4
一週間の研修が終わり二日経ったが、吉田はコースを決められずにいた。申告期限は明日だった。丸の内さんに相談しようと三階の控室に向かった。三階に近づくと、賑やかな声が聞こえてきた。畳の上の卓袱台を囲んで丸の内さんが、野球選手とキャバ嬢と昼間から酒を飲んでいた。黒ずくめの不気味な男以外が揃っていた。
「酔っぱらっているんですか?」
予想外の状況に驚いた。
「見りゃあわかるでしょ。飲まずにやってられるかってことよ」
すでに呂律が回っていなかった。酔っぱらって更に毒舌を飛ばす丸の内さんは、研修中のどこか人を寄せ付けない雰囲気とは違い妙に色っぽかった。
「天国にお酒があったんですか?」
「自給自足よ。こっちの日本酒は米を発酵、こっちのワインは葡萄よ。五年かけて作ったの。あなたもこっち来て飲みなさい。今年の出来は過去最高よ!」
丸の内さんが畳の上できれいな足を組み直す。
「このワイン、ほんとよくできてるな」
野球選手がグラスを一気に飲み干した。
「あたしが勤めてたキャバクラのよりおいしいわ」
「お手の物よ。私の実家は百年続く造り酒屋よ」
「見つかったらまずいんじゃないですか?」
「弱気ね、リスク取らなきゃいい仕事はできないのよ」
そういう問題ではない気がしたが、服装も公務員の白装束を着ないで通している彼女のことだ。ありかもしれない。
「いいですね。飲みましょう」
吉田も嬉しくなって乗っかった。
既にいい感じになった丸の内さんが、ワイングラスを片手に語りだす。
「こう見えても私、五年前まで丸の内でブイブイ言わせてたのよ。丸の内は私の庭。ビッグプロジェクトのリーダーやって、三十名の部下を従えて、朝から晩まで丸の内を闊歩してたのよ」
「どうして死んじゃったの?」
「自殺よ」
意外な言葉が返ってきた。
「ここ見てよ」
丸の内さんがキャバ嬢に向かって自慢のスーツの裾を上げた。吉田はドキッとするポーズに顔をそむけたが、彼女の魂に小さな矢が刺さっているのが目に入った。自分に刺さっていた矢と比べると、目を凝らさなければ分からないぐらいの小さくて細い矢だったが。
「自殺するとこれが刺さるのよ。修行を続けると取れるけど、私は公務員だから一生取れないの」
不思議そうに魂を覗き込むキャバ嬢に丸の内さんが続けた。
「当時憧れの上司がいてね、彼のためにプロジェクトを成功させようと懸命にやったのよ。背が高くて顔も良くて、優しくて、頭も切れて、部下の統率力も抜群の人。私ね、東北の田舎から出てきて、念願だった丸の内の商社に入ったの。憧れの丸の内OLになったのね。そんで、入社三年目に彼からプロジェクトリーダーに抜擢されたのよ。嬉しくって舞い上がっちゃったわ……」
丸の内さんがワイングラスを飲み干した。当時を思い出したのか、瞳に涙が浮かんでいた。
「あの頃初心だったのよ。彼に認めてもらおうと懸命に働いたわ。彼も私の仕事を評価してくれて、大変だったけど楽しかったのよ。やがて彼と付き合うようになって、自然と身体の関係も出来たのね。結婚もして子供もいる彼だったけど、――このプロジェクトが成功したら一緒になろう――って言ってくれてたわけよ。私はその言葉を信じて頑張ったの。そして、いよいよプロジェクトの成功が見えたとき、突然私に辞令が出たの。何だと思う? 秋田支店への左遷よ。信じられる?」
「許せない野郎だ。男の片隅にもおけん!」
野球選手がマジで憤る。彼の言葉がよほど嬉しかったのか、丸の内さんが泣き出した。後でわかったことだが、強気で毒舌の丸の内さんも、飲むと泣き上戸に変わるのだ。
「そーそー、そうなのよー。奴は私のこと最初から利用していただけだったのよ。うぅ……。しかもね、これまでも、私のような初心な女を繰り返し利用して、それだけで偉くなってきた最低野郎だったのよ。顔と見せかけの優しさにまんまと騙されたのよ。それで辞令が出た日、――なんで私を秋田なんかに飛ばすのよ――って詰め寄ったら、何て言ったと思う?」
両目から溢れ出る涙を拭きながら問いかけた。
「あいつ、遠くの方を見ながら、お前いつかオレとやった後、田舎の母さんが心配だって言ってたよな。気を利かしたんだよ。感謝しろよなって……」
