいなあ。彼女がダサくて嫌なら、街で人気の可愛いパジャマでも買ってくれたらいいんじゃないの?文句言うだけでさぁ」
ボサボサの金髪を手で撫でつけながら、洗面台に向かう。ドアの脇にある洗面台は、小鳥の模様がついた陶板が埋め込まれている。その上には、同じ小鳥模様の洗面器と水差しがあった。この水差しは魔法の道具だ。いつでも好きな温度の水やお湯が出てくる。洗面台正面の壁には、蔓草を模した銀のフレームで囲まれた、楕円の鏡が掛けられている。
「あ、何すんの。まだ歯も磨いてないし」
ヘンリックに後ろから抱きつかれ、キスされそうになった。
「いいでしょー」
「嫌よ。それより、緊急事態って何」
睨みつけると、ヘンリックの快活なエメラルドグリーンに私の眠そうな翡翠が溶けている。ヘンリックが、夢から醒めたように甘さを振り払った。
「あ、それ。ネッドが自殺してる」
「ん?してる?してるって、いま?」
「そうだよ!顔洗おうとしたら、水鏡に映った」
「呑気に抱きついてる場合じゃないでしょ!」
「ごめん、つい」
やっとヘンリックが離れたので、手早く身支度をする。
「外で待ってて。すぐ出るから」
「後ろ向いてるから着替えちまえよ」
「その後どうすんの?私は玄関から出るけど?」
「分かったよ。仕方ねぇな。急げよ?」
不機嫌そうだな。しかし私には、怒られる筋合いがない。
「はあ?偉そうに、なんなの?」
「悪かったよ。ごめんて。お願いします」
「大人しく待ってなさい」
「はぁい」
ヘンリックが窓から出てゆく。シンプルな白と茶の縞模様が並ぶドレスに着替えると、朝食室に書き置きを残す。寝静まった館の中から、私は早朝の田舎道へと飛び出した。門の外には、黒いマント姿のヘンリックが立っていた。
「行くぞ」
「うん」
ヘンリックに手を引かれ、風を切って走る。魔法で加速しているのだ。風景が線になって後ろへと流れてゆく。目の前にはやや伸びたブリュネットの後ろ頭がある。
「寒い、寒い、寒い!」
「舌噛むぞ!口閉じろ」
どうしてこう、こいつは横暴なのか。舌は噛みたくないので、黙っておく。後で文句言おう。
ヘンリックは、走りながらマントを脱いで着せ掛けてくれた。文句を言うのはやめた。
程なく小さな田舎屋に付く。絵の具の匂いがしている。ヘンリックの親友、絵描きのネッドの家だ。鄙びた小屋だが、貴族のお抱え絵師なのだとか。ヘンリックと訪ねてゆくと、たまにスケッチを見せてくれる。私は芸術がわからないので、上手だな、としか思わないのだが。
「ネッド!」
ヘンリックが魔法で勝手に鍵を開けた。私たちはネッドの家に飛び込む。椅子がひっくり返っていて、ネッドはその脇に倒れている。大柄なネッドは、奇妙な格好で窮屈そうに床の上で横たわっていた。
「どう?アマンダ?助かるかな?」
「痛くてか、自分の血を見てか、気絶してるわね」
「気絶?なら助かるのか?」
「まあ見てらっしゃいな」
私は集中する。魔法で止血しながらナイフを抜いた。胸とお腹の間ぐらいに浅く刺さっている。ネッドが怖がりだったのが幸いしたのだと思われる。倒れ方が良かったのか、床にぶつかる弾みで刃が深く押し込まれることもなく、軽傷だ。
2人がかりで掃除も魔法で終える。一通り部屋が整うと、ヘンリックがネッドを椅子に座らせて起こす。
「ネッド、起きて下さーい」
「ふがっ」
自殺未遂の男が目を覚ます。
「何があったんだよ」
「ヘンリック!余計なことすんな。死なせろ」
「どうしたんだよ、ネッド」
ネッドは刃物を探して立ち上がる。ヘンリックが椅子に戻して押さえつけた。
「話だけでも聞かせてくれ」
「手を放せ」
「落ち着けよ」
「落ち着けるか!」
部屋を見回すと、テーブルの上に貴金属店の箱が置かれていた。ネッドはお洒落をしている。なんとなく察した。
「ああ」
私の目線に気づいてヘンリックは一言漏らし、少し疲れた顔をした。
「だからやめとけって言ったのに」
「リチカの悪口を言うな」
「自殺なんかしても、お前が悪口言われるだけだぞ」
