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天国の歩き方  作者: 三田村 保歩
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7

前方に小さな明かりが見えはじめ、次第に大きくなり、突然、細くて長いトンネルを抜け出た感覚があった。

星空の下、懐かしい空気の匂いがした。吉田は魂に映っていた玉藻池のほとりに立っていた。

――無事に現世に来られたんだ!

課長はここで水浴びをしているはずだ。辺りを見渡すと、木の枝にローブが掛かっていた。根元には刃先を上にした大鎌が立てかけてあった。

吉田は素早く黒装束を脱ぐと、ローブをはおり大鎌を手に取った。草むらに隠れ玉藻池の様子を伺った。

課長はなかなか現れない。いつまで潜っているのだろうか……。 

そのとき、ごぼごぼと池の中から泡が吹き出して、サウナの水風呂から出てきたような恰好で課長が現れた。

「吉田じゃないか!」

聞き慣れた懐かしい声に目頭が熱くなる。

「お前、どうしてここにいる。天国に行ったんじゃなかったのか? それにオレのローブを勝手に着て。なんの真似だよ!」

「黙って!」

吉田はこぼれ出る涙をそのままに、自分の魂と黒装束を強引に課長の懐に押し込んだ。

「何だよこれ、お前の魂じゃないか」

「何も聞かないで……」

吉田は早口で天国戻りの呪文を唱えた。

「え、なんだって?」

「アマチャン・アマチャン・モドテラス」

二回目の呪文だ。課長の姿が薄くなり出した。

「おい、どういうことだ?」

課長の表情が変わった。

「ぼくはちゃんとやりたいんです」

「だから、何のことだよ」

「アマチャン・アマチャン・モドテラス」

三回目の呪文を口にした。課長の姿が霞のように薄くなり消えていく。

「ぼくがやり残したこと、やらなくてはならないことをやらせてください。これまでのご恩、決して忘れません!」

吉田が消え入る郷原の前で頭を下げた。

「やめろ! 吉田あぁぁぁ……」

郷原の姿が完全に消えてなくなった。

魂を失った吉田は郷原の代わりに死神になった。これから永遠に現世と地獄の狭間で生きるのだ。課長は無事に天国に行けただろうか。最後の課長の声が残り香のように耳の奥に刻まれた。

――これからだ。これからがぼくの仕事だ。


吉田にはやらなくてはならないことが二つある。一つは、母と妻を仲直りさせること。二つ目は、自分の不手際で被った課長の名誉を回復することだ。

吉田は慣れないローブをバタつかせ空中を漂った。飛び方のコツがつかめない。

――ちゃんとやる。ちゃんとやる。ちゃんとやるから、ちゃんとなる――郷原の口癖を呪文のように唱えながら自宅に向かった。夜中の二時半を回った車の少ない首都高の上空を、高井戸方面に飛んで行く。京王線の高井戸駅を通過し、八階建てのマンションが見えてきた。玄関に降りたとき、足が地につかずバランスを崩した。

丸の内さんが研修で、建物の壁や床など、人間が後発的に作ったものの中には、(さわ)ろうとしても(さわ)れないものがあると言っていた。

――死神も同じなんだ……。

吉田はバタバタとローブを動かしながら、床のわずか上を幽霊のように浮かんでいた。

突然隣のドアがあき、一匹のハスキー犬が、一人暮らしの老女と一緒に飛び出した。

「おかしいわね、この子ったら。ドアを開けろって急に吠え出して……」

ロッキーが吉田を見つけて嬉しそうに尻尾を振っていた。老女が足を悪くしてから、毎朝吉田が散歩に連れて行くのが日課だった。飼い主よりも吉田に懐いている犬だった。

――ロッキーはぼくが見えているんだ。

吉田は人差し指を口元に当て、吠えないように促した。

老女はおとなしくなった犬を連れ、そのまま中に戻って行った。

気を取り直した吉田がドアノブに手を伸ばすと、触れた感触がなく身体がそのまま家の中に入って行った。透明人間のようにリビングを通り抜け、寝室に向かい、ダブルベッドで寝息をたてる律子の横に漂った。床のスレスレに漂うコツをようやくつかんでいた。

真新しいベビーベッドが横に並んでいた。

――息子が生まれたんだ!