ここまで言うと大声で泣き出した。
「丸の内さん……」
キャバ嬢も両手で顔を覆っていた。
「そんでその日に、丸ビルから飛び降りちゃったのよ……」
「丸の内さんが、丸ビルから飛び降りたのか……」
空気を読むことを知らない野球選手の親父ギャグに、
「ちょっとあなた、ふざけないでよ。なめてると回し蹴り食らわすわよ!」
泣き顔の丸の内さんがいきり立つ。
「落ち着いてください」
フラフラの足取りで本気で回し蹴りにチャレンジする丸の内さんを、吉田が後ろから羽交い絞めにして抑えていた。
「丸ちゃん(・・・)にも色々あったんだな」
横でバタバタしている吉田と丸の内さんを尻目に、野球選手の中ではいつの間にか丸ちゃんになっていた。
「俺も色々あったけどな……」
彼は他人事のようにつぶやくと、自分のことを語り出した。
「俺の名前は広本武、三十四歳。あ、ニックネームは幼稚園のときから武ちゃんだから。中学から野球やって甲子園にも出たことあるんだよ。広島県の強豪校でキャッチャーやってたんだ。強肩、強打の四番打者。そんで推薦で大学行ってドラフト待ったんだけど、結局お声はかからなかったのよ。あきらめて地元広島の社会人野球行って、結婚もして、子供もできて、それなりに充実してたんだけど、俗に言うリーマンショックとかいうやつ。あんなもんがアメリカから来ちまって、会社の野球部が廃部になっちまったのよ。だけど、会社も俺のこと考えてくれて、東京本社に異動になって事務の仕事に就いたのよ。で、今度は、土日に地元の少年野球の監督やったりしてたんだけど、ついこの間、少年野球の子供たちがな、よそ見してふざけ合ってチャリ乗って、信号黄色の横断歩道渡ってたとき、一番ちっちゃいのが後ろのチャリにぶつけられて転倒したんよ。そんとき、俺は後ろから見ておったんだけど、右折車のトラックが子供に気づかず曲がって来よるから、俺はとっさに猛ダッシュでその子ぶっ飛ばしてヘッドスライディングよ。その子が遠くに飛んでったのが、最後に見た景色よ……」
「あら、あなたも大変だったのね。でも少し見直したわ」
丸の内さんが多少落ち着きを取り戻していた。
「分かってくれたか丸ちゃんよ。ついでに俺のこと“あなた”じゃなくて“武ちゃん”でいいよ。ハッハー。ところであんたは何で死んじゃったのよ」
今度は隣のキャバ嬢に問いかけた。
「あたし? あたしヒトミって言うんですけど、見ての通りキャバ嬢やってたの。中野でね」
今時の女子高生のような、舌足らずな甘え口調だ。キャバクラに行ったことのない吉田は、キャバ嬢を見るのも初めてで、ドキドキしながら彼女を見た。
彼女はここがキャバクラであるかのように、慣れた手つきで酌をしながら話しはじめた。
「キャバやったのも中野が初めてだったの。最初は酔っぱらったオヤジにからかわれて、トイレで泣いたりしてたんだけど、マネージャーの竜ちゃんがいつも励ましてくれたのね。彼、チャラかったけど、女の子には優しかったの。それに、あたしと同じ東北出身で、自然と仲良くなって、彼の子供出来ちゃったんだ。でもね、あたしの不注意で、転んじゃって……」
「あら、あなたも大変だったのね……」
すっかり泣き止んだ丸の内さんが、お姉さんのような心配顔でキャバ嬢を見つめていた。
「あたしは、どうしても産みたかったの。でも、竜ちゃんはキャバクラのボーイから頑張って、もうすぐチーフってところまできてたのね。で、今は産めないって言うわけ。意見合わなくって……、そんなとき、家の前で転んじゃって破水しちゃったの。通りがかりの人が助けてくれて、病院行ったんだけど、先生は、赤ちゃんは保証できないって言うのよ」
「なんでそんな言い方するのよね……」
「だからあたしもムキになって、あたしはどうなってもいいから赤ちゃんだけは助けてよー、とか言っちゃって……。やさしそうな看護婦さんが、二人とも助けるように最善尽くすわよって言って下さったんだけど……。でもあたし、元々丈夫じゃなかったし、そのときも出血が止まらなかったみたいで。結局、赤ちゃん助けるだけでやっとだったみたいなの。天国に昇っていくとき、竜ちゃんたらお医者さんつかまえて、なんで助けてくれなかったのよーって泣いてたわ」