「リチカはそんなことしない」
「あの手はな、利用したり追い詰めたりした挙句、勝手に死んで迷惑とか気持ち悪いとかほざくんだよ」
「うるさい!死なせろ」
ネッドが椅子をガタガタさせる。
「旨いものでも食いに行こうぜ」
「いらない」
まるで埒があかない。
「ねえ、リチカって人と何があったの?」
「君には関係ない」
ネッドが拒絶する。帰ろうかな。
「おい!アマンダに謝れ」
「生き返らせるなんて迷惑なんだよ」
そのリチカとか言う奴と同類か。
「ヘンリック、こんなのとなんで友達なの」
「最低な女だな」
「貴様!」
ヘンリックが怒ってくれたので、まあよしとする。
「思わせぶりされて、告白したら笑われたとか?」
「そんな人じゃないっ」
「お前が立ち去ったあとで、告白キモチワルイとか酒の肴にされてるよ」
「人気画家なんでしょ?才能あるのにモテないの?」
「ヘンリック、コイツ追い出せよ」
「早朝から巻き込まれてんだ。アマンダには、理由くらい聞く権利はある」
「話すか!」
私を拒絶したいあまりに、自殺願望は無くなったみたいだ。
「お腹すいたから帰るー」
私は片手を上げて入り口へと向かう。途中で立ち止まって、ヘンリックが着せてくれたマントを脱いだ。
「あ、マント返すね。ありがとう」
「ネッド、朝飯に行くぞ!」
ヘンリックは私にまたマントを着せると、ネッドの手を引いて外に連れ出した。私も帰るためにドアを出る。
「アマンダ、奢るから、一緒に来てくれよ」
「何でよ?拒絶されてるんですけど」
「ネッド、ちゃんと謝れ」
「何でだよ。お節介女なんかに」
「俺が頼んだんだよ!無理に連れてきたんだ」
ネッドは、気まずそうな顔をした。私が自殺を聞きつけて、出しゃばって来たかと憎んでいたみたい。思い込みで暴走するタイプだったのか。そんな風には見えなかったのに。
「巻き込んじまったのか。悪かったな」
「ヘンリックが言いに来なきゃ、こんな早朝に自殺しかけてることなんか分かるはずないでしょう」
「そりゃまあ、そうだな。悪かった」
私はため息をつく。
「ネッド、お前、落ち着いて考えてから行動しろよ」
「そうだな」
「そんなんでよく、貴族の注文こなせるなぁ」
「仕事だからな」
客の注文はちゃんと聞くらしい。プライベート難ありな男か。ヘンリックは、なんだかんだ優しいのである。この様子だと、いろいろ暴走する度にヘンリックが面倒を見て来たに違いない。親友と言うくらいだから、ヘンリックも何かしらは世話になっているのだろうが。
「家に朝食いらないって言わなきゃ」
書き置きでは、怪我人救助に出かけるとだけ伝えた。朝食は準備してくれている筈だ。
「ごめんな」
「いいわよ。家族も慣れてるしね」
「代金はちゃんと払う」
「当たり前でしょ」
ネッドはヘンリックの親友だが、私とは親しくない。それどころか、今朝は暴言を吐かれた。正規料金で構わないと思う。ヘンリックが肩を抱き寄せて来た。ネッドはすっかり落ち着いたので、掴んでいた手は放している。私たちは、ネッドの田舎屋がある森を出た。
ヘンリックの魔法を使えば、馬に乗っても数時間はかかる首都までひとっ飛びである。町外れまで何の問題もなく行って、近頃人気の食堂に入った。
朝食セットの注文をした後で、ヘンリックが蒸し返す。
「そんで、結局何があったんだよ」
そっとしておけばいいのに。
「昨日リチカにプロポーズしようとしたんだ」
「うん」
「婚約の贈り物には、奮発して最高級の防御ネックレスを買ったんだ」
「無理したんだな」
「まあな」
ネッドは照れと自慢を混ぜて頷く。
「セントラルレストランを予約してさ」
「そりゃまた張り込んだな」
「ああ」
ネッドは上機嫌だ。
「それで、最初は雑談して」
「うん」
なんだ、暴走するばかりじゃないのか。
「そろそろ切り出すかな、って辺りでさ」
急に辛そうな顔をした。ヘンリックの口ぶりだとリチカは性悪だ。プロポーズを察知して、男でも呼んでおいたのか?
