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【完結】恋愛案内人  作者: 安部マリヤ
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恋愛案内人 第一章 神愛薬局 前編

 恋愛案内人 第一章 前編


 あれはまだ冷たい雨がしとりしとりと鈍色の針を落としている三月のことだった。

 車道を猛スピードで走っていた車が、ガードレールを乗り越えて、山内竜矢の両親を引き裂いたのだ。両親は振り返る間もなく意識を失ったという。痛みさえなかっただろうという医師の言葉が、まだ高校二年生の少年にとって唯一の救いだった。



 葬式の席で、竜矢はただ雨に打たれ濡れるだけで、何も考えられずにいた。

 祖母はドイツ人で、彼はその血を色濃く受け継ぎ、茶色の髪に薄い緑色の目をしている。

 その美しい緑色の目に、雨が溜まっては流れていく。涙なのか、雨なのか、わからない。

 竜矢の手をそっと握りしめてくれたのは、姉の綾子だった。

 艶めく茶色のロングヘアと、白磁のような白い肌。竜矢よりもさらに祖母の血を強く引いたのだろう。目鼻立ちの美しい女性である。



「ねえ、たーくん。かなしいよね、すごくわかるよ」

「姉さん……」

「でも、生きていかなきゃ。ちゃんと眠って、ちゃんと生活はしなきゃ。何があったって、お腹はすくんだから」



 そう言いながらも、綾子は葬儀のすべてを仕切ってくれた。それは周囲が驚くほどの気丈さだった。さらに彼女は、竜矢の生活のサポートまでも完璧にこなした。

 竜矢が元通りになるまで、懸命に話しかけ、一緒に出掛け……。ただ竜矢が元気になれば、と綾子は思っていた。

 やがて綾子の願いは通じ、竜矢は徐々に元気を取り戻していった。その歩みは、山の頂きに落ちた雨水が、木々の葉の間を通り、土に染み、川に流れてゆくほどの静けさであったかもしれない。それでも着実に、竜矢は日常に戻り始めたのだ。



 あれから数カ月。竜矢は今も思う。

 姉にはこれからもずっと頭が上がらない、と。

 綾子は、私大に通っていて、二十歳になったばかりだった。

 綾子自身、そんなに勁い方でもない。自分だって泣きたかっただろうに。

 なのに両親の事故の一件から、綾子は誰の前でも一度も涙を見せていないのだ。そしてそんなある日のこと、綾子は竜矢に何の相談もなしに、大学を辞めたと報告してきた。



「姉さん、どうして? 僕のことなら気にしなくていいから。今からでも大学退学なんて取り消してきなよ」

「もう退学届け提出しちゃったし。私が働いて、竜矢には、無事に高校を卒業して私の分まで大学生活を楽しんでほしいの。私のエゴだけれど、ダメかなあ?」



 姉に弱い竜矢は「でも、それって、姉さんが犠牲になるんじゃ……。僕はどうしたらいいんだよ」と頭を抱えた。



「私のことなんて気にしなくていいよ。それに就職先、というか、バイト先も見つけてきたから。きっと大丈夫。竜矢は安心して学校に行ってきなさい!」



 その言葉とあまりに自信たっぷりな姿に、竜矢は頷くことしかできなかった。綾子が、資金のことや将来のことを考えて、自分に学業をゆずったのだということに気づくには、竜矢は傷つきすぎていた。


 それ以降、竜矢が学校に行くために家を出ようとすると、綾子は玄関まで見送りに来た。



「いってらっしゃい。竜矢」

「うん。行ってくるよ。姉さん、そういえば今日から仕事だっけ? どんな仕事?」

「……銀座のクラブに雇ってもらえることになったの」

「えっ。それって……」

「大丈夫! 安心してって。皆いい人だし、男の店員さんもいるの。だから危険なことなんてないわ! それよりほら、早く学校行かないと遅刻しちゃうわよ!」



 そう言って、綾子は竜矢を玄関から送り出し、ドアを閉めた。不意に静かになる空間。綾子はどさりとその場に崩れ落ちるようにして座る。

 ふと震える右手を見る。



 ーーああ、怖い。



 綾子は未知の世界に飛び込むことに恐怖を感じていた。上手くやっていけるのだろうか。心が不安でいっぱいになる。本当は怖い。でも、誰にもこんな姿は見せられない。特に竜矢には絶対に見せたくない。

 やるしかないの。弟のためには……。


 季節は巡り、竜矢は高校三年生の生活を、それなりに謳歌している。内申書も良いらしく、綾子は安心していた。

 綾子も綾子で仕事に慣れ、なるべく弟竜矢と同じ時間を過ごそうとしていた。昼夜逆転の生活を送るも竜矢との時間を一番に優先していたのだ。毎朝の朝食やお弁当作り、見送りも欠かさない。

 その気持ちに、少しだけ綾子は違和感を持っていた。

 ただの家族愛、だけではないような、そんな気がするのだ。

 綾子にはれっきとした恋人もいる。

 恋人の名は山田健二。元々は大学の先輩と後輩だった。ある日、健二の一目惚れにより、猛烈なアタックを受けて付き合ったという経緯がある。

 健二は、あまり弟の竜矢とは仲が良くない。……と言うよりも、一方的に敵視しているのだ。

 仕事のこともあって、休みが不定期な綾子とは一緒に過ごせる時間もない。それなのに弟に掛ける時間だけはしっかりと確保しているではないか。その不満を、ときおり彼は綾子にぶつけていた。

