5
郷原は天国ロードの横を真っ逆さまに落ちて行った。
天国の入口でストロー隊に抱えられた吉田の姿が脳裏に残った。死神と交換した黒ローブの使い方がよくわからず、スピードの調節ができなかった。スカイダイビングのような風圧を全身に浴びながら、息つく間もなく落ちて行った。規則正しい間隔で天国ロードを昇って行く魂と、新幹線の窓から見る反対方向の車両のようにすれ違った。
プラットフォームを通過した。改札の白装束の女が何事かと驚いているのがわかった。無理もない。少し前に天国に行ったはずの魂が、死神姿になって落ちて行くなんて見たことがないのだろう。
やがて周りの景色が、赤、朱、茶のどんよりとした色に変化していった。現世では経験したことがない熱さと風圧で目を開けていられなくなった。全身がダルくなり、次第に眠くなり、意識が薄らいだ……。
突然、地面に叩きつけられ意識を戻した。
そこは真っ赤っかの世界だった。周りの山々が噴火し硫黄の匂いが充満していた。血のような溶岩が足元を流れ、やけどしそうになった。全身から汗が噴き出した。
どろどろの溶岩が流れる川の対岸に、汚れたふんどし姿の赤鬼が、荒くれ声を出しながら青鬼と棍棒を振り回していた。
――ここが地獄というやつか……
「てめえ~ 何者じゃあ~」
郷原の三倍はありそうなガラガラ声の赤鬼が、真っ赤な溶岩を何の躊躇もなく裸足で踏み込み近づいて来た。
「貴様、見かけねー死神じゃ。新入りじゃなー」
トゲトゲのついた棍棒を背中に背負った青鬼が、鋭い牙から唾を飛ばして叫んでいた。
鬼というものはなんでいちいち叫ぶのか。それとも地声がでかいのか? 思わず両耳を塞いでいた。
「とっとと閻魔堂へ行って、閻魔様に挨拶して来るんじゃあ~」
赤鬼がふんどしの中から、子供の落書きのような汚い地図を取り出した。二匹の鬼は地獄の案内役なのか。
地図を片手に閻魔堂に着くと、入口の階段に子供の赤鬼が足を広げてしゃがんでいた。子供といっても自分と同じぐらいの身長だ。子鬼はかつあげをするヤンキーのような白眼で、足の先から頭の先まで睨み回し、ふんどしのポケットからちゃらちゃらと鍵を取り出した。
閻魔堂の中は四方の壁、天井、床の全てが地獄絵で、奥の床の間を背にしたところに、さっきの赤鬼を更に三回りぐらい膨らませた大男が、煙突ぐらいのパイプを咥え、煙を吐き出していた。
「貴様が新しい死神かあ~」
十頭のライオンが同時に吠え出したかのような声が地鳴りのように反響した。
恐怖で足が震えた。
「貴様の仕事は、一人でも多くの輩を地獄へ叩き落とすことじゃあ~」
閻魔がしゃべるたびに、両側に添えられた巨大な松明が、生きているかのように爆発した。
「現世じゃパワハラ課長としてならしたそうじゃな。噂は聞いておる。生意気にも天国如きに行こうと考えておったようじゃが、貴様には真っ赤な地獄の方がお似合いじゃ~」
閻魔堂に怒声が反響し、地震のように床が揺れた。閻魔の話に合わせ、両端のたいまつが応援団のドラ太鼓のように爆発した。
「今日から心を入れ替え、貴様のような腐った魂を、片っ端から地獄に引きずり下ろすんじゃあ~ 分かったらさっさとこれに着替えるのじゃ~」
傍らの新しいローブと大鎌を足元に放り投げた。郷原は震える手で、死神と交換した古臭いローブを脱ぎ捨て、新しいローブを身にまとい、新品の大鎌を手に取った。
「一つ教えてやろう」
ゆっくりと煙を吐き出した。
「地獄に落ちる輩は、すっかり様変わりじゃ。ひと昔前は、ヤクザや暴力団のように、一目見てそれと分かったが、最近は、何食わぬ面して腹ん中でドス黒いことを考えている奴ばかりじゃ。七三分けの真面目づらした輩が振込詐欺の元締めやってたり、クラス一の優等生が、いじめの主犯だったりする……」
恐怖で一刻も早くここから立ち去りたい郷原は、閻魔の話などほとんど頭に入らない。
「外見で判断しちゃいかん。魂を見るんじゃ! 近づいただけで鼻をつまみたくなるような汚れ切った魂なら問題ない。ほっておいても勝手に落ちてくる。狙い目は矢の刺さった魂じゃ。矢の刺さった魂は自殺した奴じゃ」
――吉田のケースだ!