「ミルド公レジナルド王子殿下が通りかかって」
呼んでおいたんだな。
「結婚が決まったって言われた」
「そいつぁ」
「後のことはあんまり覚えてない。気づいたら朝で」
「うん」
「生きていかれないと思ったんだ」
「残される身にもなってみろよ」
「ああ、ごめん。反省した」
しかし、第三王子か。また微妙なとこ狙ってくるな。レジナルド殿下は中央の権力闘争から離れて、結婚したら田舎の領地ミルド地方に引っ込む予定の王子様だ。めんどくさい政争の中心は避けて、富と名声だけ手に入れるのか。リチカという女はやり手である。
「アマンダに礼を言えよ?料金は俺が出すから」
「悪かったよ」
それはお礼ではない。結局、助かったことは嬉しくなさそうだ。
ヘンリックお気に入りの朝食セットが三つ運ばれて来た。ネッドは一人暮らしなのでまだ分かるのだが、実家暮らしのヘンリックが外で朝を済ませるのは不思議だ。しかも、普通なら家から馬で半日以上かかりそうな首都までやって来て。ヘンリックの魔法でも、1時間はかかる場所だ。
ヘンリックの所属は国王陛下直属の魔法技師団だ。本部はこの首都にある。しかし、ヘンリックは飛び抜けた実力を誇る。なんだかんだ我儘を通して、滅多に出勤していない筈。ここで朝食を楽しんだ後は、涼しい顔で田舎の丘にある実家へと帰宅してしまう。
「アマンダ、そんな顔してないで、食べてみろよ」
「確かに美味しそうだけど」
木製の素朴なプレートは長方形である。分厚く切った硬めのパンが2切れ、長方形の角からはみ出すように載っていた。焼きたてらしく、湯気が立っている。
その下には小さな素焼きのボウルに、ハーブバターを詰めたものが置かれる。白木のバターナイフは飾り気がなく扱いやすい。ハーブバターの脇にはスライスしたレバーパテと、花の形に整えた3色のジャムが飾られている。
ジャムはレモン、スグリ、イチゴである。それからチーズが2種類。白黴で覆われた柔らかいものと、赤みが強いオレンジ色をしたハードタイプである。どちらも癖がなく、男女共に人気なのだそうだ。
炙った大きな腸詰が、プレートの中央で存在感を見せている。この店自慢の血入りヴルストという物だ。血というとびっくりするが、匂いはスパイスに包まれて食欲を唆る。
腸詰めにナイフを入れればジュワッと肉汁が溢れ、ふわりと美味しそうな湯気が鼻腔をくすぐる。隣に並ぶカリカリの塩漬け肉が、スパイスの効いた肉汁に浸された。
塩漬け肉の油と塩が流れて、たっぷりと盛られた新鮮な生野菜に風味を添える。緑も赤も濃淡を見せて目に鮮やかだ。粗く潰したゆで卵が、黄色い小花のように野菜の山を彩っていた。卵には塩胡椒と木の実油で軽く味が付いている。
腸詰めの血は煮凝りを千切ったような形状で、粗挽きの肉に散りばめられていた。ざらざらとした肉の中で、血の食感はふにゃりと優しく舌に溶ける。味もスパイスと合わさって、力強く主張してくる。だが、臭みも少なく美味である。なかなかの演出だ。
セットの飲み物は搾りたての果汁である。これは、毎朝違うのだそうだ。季節の果物を安く仕入れて、ふんだんに使うのだという。本日は白っぽい仕上がりだ。酸味と甘味が程よくブレンドされていて、腸詰めやベーコンの濃厚な味を爽やかに洗ってくれる。
ここは町外れの宿屋である。一階部分の食堂を、宿泊客以外にも開放したら大当たりだったとのことだ。ほど近い森を眺めて、気心の知れた仲間や恋人同士が美味しい朝食を堪能する。確かに、休日の始まりにはいいかも知れない。
だが仕事の前に食べるにしては、豪華すぎる。労働者階級の我々は、パンと水、獣脂と塩が通常の朝食だ。ジャムや果汁があれば贅沢である。また有閑階級の朝食は豪華ではあるが、家で遅めに摂るのが普通である。朝から身なりを整えて外出などしない。
「ずいぶんと混んでるけど、どういう人達が来てるの?」
「町の裕福な商人や、俺みたいな王宮の魔法職員が殆どみたいだよ」
「商家や魔法職の方々は、朝からお元気なのねえ」
「しっかり食べて、気分も上げれば、仕事に精も出るってもんさ」
「そんなものなのね」