 そして、今日も健二は綾子に電話でこう言った。



「綾子、お前と弟は、ただの姉弟愛には見えないよ。もう弟のことはいいじゃないか。高校を出たら一人暮らしでもさせてみればいい。君と距離を離すんだ」



 しかし綾子は「そんなんじゃないわよ」と、口調こそ柔らかいが、はっきりと健二の申し出を却下した。



「私は今だって……あなたを愛している。一番好きなのは、あなた。でも、弟は弟なのよ。一生、私の可愛い弟なの。それに一人暮らしさせられるほどお金にも余裕がないし、できないよ……」

 と言って、涙を薄っすらと浮かべた。何故かわからないが、気持ちが昂ぶってくる。

「弟だってもうすぐ成人するだろう? もう高校卒業後は君が面倒を見る必要なんてないさ」

「どうしてわかってくれないの。私にとって、竜矢は、残されたただ一人の家族なのよ……!」

「そう怒らなくても。俺はただ一般的に考えて独り立ちの時期を……」

「この前も、あなたは私と竜矢の仲を疑ってたものね。あなたにとっても、竜矢は弟みたいなものだと信じてたのに」

「おい、待てよ……」

「なんだか疲れちゃった。もうあなたとは、無理……」

「綾子!」



 そして綾子は電話を切った。一番好きなのは健二だと言ったが、その言葉に、自分の心にふとした疑問が湧いたのだ。



 ーー本当に? 一番好きなのは、健二?



 だったら、別れを切り出したとき、気持ちが軽くなったのはなぜ?もうこれで疑われなくて済む、と解放された気分になったのはなぜ?

 愛している。たった三分前に、自分で言った言葉。綾子は自分自身を皮肉っぽく笑うと同時に、胸が締め付けられる想いがして、涙を少し流した。

 本当は気づいていた。私は間違った人を愛している。でも、誰にも言えない。伝えてはいけない……。


 竜矢は学校で恋愛話に花を咲かせようとしていた。

 竜矢はそんなに心を開いて友達と会話するタイプではないが、二年続けて同じクラスになった、父がアメリカ人、母が日本人の竹田ミシェルと、母がインド人、父が日本人の岡山勝おかやましょうが、なぜか竜矢のことを気に入りいつも隣に来て話しかけてくる。



「ねえねえたっちゃん、たっちゃんってさあ、好きな人とかいないの?」



 勝手に竜矢にたっちゃんとあだ名をつけて、そう竹田はそう呼ぶ。



「ええ? いきなりそんなこと聞かれてもな……? 僕はそうだなー……」



 浮かんでくるのは、姉の綾子のことばかりだった。

 頭で警鐘が鳴る。

 気づいてはいけない。見てはいけない。知ってはいけない。いつもの調子で、本心から目を逸らす。

 だが、なぜだか今日はうまくいかなかった。不意に、理解してしまった。

 自分が姉の綾子を女性として、異性として感じ始めてしまっていることを。

 綾子が恋人と電話しているとき、胸にチリチリとしたものを感じること。

 綾子が自分を見送れなかったとき、疲れている寝顔をそっと見に行って、その額を撫でたくなること。

 昔は一緒にお風呂まではいった仲なのに、いまは着替えているところすら恥ずかしくて見られないこと。



「ねえねえ、たっちゃんてさあ……女の人の話ってお姉ちゃんの事ばっかりだけどお姉ちゃんのこと好きだったりするの?」

「ちが……なんで好きになんだよ、そういうのじゃなくて……姉さんには頭が上がらない、ただ、そんな存在なんだ」

「ふーん、だったらいいけど……ねえねえ、ほかになんか面白い話ないかな、勝は?」

「んー、ないですねえ、これといって」



 竹田と岡山は無邪気に笑っているだけで自分たちの恋愛話はせず、そのままなんとなく場は解散となった。

 その日の放課後。竜矢は、気づいてしまった自分の中にある姉への気持ちを持て余しながら、ふらふらと道を歩いていた。

 滅多にしない道草を食って、家に帰るまでの道をなるべく遠くした。



 ーーどうしても受け入れられない。

 ーー人を愛することとは何なのだろう。

 ーー人に愛されるってどういうことなのだろう。

 ーー今まで考えたことなどなかった。



「ただいま」

「おかえり、たーくん」



 いつものように迎えてくれる姉の姿に、竜矢は心が苦しくなるのを感じた。今はまだ考えるのをよそう。どうしたって、きっと出口を見つけられることはないのだ。


 普通に過ごす。今までできたのに。なんと難しいことか。

 ある日の夕食後。竜矢は洗い物をする姉の背中に、つい、聞きたくもないことをぶつけてしまう。



「ねえ、健二さんとはどうして別れたの?」

「ええ、どうして? つまらないことよ。それ以上は言わない」



 洗い終わった食器をすすぐ綾子の声は明るい。しかし竜矢から、その表情は見えなかった。



「家族と言ってもこれ以上はプライバシーの侵害だよね、ごめん。宿題してくる」



 竜矢は笑って立ち去った。ぎこちなかったかな、とは思ったが、どうやら姉さんは気づかなかったようだ。ほっとした。ただ、皿を持つ綾子の手は止まっていた。そして、水を吐き出し鈍く光る蛇口を見つめていた。


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