第10話 ワンくん
部屋に戻りラングレーが退出しても、桜の気持ちが晴れることはなかった。
来たくて来たわけではない。無断で呼び出され、帰る術もないと言われ、可哀想なのは自分だ。けれど厨房の隅で食事を取っていた人たちは、皆暗い顔で、スープを啜っていた。ラングレーが言ったように、この国は思っていた以上に大変な状態なのかもしれない。自分は、邪魔なのかもしれない。
暗い考えが桜を包み込もうとした時、桜は頬を叩いて自分を鼓舞した。
「クヨクヨすんのはあたしらしくない!とりまやることやるしかないっしょ!」
桜は用意されていた机に向かい、鍵のついた棚から先代聖女の日記を取り出した。
絶対に汚すな、王子が許可した者以外誰にも見せるなと念押しされたため、一部の者しか開けることができないよう、棚に鍵がついているのだ。
「日記は読めるから、これをこの国の言葉にしていけばいいんだよね?何ページか終わったら美香さんに渡せばいっか。」
ベルナデットからもらった分厚い本を参考にしながら、桜は用意されていた紙に文字を記していく。紙とは別にインク壺と羽ペンも備わっていたが、桜がそれらを使いこなすことは難しく、持っていたシャープペンで対応した。
「この紙も超破れやすいな。消しゴムかけると超滲むじゃん!つーか合ってるか全然自信ないな。あーーーもっと勉強とけば良かった!」
大きな独り言を言いながらも、桜は記憶の中の英単語を頼りに辞書をひき、少しずつ翻訳を行った。
♢
「…おい!しっかりしろよ!おい!」
誰かの声で起こされると、辺りはすっかり明るくなっていた。
「え、ヤバ。あたし寝てた!?本は!無事ね!よかった。」
慌ただしく起床した桜を起こしたのは、3人の騎士のうち唯一桜よりも背が小さく幼く見える、カイルだった。
「お、私が本日の騎士を担当す、しますので、よろしくお願いします。」
カイルが頭を下げると、ピンとした耳が桜の顔の前で揺れる。
「え、マ、マジ可愛いんですけど!何!超ファンタジーじゃん!ごめん、名前聞いてもいい?」
「隣に控えてますので、用があれば呼んでください。」
にやける桜の態度とは真逆に、カイルの態度は素気なかった。
桜は少し残念に思いつつ、昨日のラングレーの言葉を思い出し、カイルにしつこく話しかけようとはしなかった。
「ま、いーし。…とりま顔洗お。メイクしたまま寝ちゃうとかやっちゃったわ。」
桜が破壊した風呂場と洗面台は、レイクが手配してくれたのか、元通りに戻っていた。が、桜がまたレバーに触れた瞬間、レバーは吹き飛び、一斉に水が溢れ出してきた。
「ちょ、ま、またー!???やばい、ヘルプーーー!!!!!!」
「な、なんだこれ!俺は魔法が使えないんだ!誰か呼んでくるから待ってろ!」
カイルは部屋の惨状を見るなり、飛び出し、レイクを引き連れて戻ってきた。
「お前は、またか!クソっ。」
「ごめん、マジでごめん!抑えてるけど止まんないの!!」
「下がってろ!」
しばらくしてレイクが再び水を止めてくれたが、その怒りようは前回の比ではなかった。
「嫌がらせをするのもいい加減にしろ!魔法石が高価なものだと知ってわざとやっているのか!」
「ちょ、待ってよ!あたし本当にわざとじゃ」
「言い訳するな!メイド達からも苦情が出ている。
…濡れた部屋の掃除はお前がしろ。俺はもう手伝わん。」
「レイクさん!」
カイルは出ていったレイクの跡を追うことも出来ず、ずぶ濡れになった桜を見捨てることも出来ず、オロオロと立ち尽くしていた。
「…あ、あたし本当にわ、わざとやってないし。」
「お、おい泣くなよ。」
カイルは我慢の限界を超え、わんわんと泣き出した桜を見て更にオロオロとし始めた。だが桜の側から離れようとはせず、黙ってそばにいてくれた。
「グスッ。ごめんね、泣いてるとことか、超ダサいよね。」
「別に。」
カイルの態度は素っ気なかったが、それでもこの世界に来てから初めて桜の側にいてくれた。それだけで桜の心は癒された。
「ワンくん、優しいね。ありがと!元気出たわ。」
「俺の名前はカイルだ!変なあだ名つけんなよ!」
「だって聞いた時教えてくれなかったじゃん。てかお腹空かない?朝ごはん食べた?」
「ふんっ。さっきレイクさんが言ってただろ。メイド達がお前のとこに行きたくないって言ってんだよ。待っててももうご飯は来ないぜ。」
「あーね。じゃ、自分で厨房行くわ。と、その前に着替えなきゃ。ワンくんちょっち待ってて〜。」
「お、おい俺がいるのに着替えんなよ!」
「えー下着着てるし、ワンくんまだ子供じゃん。照れてんの?ウケんだけど。」
「お、俺はもう12だ!もう成人してるんだぞ!」
「え、この国って12で成人なの?早っ。じゃああたしも成人してんじゃん。やば。」
桜は昨日干しておいた制服に袖を通した。
「うん、やっぱこれのがあたしらしいよね。ワンくん、あたし厨房行くけど、一緒行くー?」
「俺はお前の護衛だぞ!お前が行くなら行くに決まってんだろ!」
「おけー。じゃあ行こー。」
桜はカイルを弟ができたように愛でながら、肩を並べて厨房へと向かった。