「そういうもんさ。無茶なお達しにも苛々せずに過ごせるんだよ」
「ふうん」
ヘンリック、出勤しないくせに。仕事の依頼主は国王陛下限定なので、無茶なお達しはありそうだ。あったとしても、気にも留めない男である。自分のペースで生きている。そこが良いんだけど、そこが嫌でもある。
白けた目で見る私を愛おしそうに眺めながら、ヘンリックはパンに手を伸ばす。やや歯並びの悪い口でパンを噛み切ると、パリッと香ばしい音がした。ハーブバターの上にベーコンも載せている。私も真似してベーコンを載せた。
朝からお腹が膨れて、幸せな気分になった。これで眠くならないのには感心する。
「アマンダ、ありがとうな。迷惑かけた」
帰り際、ヘンリックが改めて謝罪してくれた。
「仕事ですから」
「ネッド、お前もちゃんと感謝しろよ!」
「え、いい。大丈夫。仕事だから」
無理矢理に感謝してもらっても、嫌な感じが残るだけだ。ネッドは不承不承頭を下げる。やっぱり迷惑だったみたい。
「ごめんな。アマンダ。夕方会える?」
「会える」
「良かった。迎えに行くな」
「うん」
出禁なんだけどね。まあ、嫌われているのではなくて、家の中の魔法道具をいじられるから出禁なので。外で会う分には禁止されていないのである。ヘンリックの家とは家族ぐるみの付き合いだから、敵対も特にしていない。私たちが恋人関係にあることも、両家公認であった。
「アマンダ!」
夕方、約束通りに迎えにきたヘンリックは、土気色の顔をしていた。門の外で待つ間も惜しんで、今回も窓から来た。お得意の水鏡で居場所を特定してから訪れたのだろう。この様子だと、もしも私が家族と過ごしていても、飛び込んで来たに違いない。
「また誰か死にかけてる?」
私のほうは、個人経営ではあるが救急魔法の専門家なので、そういう現場には慣れている。
「ネッドが!ネッドが!」
私は思わず眉を寄せる。
「また自殺未遂?」
「違う!襲われたんだ!」
「あんな高級品をむき出しでテーブルに出しとくから」
正確には箱に入ってはいたが、婚約記念品仕様の高級貴金属ケースである。絵の依頼に訪れた人や画材の納品に来た配達員が、出来心を起こしてもおかしくはない。
「それも違う!とにかく来てくれ!頼む」
「盗まれてないの?」
「盗まれてない。あいつの絵も、金も、あの高級ネックレスも、何にも失くなってないんだ」
「ああ、もう」
私は部屋の扉を開ける。
「事件らしいから、出て来る!今日帰れるかわかんない!」
家中に響くように拡声装置を使って喚く。
「えっ、アマンダ。そんな大声出さなくても。その小型放送装置なら各部屋に」
「はっ?」
「いや、伝わるように、改造、ごめんなさい」
ともあれ、状況は家族や下働きの人に伝えた。私の仕事柄、暴漢や強盗の襲撃現場に急行することも多々ある。そういう時には、傷の状況や処置の内容を公権に報告しなければならない。加えて今回は、朝の自殺騒動がある。ネッドの横恋慕相手は第三王子殿下の婚約内定者だ。ヘンリック共々、供述を求められるだろう。
犯人も目的も分からないが、とにかく私も巻き込まれている。一刻も早く治療を施し、ネッドの証言を得なければ。いや、むしろ聞かないほうがいいのか?ネッドが話し始めたらお暇したいところだ。叶うかどうかは未知数だが。
「ネッド!」
早馬でも我が家から数時間は離れている首都の、薄暗い裏路地で大柄な男が倒れていた。人気のないその暗がりに到着するなり、ヘンリックは駆け寄った。
「待って!触っちゃダメ!巡回騎士を呼んできて!」
「でも」
「私には救護資格あること、忘れた?」
「アマンダ!ごめん、頼む。気をつけてよ?変なやつ来たら大通りに逃げるんだよ?」
「そっちの心配はいいから!」
ヘンリック作の防護魔法が込められた道具や、逃走秘密道具も装備させられている。過保護な魔法技師彼氏の最高級非売品でガチガチに固められている為、かすり傷の不安すらない。
「早く巡回騎士呼んできて」
「わかった」
尚も心配そうに瞳を翳らせ振り返りつつ、ヘンリックは大通りに駆け出してゆく。
「さて、兎に角治しますか」