小さな赤ん坊が両手両足をもぞもぞと動かしていた。嬉しくなってベッドを覗き込んだ。何の不安も悩みの欠片も見当たらない、ピカピカの小さな顔が笑っていた。自分の顔を見ているような気がした。吉田が動くと息子の視線が動くのだ。心の中で、――こんにちは、パパでちゅよ――と、言ってみた。更に嬉しそうに両手両足をバタバタと動かした。吉田は自分が死神になっていることをすっかり忘れ、息子を笑わすことに夢中になっていた。

――この子はぼくが見えている。間違いなく見えている。

二か月前まであの天国にいたんだものな。羽が生えた天使になってここに来たばかりだものな。まだ現世のものがよく見えない代わりに、ぼくの姿が見えてもおかしくないよな……。

そんなことを考えながら、吉田はダメもとで息子を抱きかかえようと腕を差し伸べた。しっかりと物に触れた重さがあった。現世に来て、物に触れた感触は新鮮だった。懐の中の赤ん坊は安心しきった様子で、すべてを吉田に預けていた。涙が出た。安易に死んでしまったことを今更ながらに後悔した。なぜこの子には触れることができるのだろうか? 血が繋がっているから? 天国から来たばかりで、まだ現世の免疫ができていないから? 理由なんかどうでもいい。今はこの子を抱きしめられることがたまらなく嬉しい……。でも待てよ。今、律子が目を覚ましたら、この子だけ空中に浮かんでいるように見えるのか? それはまずい! そんなところを見られたら、律子は卒倒するかもしれない……。

――ダメ、ダメ、ダメ。ぼくにはやらなければならないことがあったんだ!

頭の中に次々と浮かんでくる後悔や疑問を払いのけ、息子をベッドに戻して自分の部屋に向かった。書斎机に花が活けてあった。毎晩日記を書いていた場所だ。新鮮な草花の香りが漂った。几帳面な律子が毎日掃除をしているのだろう。清潔に保たれ部屋には、埃一つ落ちていなかった。

右側の壁に本棚があり、その隣に見慣れない箪笥のようなものが置かれていた。正面から見ると仏壇だった。位牌の隣にしょぼくれた自分の写真が並んでいた。一瞬、心が折れそうになったが、気を取り直し、日記のありかに目を向けた。本棚の上から二段目の右端にある百科事典の中に隠してある。百科事典といっても偽物(にせもの)で、中に空洞があり、大切なものや人に見せたくないものを隠せるようになっていた。

百科事典はあの日のまま、誰に気付かれることもなく本棚の片隅に並んでいた。

吉田は本棚に手を伸ばした。

(さわ)れない。

角度を変えたり、タイミングやスピードを変えたりしながら、何度も何度もチャレンジしてみたが、吉田の手は実にあっけなく、空気を掴むように素通りした。

――やっぱりダメなのか。ぼくは何のためにここまで来たんだよ!

一縷の望みを託していたが、やはり、死神にしても後発的にできた現世のものには触れられない。吉田は途方に暮れた。

――そうだ!

息子に触れることができたことを思い出した。

寝室に戻り、すやすやと眠る息子を慎重に抱き上げた。ベッドの律子が何かの気配を感じたのか、寝返りを打ってこちらに顔を向けてきた。

ここで空中に浮かぶ息子を見せるわけにはいかない。

そんな心配をよそに、息子はすやすやと胸の中で眠っていた。

吉田は小さな赤ん坊を抱きかかえ、自分の部屋に戻った。息子のモミジのような小さな手を取り百科事典に添えてみた。わずかに動いた。

――いける。これはいけるぞ!

だが、赤ん坊の手はげんこつのように固く閉じられ、本を掴むことなどできない。吉田の焦る気持ちをよそに、子供はまるで遊んでもらっているかのように、両手を激しく動かし出した。

――パパに力を貸してくれ!

そのとき、思いが通じたかのように百科事典と周りの本がまとめて崩れ落ちた。床に落ちた百科事典の扉が開き、中から日記帳が現れた。

これで律子は気づくだろう。

ひと仕事を終えた吉田は、子供をベッドに戻し、飛び降りたマンションの屋上で、懐かしい景色を眺めながら夜が明けるのを待った。


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