お嬢様はメイドに名前を与える
エルシア・ディルバックは、ディルバック公爵家の令嬢である。
未だ幼いながらも視野が広く、見えるものをしっかりと見て考えることのできるまさに上に立つ者としての才覚に満ち溢れた聡明な女の子。
利権と私欲の温床たる貴族社会に生まれた聖女と呼ぶに相応しい令嬢たる彼女は今まさに困惑の極みに対面していた。
「本当に大丈夫かしら」
数日前に自分が拾ってきた同年代の女の子がいる。
今この国が置かれている悲惨な現実。その縮図ともいえる地獄のような環境の中で、飢えと痛み以外の経験を知らないあの子が、いきなり自分の使用人になりたいとか言い出した。
昨日まではあれだけ怯え、震え、泣いていたのに。
どうしてかあの子はまるで人が変わったかのように自分というものを明確に示していた。
いや、最初、自分の部屋に飛び込んできたときは昨日までの彼女と同じだった。
ただ昨日までとは違って、自分の胸の中でひとしきり泣いた後に彼女の眼には強い覚悟のようなものが宿っていた。
何があったのかは分からない。
分からないけどあの子がそうしたいと望むのならば自分はそうさせてあげたいと思う。
ただ、本音を言うともう少し療養をした方がいいのではないかとも思うが、そうすることであの子が今までのことを少しでも忘れられるのならば、そうさせてあげるべきなのだろう。
そうして自分はあの子の希望の通りに父に使用人の話を通した。
父も自分と同じ考えだったようで、使用人の話には渋い顔をしたが、あの子がどうしてもと父に頭を下げたことで渋々、使用人の件を承諾した。
そして、あの子はディルバック家のメイドとしての従事をすることになったが、その働きは目を見張るものがあった。
まるで今までもメイドをしていたかのように手際が良く、一つのミスもなく、それどころか完璧な仕事をこなしていると教育係のメイドが絶賛していた。
「凄いわね、あなた」
エルシアがそう褒めると顔を真っ赤にしながら心底嬉しそうに笑った。
可愛い。
とても愛らしい。
もしも自分に妹がいればきっとこんな気分なのだろうか。
「そうだ。そういえばいつまでも名前がないのは不便でしょう。教育係のセナさんにも何度かあなたの名前を訊かれたのだけれど、どうする?」
この子には名前がない。
今まで名前すら与えられずに生きてきた子だ。
ただ、これからは一人の人間として生きていくのだから名前は必要だろう。
そう考え、訊くと目の前の小さなメイドはもじもじとしながらぼそりと呟いた。
「お嬢様につけていただきたいです」
「えっ」
「お願いします。私の名前を……お嬢様に」
「うーん、そうね。分かったわ。でも私でいいの?」
「はい、お嬢様につけてもらいたいです」
上目遣いで懇願するその姿があまりにも愛らしくて、思い切り抱きしめて撫でまわしたくなる衝動を抑えながらもエルシアは少し考え、そこでふと彼女の綺麗な銀髪に目を向ける。
「そうね。少し安直かもしれないけれどギンというのはどうかしら」
エルシアはそう提案すると、目の前の小さなメイドは口の中でその名を反芻し、それから満面の笑顔を顔いっぱいに咲かせた。
「ありがとうございます、お嬢様。とても素敵な名前です。お嬢様にいただいたこの名を生涯大切にしていきたいと思います」
大袈裟な、と思いながらもエルシアは目の前の小さなメイド――ギンのこの喜び様には悪い気はしなかった。
そして、その日から彼女の名前はギンと名付けられて、それから半年後。
ギンはエルシアの専属メイドになった。