ネッドにはまだ、息がある。というか、致命傷ではない。側頭部を横から殴られた形跡があった。手首には青あざが出来ている。路地に引き摺り込まれて殴られたのだろうか。
外出先での出来事なので、アトリエ兼自宅にある絵や貴金属が無事なのは道理だ。だが、金も盗まれていないというからには、強盗ではなさそうだ。
「リチカとやらに追い縋って、第三王子殿下の護衛にでもやられたのかしらね」
応急処置をしながら、ひとりごちる。程なく慌ただしい足音が聞こえ、野次馬のざわめきも届く。
「アマンダ!ああ、よかった、無事だ」
ヘンリックは巡回騎士の制止を振り切り、私に飛びついてきた。焦燥の面持ちでしっかりと抱きしめてくる。
「ヘンリック、治療出来ないから放して」
「ああっ、ごめん」
ヘンリックは慌てて立ち上がり、下がる。
「あ、騎士様、私、こういうものです」
片手で治療を行いつつ、首に下げた救護魔法専門家の資格証明札を胸元から取り出す。緑と青の縞模様の透明なクリスタルを、親指の爪ほどの板状に成型したペンダントである。表面には偽造不可能な刻印魔法で名前が刻まれていた。
ヘンリックをチラリと騎士が見た。ヘンリックは新進気鋭の魔法技師である。国王陛下専属の研究チームに所属しているのだ。その彼が大切にしている女性であると、先ほどわかってしまった。
ヘンリックなら、これの偽造も可能かもしれない。それ程までに、ヘンリックの名声は首都に轟いていた。
「本物ですよ」
私は不機嫌を意図的に伝え、治療を続ける。
「え?何?」
傷は治った。血も拭った。だが目覚めない。絵描きのネッドには魔法の力、即ち魔力が無いはずだった。だか、傷口から感じられた微量の魔力が取り除けず、意識が戻らないのだ。
「救急搬送班はまだですか?」
騎士様に聞く声には、不安が滲んでしまう。
「もうすぐ到着する筈です。ご協力ありがとうございました」
「いえ、意識が戻らないので、もう少し」
「後は救急搬送先で処置致しますので。あなた方は、すこし巡回員詰所でお話を伺っても?」
同意しか許されない質問に、私とヘンリックは頷くよりほかなかった。
「それでは、貴女は何もご覧になっておられない?」
詰所の狭い個室で、粗末な木のテーブルを挟んで騎士2人と対面で問答する。
「ええ」
「何でも構いません。画家のネッド氏についてご存知のことをお話し下さい」
「あまり知らないんです。有名な絵描きさんというくらいしか」
「ふむ。あなたは、ドーン伯の御令息・スカイウッド子爵・魔法技師ヘンリック・デレク・クリークスの恋人のようですが」
「え?ええ、はい、まあ」
唐突に関係ない質問が来た。
「スカイウッド子爵は、画家ネッド氏と懇意だとか?」
ちょっと待て?何を聞く気だ?
「今朝、アリーバード・インに行きましたか?」
おい、私、容疑者なの?それともヘンリック?アーリーバード・インは、朝食で有名な宿屋件食堂である。首都の町外れに位置している。
「はい」
「行った」
質問した騎士はしたり顔で頷いた。もう1人の騎士は記録用紙に何事か記入する。
「誰と行きましたか?」
「ヘンリックと、ネッドと、3人で行きました」
「うむ」
うむじゃあない。とんでもない誤解をしているでしょう?
「その時、何を話しましたか?」
「ネッドが振られた話です」
「振られた?誰にです?」
騎士は意地悪な笑みで問いかける。やはり、ネッドが私に言い寄って振られ、ヘンリックに殴られたとでも思ってるな。
「リチカという人にです」
「えっ?」
騎士が間抜けな顔をした。
「リチカ?誰です、それは」
「第三王子殿下の婚約内定者ですよ」
「何?」
騎士たちは顔を見合わせる。1人が慌てて部屋を出て、すぐに戻って来た。
「発表前の情報ですが?」
席に着くなり、戻って来た騎士が言った。
「ネッドがリチカにプロポーズしようとして、その場に第三王子殿下が現れた上に婚約宣言されたんですって」
「どこで」
「セントラルレストランだそうですよ」
「いつ」
「昨日です」
騎士はまた顔を見合わせる。
「今日はお帰り頂いてけっこうですが、明日またお越しください」
まだ何かあるの?もう知ってること無いんだけど?