「矢が刺さっている魂を見つけたら、天国ロードでそそのかし、台風が来るとか、雷が落ちたら大変だとか言って心配させるのじゃ。天国ロードにこっそり細工して故障させてもよい。そして、天国の入口前で、ローブをばたつかせ、風を送って体勢を崩すのじゃ。矢が刺さった魂は、バランスを崩しやすいから一番の狙い目じゃ」
気を失った吉田が天国の入口に引っかかり、ストロー隊が何度も体勢を立て直そうとしていたのを思い出した。
「その新しいローブは新型で、今までの三倍の大きさで、十倍の風を起こすことができるのじゃ。狙い目の魂が来たら、ローブのボタンで合図を送るのじゃ。ワシは得意の雷を発生させる」
閻魔が背中の太鼓をガラガラ鳴らすと、はるかかなたの上空で雷がゴロゴロ鳴り出した。
吉田に落ちた雷は、こういう仕組みで発生させていたのか。オレと吉田は、死神と閻魔の連携プレーに、まんまと嵌められたって言うわけか……
郷原は、慣れないローブをばたつかせ、地獄の底から上空に向かって飛んでいた。
死神の罠に、まんまと嵌められた自分が情けなくなった。思い出すと悔しくなった。
郷原はその日から、目的もなくフラフラと天国ロードの周りを漂った。
――こうしてみると、魂にもいろいろあるんだなあ……。
魂は言ってみればその人間が生きてきた証であり、結果であり、集大成である。大きさも、色も、輝きも様々で、どれ一つとして同じものは無い。よく見ると吉田のように、矢が刺さったものもある。
矢が刺さった魂を見るたび吉田を思い出した。
郷原は自殺した魂を地獄に落とすことなどできなかった。矢が刺さった魂を見つけると、閻魔の話などすっかり忘れ、片っ端から大鎌で叩き切り、天国の入口を通れるようにしてやった。
天国ロードを昇る一人ひとりに声を掛け、アドバイスをして励ました。台風で強風が巻き起こると、大きなローブを広げ、雨風があたらぬよう防御した。直射日光が強い炎天下のときは、黒ローブを広げ日傘の代わりになった。ドス黒くて重そうな魂が来たときは、天国ロードの下からローブをばたつかせ、風を送って天国ロードを昇って行けるように後押しした。それでも昇って行かない、どこかのヤクザの親分の魂が来たときは、表面にこびり付いた汚物を大鎌を使ってリンゴの皮をむくように取り除いて軽くしてやった。感激したヤクザの親分に、あんたの舎弟にしてくれと、天国ロードを昇りながら何度も懇願された。
郷原の管轄する天国ロードを昇る人たちは、みんな死神に感謝した。お礼を言って天国の入口をくぐって行った。プラットフォームの白装束やストロー隊も死神姿の郷原を見かけると、丁重に頭を下げた。郷原の地区だけ、死神の印象がすっかり変わった。
郷原は一日中、天国ロードを昇る人たちを応援し、夜になると疲れ切った。それでも毎日が充実していた。自分なりに死神のやり方を見つけたのだ。ちゃんとやるやり方を見つけたのだ。
郷原は夜半過ぎの二時ぴったりに、新宿御苑の玉藻池で体をきれいにするのが日課になった。夜の喧騒が落ち着く夜中の二時は、死神にとってホッとできる時間だ。元々きれい好きで、どんなに酔っぱらって帰っても、必ずシャワーを浴びてから寝る習慣は、死神になってからも変わらなかった。
都心の真ん中にある新宿御苑は都会のオアシスだ。夜になると人気はなく、高い入場料を取るせいか、イロハモミジ、サクラ、イチョウ、ケヤキなどの木々が、季節ごとに整備され、鳥たちがあちこちに巣を作る。玉藻池のほとりでローブを脱ぎ、ゆっくりと池に浸かりながら夜空を見上げる瞬間が至福の時間だった。
そんな折、――死神が天国行きを応援している――。聞き捨てならぬ噂が閻魔大王の耳に入った。閻魔が郷原を呼び出した。
「貴様、死神の仕事をなめとんのかあ~」
ものすごい剣幕で怒鳴り散らすと、両側のたいまつが大爆発を起こし、それに呼応した周りの山々も噴火した。真っ赤な溶岩が大量に流れ出し、閻魔堂の周りを取り囲んだ。
「貴様が死神になってから、一人も地獄に落ちてこんではないかあ~。使い物にならん死神は、釜茹でにして、ドロドロにして、鬼どもの餌にするのがここの仕来たりじゃ~」
郷原の背中を指先で軽々と摘まみ上げ、グツグツと血色に沸き立つ大釜の真上に持ってきた。あまりの熱さで呼吸ができない。
「一週間だけ待ってやる。今から一週間以内に、十人を地獄に落とすんじゃ。できなかったら、貴様は釜茹でじゃあ~」