恋愛案内人 第五章 「初恋は複雑な味」 後編
彼がいた。
とても驚いた顔をしている。
「美央ちゃん?」
震えた声で私の名前を尋ねた。
ここはどこだろうか? 見覚えがある。そうだ、彼の部屋だ。
ここで二人で料理をして、ここで映画を見て、ここで、キスをしてここで初めて重なった、そんな場所だもの。わかる。
「陽翔くん…」
こちらも声が震えるし、涙も出てくる。
ずっと会いたかったし元気にしているか心配だったからだ。
少し会わない間に彼は痩せたというか、やつれていた。
無理もない。
「さあ、喜怒哀楽をすべて吐き出し楽になるがよい」
諒介さんがそう言うと、勝手に口が、いや、心が叫びたいとざわめいている。
「まずは喜だ」
「私は、陽翔くんに出会えてすごく幸せです、私はこんな幸せをもらっていいのかと思うぐらい幸せで、あなたが私のすべてなんです」
「次は怒」
「怒ることは何もない……ないです……本当にただ心配で心配で……」
涙が溢れて止まらない。ただ陽翔君は黙って話を聞いてくれている
「哀だ」
「悲しかったよね、寂しかったよね、お兄さんがなくなって辛かったよね。私が何もできなくて本当にごめんなさい……ごめんなさい……」
「最後は楽だ」
「復縁してほしいなんて思ってない。ただ……ただ……陽翔君の気持ちが楽になってくれればそれでいい、それでいいんです。お兄さんの代わりにはなれないかもしれないけれど、私で少しでも心が楽になってくれたらそれでいい……」
最後の言葉を吐き出すと、諒介さんは頭をぽんぽんと撫でてくれた
「よく言えました。合格点だ」
そう言って貰えて、また泣いた。陽翔君はまだ黙ってこちらを見ている。
「で、彼くん。きみの方は、は何か言いたいことの一つでもない訳?」
諒介さんが問う。
「言いたいことは、ここまでこうして自分の気持ちを伝えてくれてありがとうということ、兄貴の代わりにならなくていい、ということ。そして、また気持ちが落ち着いたら、戻りたい……だから……だから、待っててほしい」
「うん……、うん……」私は頷きながら泣いた。
「人の死を乗り越えるためには、人の愛や温もりが必要だ。愛する人を抱きしめ、そして抱きしめられ、人はつらさを乗り越えていくものさ」と諒介さんは言った。そして「少しでも気が楽になったか?」と私に尋ねる。
「うん…楽になった」
ちょっとした言葉が必要なだけだったんだ。ほんの少しの言葉をかけたいだけだったんだ。と私は気が付いた。「わたしもバカじゃない」「みっともない」なんて、自分を欺く言葉だった。本当は待っていて」と言ってほしかったんだ。
彼は、言ってくれた。「待っていてほしい」。嬉しかった。些細な言葉、細やかな言葉。
短い言葉だけど、愛する人のそれは、私を再び幸せにしてくれた。
「帰ろうか」
諒介さんが指をぱちんと鳴らすと、私たちはまた、古い薬局の中に居た。
珈琲、古い家具の香り、何もかもが何故か懐かしかった。
「オカエリ」
どこからか、着物を着た、人形のような女性がふっと出てくる。どうして人形のようだと感じたかというと、彼女の肌は象牙のようにぬるりとしていて、人間らしさがどこにもなかったからだ。
「ただいま愛子、今日もハッピーエンドだったよ」
諒介さんはその女性を抱きしめた。
「気分はどうですか?」と、助手さんが私を心配そうに覗き込む。
「とてもすっきりしています。言いたかったことが全部言えて、私やっぱり彼が好きで、どんな困難も彼となら乗り越えていけるって、そう信じていきたいんです」
まだ頭の中ではまとまっていないけれど、さっきの自分みたいに、これからの目標がはっきりと言えた。
「お客さまのお帰りだ」
そういうと、後ろの扉がガラッと開く。
とても清々しい気分だ。彼は待っていてと言ってくれた。その言葉だけが私の灯。
どこまでも信じられる。彼ならば。どこまでも待てる。きっと。
私のメモは以上になる。
不思議な出会い。狐にでもつままれたのだろうかとも思うが、次の日、彼から「また、何時の日か会おう」とLINEが来ていたので、夢ではなかったのだと思う。
陽翔君を愛している。それが、今の私の、誇りだ。
恋愛案内人 第五章 完