「分かりました。それより、ネッドの意識は戻ったんですか?」
「どうぞ、お引き取りください」
返答拒否だ。嫌な雰囲気だな。
詰所建物の外で、ヘンリックが待っていた。
「アマンダ!君も終わったんだね」
ヘンリックは即座に抱きしめてくれた。ヘンリックの腕の中は安心する。不快な気持ちが和らいだ。
「ネッドは目が覚めたかしら?」
ヘンリックは私の手を取って、無言で町の外に出た。日暮の森で、魔法の灯りを灯す。暖かなオレンジ色の光が小さな流れを浮かび上がらせた。巣に帰る鳥が囀り交わしている。小動物が枯葉を踏む音が聞こえる。小川の水は休みなく楽しげな音を立てている。
川面を覗き込んだヘンリックは、水鏡の魔法を使っているのだろう。私には何も見えない。
「まだ起きてない」
ヘンリックが辛そうに告げた。
「ねえ、犯人、捕まるかしら?」
相手が王族関係者となれば、有耶無耶にされてしまうだろう。
「どうだろう。傷口に残った魔力に覚えは?」
「無いわ」
私なら、犯人に会えば魔力から特定出来る。だが、王族関係者となると、会うことすら難しいだろう。それどころか、特定したと分かれば殺されるかもしれない。
「ねえ、ヘンリック」
「何、アマンダ?」
「ネッドが襲われてる所は水鏡で観たの?」
「見た。騎士団にも話したよ」
「手掛かりは無いのね」
「そうなんだ。特徴の無い安物の兜で顔を隠した下級兵士だった」
中身が本当に下級兵士とは限らないのでは?
「安物なら、誰でも買えるのかしら?」
「買えるね。許可証が必要なのは支給品と魔法加工が施されている高級品だけだ」
「だったら、下級兵士じゃないかも?」
「棒切れで殴りかかった動作が、訓練された我が国の兵士そのものだったんだよ」
ヘンリックは顎に手を当てて考えながら言葉を紡ぐ。
「一般人じゃなくても、逆に騎士階級がわざと下級兵士に化けてたってことも、あるんじゃないかしら?」
「それはあるかもしれない。俺、武術は詳しくないからなあ」
「さっきは、訓練された我が国の兵士そのものとか言ってたじゃないの」
「こう、ヒュッてさ。俺とかネッドじゃ、あんなに早く棒切れを振れない」
「うーん。ただの力持ちかも知れないし」
「構えみたいなの、していたんだよ。狙い澄ました感じでさ」
「普通の人っぽくはなかったのね?」
「うん」
ひとまず、これ以上の追及は無意味だ。私たちには武術の心得がない。
「何でネッドを覗いたの?」
ネッドはあの後、リチカに会いに行こうとでもしていたんだろうか。
「心配でさ。落ち着いてるようには見えたけど、1人になったらまた自殺未遂起こすかもしれないと思って。何度も確認してたんだ」
親友だからね。心配にもなるでしょう。
「ネッドも何も見てないといいわね」
「何で?」
ヘンリックは変なところで鈍い。
「万が一、犯人の顔を見てしまって、それがリチカの関係者だったら拙いんじゃないの」
敢えてリチカの関係者、と言っておく。リチカはミルド公レジナルド第三王子殿下の婚約内定者である。リチカの関係者なら、第三王子殿下とも関わりがあると言える。
「そうか、そうだよな」
ヘンリックにも伝わった。暗い顔をさせてしまう。
「ヘンリック」
ヘンリックはネッドの親友である。ネッドが目覚めなかったら。目が覚めても口封じでもされたなら、ヘンリックの心には大きな傷が残るだろう。
「ネッド、死なせないわよ」
「アマンダ?」
「ねえ、病室解る?」
「え?うん」
「ヘンリックなら入れるわよね?」
「ああ、うん」
国王陛下の寝室だろうが、今のヘンリックが入れない所はなさそうだ。しかも、痕跡を残さず。
「アマンダ?危ないことはやめろよ?」
「ネッド、わざと目覚めさせて貰えないかもしれないわよ」
「まさか、そこまでは」
「もしもネッドがリチカに付き纏ってたら?」
「怖いこと言うなよ」
そういえば、リチカは性悪のようだった。他にもネッドみたいな立場の男がいるのでは無いか。
「リチカが利用してた男たち、他の人はどうしてるかしら?水鏡で分かる?」
「ごめん、水鏡は知ってる人しか映せないんだ」
「そうなの」
「なあ、ネッドは大丈夫なんだよな?」
「そうね。命に別状はないわ」
「だったら、騎士団に任せておこうぜ」
ヘンリックが珍しく弱気である。
「明日、詰所に行った時に様子を聞いてみようよ」
「そうねえ」