キャバ嬢の両目から涙がこぼれ出した。
「あら、そうだったの……。ところでヒトミちゃんだっけ。さっき田舎が東北って言ってたけど、どこかしら?」
「横手です」
「え!」
驚いた丸の内さんが、まじまじとヒトミを見つめていた。
何かを思い出したヒトミの表情が一変した。
「もしかして……、つね子姉さぅぅ……」
名前が出かかる寸前、酔っぱらっているとは思えない反射神経でヒトミを手元に抱き寄せた。
「そのなまえ……、こんど口に出したらぶっ殺す……」
ヒトミのおちょぼ口を塞いだ丸の内さんが、小声でささやくのが吉田の耳に聞こえてきた。
丸の内さん。本名『橘つね子』の脳裏に、過去の黒歴史がフラッシュバックした。
橘酒造の長女として秋田県横手市に出生。子供の頃から美人で成績優秀、地元名家の跡取り娘として、何不自由なく暮らしてきたが、たった一つの屈辱が、祖父に付けられた「つね子」であった。
何の因果か、祖母が亡くなったその日に産まれてしまい、つね子の生まれ変わりだと、ありえないことを言い出した祖父に、問答無用で付けられたんだと、母が気の毒そうに言っていた。
何度聞いても、戦前の匂いが漂うこの名前を好きになれなかった。祖父を恨んだ。祖父が死んだら改名しようと決めていたのに、自分が先に死んでしまった。
この名前はその後の彼女の人生に、たびたび黒い影を落としてきた。自己紹介が死ぬほど嫌いで、クラス替えの初日は必ず仮病を使って休んでいた。小学五年のとき、町の空手道場で一個上の男子から「ババアみたいな名前」とからかわれ、ボコボコに殴り続けて泣かしたことがあった。翌日には町中の噂になり、彼女の前でその名を口に出すものはいなくなった。その後、クラスの友達が、どことなく遠慮して話しかけてこなくなっていた。近寄りにくい存在になってしまったのだ。勉強して早稲田に合格したときは嬉しかった。これでこの町を抜け出せる。憧れの東京で丸の内OLになってやる。それで、仕事が出来るイケメンと結婚するんだ。と、心に誓っていた。
ヒトミにとって、そんな彼女は、同じ町内の憧れのお姉さんだった。幼稚園の頃、道で転んで泣いていたとき、優しく手を繋いで家まで送ってくれたことがあった。彼女が東京の大学に行くことになり、駅のホームに垂れ幕を立てて、町内総出で見送りをしたことがあった。町内会長の音頭で万歳三唱をして、つね子姉さんが恥ずかしそうに小さく手を振っていた姿は今でも目に焼き付いていた。いつか自分も東京に行くんだと心に決めていた。
そんなことはつゆ知らず、二人が感動の再会を果たして抱き合っているものだと勘違いした武ちゃんが「よーし、祝杯だー」と、ワインを一気に飲み干した。一番めんどくさい男に気付かれなかったと安心した丸ちゃんは、ヒトミのおちょぼ口の手を緩め、――あなたたち、分かってるわよね――と、鋭い眼つきで無言の圧力をかけてきた。
吉田は研修初日、丸の内さんが、本名ではなくコードネームで通した訳を、今更ながらに理解した。
「そうか、そうか、ヒトミちゃんも色々あったんだ。ところで、四角いメガネの……、えーっと、吉田君だっけ。あんたも自殺したんじゃなかったっけ」
武ちゃんが、手酌でワインを注ぎながら話を振ってきた。
「そ、そう……、ぼくも自殺です。でもぼくの場合、皆さんのようにカッコよく話せる死に方じゃないんです」
「死に方にカッコ良いも悪いもないのよ。さっさと話しなよ。メガネ坊や」
完全に気を取り直した丸の内さんが、強めの当たりを飛ばしてきた。
「ハイ……。じゃあ、自己紹介からですけど。吉田豊、二十七歳。丸岡商事という中堅商社に入社して三年目でした。生まれは岐阜県の岐阜市です。実家は千三百年続く鵜匠でした」
「うしょう?」
全員が首をかしげたのを見て、「すみません、説明不足で……。鵜飼っていえば良かったでしょうか。鵜飼を職業とする人を鵜匠っていうんです」
「あ、聞いたことある。川で鳥の首に紐くくり付けて、魚追い詰めるやつだろ」