私としては、騎士団より先に情報を得て置きたいのだが。第三王子殿下の婚約内定者に付き纏ったくらいで、殺されはしないだろう。だが、暴漢の顔を覚えていて、それが王族関係者だったなら?口封じをされる可能性だってある。
ネッドは少々短絡的だ。思い出したら、聞かれるままに答えてしまってもおかしくはない。
「アマンダ」
「何よ」
「ネッドに黙っとけって言うつもりか?」
「まあね」
「救急搬送先なんだけどさ」
嫌な予感がする。
「1人部屋で騎士が見張ってるんだ」
「有名とはいえ、ただの画家に個室看護で騎士が見張り?」
「変だよな」
「やっぱり、行きずりの暴漢じゃないのね?」
「騎士団は何か掴んだんだろうな」
ヘンリックはグッと唇に力を入れると、再び話し出す。
「水鏡に映った時にさ」
「ええ」
「ネッドが暴漢の顔を、目覆いの隙間からじっと見てる気がしたんだ」
安物の兜は、目覆いの隙間が大きいのだ。目だけとはいえ、印象は残るだろう。ましてネッドは、実力のある画家である。個人特定ができてしまう事態すら想像に難く無い。
「救急搬送先で、魔力が特定されたのかしら」
「そうかもな」
「目覚めて証言も取れれば、犯人が確定するわね」
大袈裟な警護からみて、ゆきずりの線は消えた。騎士による警護は、ネッドを守るためではなさそう。わざと警護を強化して、襲撃者に息の根を止めに来るリスクを犯させないよう牽制していると考えられる。
ネッドが起きて証言したとしても、裏路地での出来事だ。ヘンリックの水鏡によれば、目撃者もいない。犯人が王族関係者なら、どうとでも言い逃れができる。画家の戯言、思い過ごしで丸め込める。
ネッドは第三王子の婚約内定者に横恋慕して振られた立場だ。有名で金持ちの画家なら、暴漢に襲われることもあるだろう。関係のない事件を、失恋の恨みから第三王子の罪だと言い張っている、として処理されても文句は言えない。
だが、病院は別だ。人が忙しく行き交う救急病院には、患者の急変に対応する為の監視記録装置が設置されている。姿と音に加えて魔力まで特定できる優れもの。開発者は、ヘンリックである。
第三王子の関係者が下手な真似をすれば、実行犯を捕まえざるを得ない。ネッドの搬送された救急病院には、第三王子を警戒する一派も務めているのだ。
王宮には幾つかの派閥があって、常に相手の失脚を狙っている。第三王子は継承権争いには加わっていない。だが、継承権を放棄したところで、安心は出来ない。他の王族が失脚してパワーバランスが崩壊すれば、新たな勢力が第三王子を無理にでも復権させるだろう。継承権を戻す手立ては幾らでもある。
第三王子の関係者が、痴情のもつれから一般人を襲撃したとなれば、大スキャンダルである。継承権復活などということが起きる前に潰しておけるのだ。自陣に不利なことは、抜かりなく取り除いておきたいのが人情というもの。その危険を防ぐため、騎士がネッドの病室を監視している。
巡回騎士団は政治的に中立の立場だ。そして、犯罪を未然に防ぐことを旨としている。パワーゲームで殺人が起きたり、それを利用してバランスが崩れるのは好ましくない。ひとたびバランスが崩れてしまえば、殺し合いが激化するに違いない。
「ねえ、やっぱりネッドに釘刺しとかない?」
「いや、証言しちゃったとしても、病室への襲撃がなければ有耶無耶には出来るだろ」
犯人が見逃されるのは悔しい。だが、首都が荒れるトリガーとなるよりはマシである。とはいえ、リチカに付き纏い続ければ、同じことが繰り返されるかも知れない。
「退院したら、リチカをすっぱり忘れるように説得してみるよ」
「独りにしとくと馬鹿なことしでかさないかしら?」
「そうだなあ」
ヘンリックは顔を顰めた。
「ネッドは偏屈なとこあるから。家に来てもらうのも、俺が泊まり込むのも嫌がると思うんだよ」
「独りになりたい時なのは、分からないでもないけど」
「危う過ぎるよなあ」
水鏡で注意して見ているのにも限度がある。
「困った」
ヘンリックが泣きそうな顔をする。私は爪先立ちになってヘンリックのブリュネットを撫でてあげた。ヘンリックは無言で私のツヤのない金髪に顔を埋めた。
翌日の取調べは型式的で、たいした質問もされず終了となった。ネッドは救急病院から一般魔法病院へと移された。まだ目覚めないが、魔力除去の措置を受けたので、数日以内には日常生活に戻れると告げられた。
ネッドの親戚は遠方にいる。身元引受人は、親友のヘンリックだ。公的に認められたので、病状も知らされることになった。継承権絡みなので、当初は秘密にされる予定だった。しかし巡回騎士団は、ヘンリックが病院に侵入したり魔法セキュリティシステムを弄ったりする可能性を考えた。そのほうが遥かに厄介なのである。
「身元引受人の書類にな、退院後も見張ってろみたいな条項があった」
「普通は無い項目?」
「知らない。でも、無さそうじゃね?」
「事件が解決してないからかしら」
「それもありそうだよな」
長い目でみると、この事件が解決することは無い。表面上でさえ、行きずりの犯行として犯人不明のまま処理されるだろう。実際には、第三王子殿下の血筋が続く限り終わらないのだ。ネッドの身の危険は死ぬまで続く。親友であり、水鏡で事件を目撃したヘンリックにも危険はつきまとう。
「アマンダ、とんでもない事件に巻き込んじまったな」
森の倒木に腰掛けて、ヘンリックがしょげている。斜めに倒れて苔むした幹に並んで座る。私が上の方にいて、ヘンリックに腰を抱かれていた。
出会った頃から変わらず、甘えん坊な面は滅多に見せない恋人である。今は肩を落として、力なく私にもたれかかっているのだ。不謹慎だが慰めを求められて嬉しく思う。
ヘンリックの出した結論はどっちだろう。現時点では、私は殆ど何も知らないことになっている。シラを切り通せば良いというものではないが。少なくとも、今、当事者たちと縁を切れば、新たな危険を抱え込む確率は下がる。
「なあ、これからはもっと近くで守らせてくれないかな」
そっちで来たか。
どうしようかな。
「夫として、一生守りたいんだけど。ダメかな」
求婚なんていう人生最大の見せ場に、いつもの覇気が無い。ちょっと考えてしまう。
「そうねえ」
「頼むよ」
「少し考えさせて」
「こんなことで決断されても良い気はしないだろうけど」
求婚のきっかけが事件だとなれば、期が熟した愛情よりも不安や責任感に後押しされた言葉だと思われてしまう。それがヘンリックには不安なのだ。
「そうじゃないのよ」
「俺じゃ頼りない?」
エメラルドの瞳が臆病に揺れる。胸が痛む。痛むが、やはり即決は出来ない。
「待てない?」
待てない奴は信用できない。こいつはいつも強引だしな。
「待てるよ!」
私の気持ちを察したようだ。
「いつまでも。いつまでだって待つけど」
「けど?」
「気持ちが決まるまで離れるとかは無しだぜ?」
私は思わず笑ってしまった。
「何だよ」
ヘンリックが口を尖らせる。
「ふふふっ、可愛いわね」
「馬鹿にすんなよー」
「馬鹿にしてないわよ」
拗ねたように皺を寄せたヘンリックの額に、私はそっと唇を触れる。ヘンリックはにっこり笑うと身体を少し真っ直ぐにした。
「アマンダ」
「何よ?」
「愛しています」
「やあね、改まって」
「気持ちが決まるまで、待つからね」
「それはもう聞いた」
「アマンダも俺を愛してるでしょ?」
ヘンリックは元気を取り戻していた。腰に回した腕に力が籠り、上目遣いに甘く見つめてくる。
「そうね。でも、夫婦になるかどうかは、まだ決められないのよ」
「色良い返事を期待してるよ?」
「あんまり押して来ないでよね」
「わかったよ。つれないなあ」
とうとうヘンリックも声を立てて笑った。
目の前にいる愛しい男は、掛け値なしの天才だ。この人に守られていれば、宮廷の魑魅魍魎たちを相手取っても生き残れるだろう。その点は疑いの余地がない。出会ったその日から日々魔法の腕を上げた原動力は、私への募る想いに他ならないのだ。全力で守ってくれると確信している。
その為に弱気になって、自分の命さえ投げ出さなければ良いのだけれど。
「アマンダ!」
「なあに、ヘンリック」
ヘンリックはもう言葉を紡がず、器用な長い指を私の髪に差し入れる。熱烈な愛の瞳に囚われて、厄介な事件のことに霞がかかった。
まあ、なるようになるだろう。私も救急救命の魔法技術に磨きをかけることにした。夢中で口付けてくるヘンリックに応えながら、私は揺るがぬ決意を固める。
たとえ玉座が血の海に沈もうとも。あなたの傷は私が治す。死神の鎌に狙われても。あなたの命は私がこの手で繋ぎとめてみせる。
あなたを死なせてなるものか。
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