武ちゃんが手を動かして、鵜匠の真似をした。
「まあ、簡単にまとめるとそういうことですけど。でも、長良川の鵜飼漁に携われるのは、鵜匠の家に生まれた長男だけの世襲制なんです。一人っ子のぼくも、生まれたときから鵜匠になるはずだったんですが、ぼくは鵜匠の家に生まれたのに、どういう訳か鳥自体が大の苦手で、鶏肉も食べられないんです。子供のころ、こんな気持ち悪い生き物なんかいなくなってしまえばいいのにと、衝動的に小屋のドアをわざと開けっ放しにしたことがあったんです。そしたら、そこらじゅう鳥だらけになって、近所の人が驚いて警察に通報したものだから、町の新聞にまで載っちゃって、大恥かいたと大目玉を食らいました」
「あらあら……」
呆れ顔の丸の内さんがグラスを空けた。
「そんなこともあって両親は、ぼくを無理に跡継ぎにすることをあきらめて、せめて普通のサラリーマンになれるようにと進学塾に入れたんです。おかげで地元の大学に進んで、丸岡商事に入社したんです」
「見かけ通りの、軟弱坊やだったのね……」
酔いの回った丸の内さんに、軽蔑のまなざしを向けられた。
「一人っ子のぼくは、両親から過保護に育てられたこともあり、自分で何かを決めたりするのが苦手だったんです。会社でも優柔不断で営業成績も上がらず……、課長に迷惑ばかりかけていたんです」
「あなたのそのダメさ加減が目に浮かぶわ……」
バリバリのキャリアOLだった丸の内さんは、仕事のできない男が嫌いなようだ。
「すみません」
女性上司に怒られたようにしょげかえる。
「昨年、会社の先輩と結婚し、妻のお腹に子供も出来て張り切っていたのですが、田舎で一人暮らしをしていた母が、早く孫の顔が見たいと言うので、東京に呼んで三人で同居したんです。最初は上手くやっていたのですが、しばらくすると、妻も自分のやり方があるようで、激しく言い争いをするようになったんです。そんなとき、ぼくは、どっちの味方をしていいか分からなくて……。自殺した日も、上司と飲んで帰ってきたら、二人の喧嘩がはじまったので屋上に逃げ出して、手摺りに寄りかかっていたんです。喧嘩がエスカレートして、屋上のドアが開いたとき、びっくりして体勢を崩してしまったんです。でも、いくら酔っぱらっているとはいえ、多少力を入れれば体勢を戻すことはできたんです。でもそのとき、その場から逃げ出したくなったぼくは……」
「聞けば聞くほど、情けないわね。あなたのような部下がいたら上司もさぞ迷惑だったでしょうね」
丸の内さんの歯に衣着せぬ毒舌が飛んで来る。
「おっしゃる通りです。課長にご迷惑をかけっぱなしでした。その日も課長と飲みに行って仕事のアドバイスを頂きました。でも、うっかり『課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました』という日記の下書きの一部だけが机に残っていて……。課長はぼくを自殺に追い込んだパワハラ課長のレッテルを貼られてしまったんです」
「最悪の部下ね。課長もお気の毒に……」
「それで、ぼくが死んだ翌週、プラットフォームに課長が来たんです。ぼくの家に謝りに行った後、酔っぱらって駅のホームから転落したって言ってました……」
「思い出したわ。私レクチャーしたわよ。でも彼、来てないわね。どうしたのかしら」
ワインから日本酒に変えた丸の内さんが首をかしげた。
「そうなんです。課長はぼくの後ろから、天国ロードを昇って来ました。いろいろと声を掛けていただいたので間違いありません。ぼくは入口手前で雷が落ちて気絶したんです。気がついたら、課長の姿がありませんでした」
「でも、あなたは自殺したのに魂に矢が刺さっていないわね」
「そうなんです、気がついたとき、矢が消えていたんです」
「雷で抜けたか、折れちゃったりしたんじゃないの?」
「それはないわ。あの矢は抜くことも折ることも出来ないの。修業して魂を浄化させないと消せないの」
「ぼくは天国の入口でストロー隊に抱きかかえられていました。そのとき、天国ロードの横を、何か黒っぽい塊が、真っ逆さまに落下していくのが見えたような気がしたんです。叫び声が聞こえたような気もします。あれは何だったんでしょうか……」
翌日研修所に行くと、丸の内さんとヒトミがコース選択の相談をしていた。その横で武ちゃんが珍しく物思いに耽けっていた。
「どっちのコースに行くか決めました?」
「なんだかよくわからんくてな。でもやっぱ、修行して現世戻って、今度こそプロ野球選手目指そうかなって思ってる」
その言葉にヒトミと話していた丸の内さんが反応した。
「ちょっと武ちゃんね。あたしの研修ちゃんと聞いてた? 何回も言うけどね、ここで修業するとだんだん若くなるの。最後は今までの記憶も何にもなくなるの。武ちゃんがもう一回、野球やるかどうかなんてわからないのよ」
丸の内さんはすっかりおせっかい焼きの姉さんになっていた。
「丸ちゃんさあ、理屈は分かるんだけどね。でもなんかこう、現世戻っても、俺のDNAみたいなものがちょこっとだけ残ってて、もう一回野球やるような気がすんのよ。前世は○○でした。とか言う人って結構いたりするじゃん」
「あんなもの嘘よ。期待しないほうがいいわ」
そのとき、雲っこに乗った長身の男が現れた。
左手に野球グラブをはめ、右手にボールを持ったユニフォーム姿の男だ。
「津田さんじゃないですか!」
顔を見て気づいた武ちゃんが驚いた。
津田恒美。二十七年前、脳腫瘍で亡くなった広島東洋カープの炎のストッパー。山口県の南陽高校で一年生からエースとして活躍した大投手だ。
津田投手が亡くなったとき、広島県民は揃って喪に服した。地元で八百屋を営む武ちゃんの両親も、ショックでしばらく仕事が手に付かず、一ケ月も店を閉めていたそうだ。
「よう、お前、キャッチャーやってたんだって? オレの球、受けてくれないか」
津田が武ちゃんに声を掛けた。キャッチャーをやっていたら、あの重い剛速球を一度は受けてみたいと、誰もが憧れるピッチャーだ。
「天国に野球チーム作ったんよ。チーム名は『ツネゴンズ』オレはピッチャー兼監督兼スカウトってところかな。野球チームのメンバーは公務員やけど、特別にチームのユニフォームを着られるのさ」
そう言って、ユニフォームの内ポケットから名刺を差し出した。
「オレがここ来たときは、普通の公務員やっとったのよ。でも三年前、アマテラス様が野球チームを作ることを許してくれたんで、この仕事をしておるのよ。メンバー八人そろって、キャッチャーだけ見つからんくてな。各地区回って探してたんだけど、この間T302にキャッチャーやってたやつが入ったって聞いたから、遠路はるばる会いにきたんだよ」
津田は大きな右手を差し出した。武ちゃんがアイドル歌手との握手会に来たかのようなうるんだ目で握り返していた。
「肩の調子も現役のとき以上に絶好調でよ。百五十キロのストレート投れるんだぜ。この球、受けられる奴を探してたんよ。はよう試合がしたくて毎日ウズウズしてるのよ」
「光栄です。ドラフトで指名されたような気分です。でも一チームじゃさすがに試合は出来んでしょうが……」
「心配すんな。衣さんがG855でチームを作っとる。お前が入ると、初めて試合ができるのよ」
「衣さんって、国民栄誉賞の衣笠さんですか?」
「そうよ、衣さんは天国でも鉄人よ。二年前にこっち来てから一日も欠かさず練習続けとるよ。たしか七百日間連続練習記録を作ったって天国日報のスポーツ欄に載っとったよ。衣さんは人望あるから、あっという間にメンバー集めて『テツジンズ』を作ったのよ。それから聞いて驚くな。先月の天国日報に、ノムさんがこっち来てすぐにチーム作ったって言うから、おりゃあ、ひっくり返ったよ」
「ノムさんって野村監督ですか?」
「そうよ。サッチーがノムさんより一足先にこっち来て、ゼネラルマネージャーになって選手集めてたのよ。『新人選手募集!』なんて、日報に書いてあっから、その記事よくよく読んでったらサッチーが書いとるんよ。チーム名まで『ボヤキーズ』って決めてな」
「サッチーって野村監督の奥さんですよね。よく、野村さんが来る前にそんなことできましたね」
「そこがサッチーよ。でも、やっぱ、ノムさんの手腕は誰もが知っとるから、あっという間に選手集まってな。あとは監督だけって感じだったんよ。でもさすがに心配になった選手の一人が、ホンマにノムさん来るんですよね? って、サッチーに聞いたらな、――もうすぐ来るから黙って待ってろ――って。そしたらそのあと、すぐこっちに来たもんだから、みんなびっくりして腰抜かしたらしいぜ」
「やっぱり、野村さんのことは沙知代さんが一番よくわかっていたんでしょうね」
「だからノムさんも喜んじゃって、もう一回ここでオレの再生工場やるぞーって、えらい、張り切っとるのよ」
「強敵ですね、ボヤキーズ」
二人は子供の様に盛り上がる。
「それから更に、更にだぞ。この間、仙さんが俺んとこ来てな、オー、津田! おれも野球チーム作るからノウハウを教えろよ。って言うんだよ。相変わらず気合入ってたよ」
「仙さんって、星野さんですか?」
「あたりきよ。燃える男、星野仙一よ。仙さんの魂みてびっくりよ。触ったらやけどしそうなぐらい真っ赤に燃え上がってんの。あんな魂みたことないな。チーム名は『センチャンズ』にするらしいぜ。これで天国にも四チームが出来るのよ。楽しくなるぜよ」
津田は本当に嬉しそうだ。
「分かりました。是非、ツネゴンズに入れて下さい。打倒テツジンズ! 打倒ボヤキーズ! 打倒センチャンズ! ですね」
武ちゃんも子供のような目をしていた。
「ちょっと武ちゃん、せっかくのお話に水を差すのは悪いけど、その話、もう一度考えたほうがいいわよ。一度天国に残るって決めたら現世には戻れないのよ。軽いノリで考えるべきではないわ」
丸ちゃんが口を挟んだ。
「津田さんの球を受けられるなんて、衣笠さんや野村さん、星野さんのチームと試合ができるなんて、プロ行けなかった俺に取っちゃ、夢の世界なんですよ。これ以上ない幸せです。まさに天国なんですよ」
武ちゃんが真顔で反論した。
「いいことばっかりじゃないの。現世のプロとは違うのよ。観客だってほとんどいないし、給料もでない。野球の道具だって自給自足で作ってるんだから、大したものじゃないのよ」
まるでお母さんのような心配顔の丸ちゃんだ。
「そんなのいいんです。純粋に俺は野球が好きなんです。津田さんとキャッチボールできるだけで嬉しいんです。丸ちゃん、どうか許してください。試合には是非ご招待しますから」
武ちゃんは深々と頭を下げた。丸ちゃんはそれ以上何も言わなかった。
結局、武ちゃん以外は修行コースを選んだ。
修行がスタートして間もない頃だった。
吉田が魂の操作の練習を兼ね、慣れない手付きで現世投影の呪文を唱えていると、偶然、黒いローブをまとった課長が現れた。
「課長じゃないですか!」
死神姿の郷原を見て叫んでいた。
課長がどうして死神に? 訳が分からない。どうすればいい? どうすれば……。落ち着け、落ち着け。こんなときこそ、ちゃんとやるんだ。魂に映る課長を見ながら必死に考えた。そして閃いた。
――今、現世に行けば課長に会える!
研修で習った呪文があった。魂に両手をかざし、現世行きの呪文を唱えた。しかし魂は反応しない。何度も試すが上手くいかない。質問の呪文があるのを思い出した。
「アマチャン・アマチャン・クエッション」
魂に丸の内さんの姿が浮かび出た。
「課長が死神になっているんです。いま現世に行って、課長をここに連れ戻したいんです!」
「無理よ」
突き放されたような冷たい答えが返ってきた。
「なぜですか?」
必死に食い下がる。
「現世投影の呪文を十分マスターしていないと、現世行きの呪文は使えないの。それに彼は死神に魂を売ったのよ。彼には魂が無いの。魂が無ければここには来られないの」
「課長が死神に魂を売った?」
意味が分からない。
「そんなわけありません、なにかの間違いです」
「ダメ、諦めな」
「ウソだ、ウソだ、そんなのウソだ! 丸の内さんお願いです、何とかして課長を……」
諦めきれない吉田は泣き続けた。とても修行どころではなくなった。吉田のショックは大きく泣き止む気配が無かった。彼はとうとう、『天国ホスピタル』に入れられた。