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天国の歩き方  作者: 三田村 保歩
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白い天体に近づくと、ゆっくりと自転しているのがわかった。目を凝らしてよく見ると、薄い雲の隙間から、疑いようもない日本列島が現れた。しかもその左側にはうっすらと茶色がかったユーラシア大陸が、赤道の下側には見慣れたオセアニア大陸がはっきりと見えていた。

――地球が二つある?

青い地球と白い地球が向かい合い、双子の地球のように、同じ形と大きさで、静かな宇宙に並んで浮かんでいた。

郷原は更に白い天体に向かってどんどん上昇していった。

やがて周りは真っ白な雲に覆われて、少し先に、ぼんやりと三角屋根の建物が見えてきた。上昇する力が弱まり。足を突っ張ると地面に立つことができた。ちょうど地球と白い天体の中間地点あたりだろうか。

建物の中は駅の待合所のような作りで、長めの白テーブルに十人前後がそれぞれの佇まいで座っていた。老人が多かったが子供や中年もいた。

ラクダの股引のじいさん、風呂上がりのシャツ一枚のばあさん。手術着みたいなものを羽織った中年の女や、出勤途中らしいサラリーマンもいた。奥には幼稚園の帽子に短パン姿の男の子……。みんな死んだときの姿のままでここに来ているようだ。

お互い顔見知り同士なのか、話し込んでいるものもいれば、呆然と頭を垂れているものもいた。みんな胸の辺りが、蛍のように鈍く光っていた。服の上から透けて見える魂は、色や大きさが微妙に違っていた。子供の魂はきれいだが、老人のはくすんだ色で輝きも弱い。油汚れのようなものが付着し、奥まで染み込んでいるようにも見えた。魂も年季が入ると汚れていくのだろうか。思わず自分の魂と見比べた。

建物の入口から白装束の若い女が出てきた。

「ようこそプラットフォームへ。天国行きのチケットです」

表情一つ変えない女が木札を差し出した。『T302・三十二番』とある。

――てんごくゆき?

あの白い天体って天国なのか? プラットフォームって何なんだ? 

混乱しながら建物に入り、部屋の片隅を見て更に驚いた。吉田が体育座りで背中を丸めていた。

「吉田じゃねーか――」

大声で叫んでいた。

「課長おぉぉぉ――、どうしてここにぃぃぃ――」

顔を上げた吉田が泣きじゃくりながら郷原の胸に飛び込んだ。

「どうやら、オレも死んじまったようだ」

郷原が改めて吉田の顔を見た。

「何で課長が? 先日お会いしたときはあんなにお元気だったのに」

「色々あってな。お前のことを考えているうちに、酔っぱらってホームに落ちて電車に轢かれちまったんだ」

「それって、ぼくの営業成績が上がらないのを苦に電車に飛び込んじゃったってことですか?」

「いやいや、そんなことで死んだりしない。オレが自分で自分のクツヒモ踏んじまってホームに落ちたんだ。これはお前のせいじゃない。自己責任だから心配すんな」

「課長はいつもぼくをかばってくれましたよね。死んでまでかばってくれるんですね……」

営業会議で支店長に詰められるたび、タバコ部屋で励ましてもらったことを思い出しているようだ。

「いやいや、本当に違うんだ。とにかくお前のせいじゃないから安心しろ」

先週会ったばかりのはずなのに、吉田の顔が妙に懐かしい。

「それより吉田。オレはお前になんて言って詫びたらいいか……」

「詫びる?」

何のことだか分からない様子だ。神妙な顔つきで首を傾けた。

「オレの指導が行き過ぎていたようだ。オレは良かれと思って厳しく指導してきたが、結果的にお前を苦しめていたんだな。オレは全く気が付かなかった。取り返しのつかないことになってしまった。オレは恥ずかしながら、パワハラの定義を理解していなかったんだ。課長失格だよ。本当に申し訳ない。この通りだ!」

郷原は膝を付き、白い地面に頭をこすりつけた。

「何するんですか! やめて下さい。それに、パワハラって何のことですか?」

顔を上げると、吉田が豆鉄砲を食らった鳩のような目で立っていた。

「居酒屋でお前と飲んだ後、意気投合して帰ったじゃないか。でも、あの後お前は自殺した。それが何でなのか、オレはいまだにわかんねーんだよ」

「あの日は……、課長と別れて家に着くと、妻と母が喧嘩をはじめて……」

「ちげーよ。『郷原課長についていくのはしんどいです。ぼくは疲れました』って書き残して、死んだんだよな!」

「あっ!」

吉田が何かを思い出した。

頬を緩めていつもの軽い調子でしゃべりだす。

「なーんだ。あれは日記の下書きですよ。ぼくは誰にも言ってなかったんですけど、会社に入ってから日記を付けているんです。あの日は、妻と母の喧嘩がはじまったものだから、下書きの途中で気が散って、直接日記に書いたんです。だから日記の方には『でも、課長を信じてついていきます! 今日はありがとうございました。明日のプレゼン、頑張ってきます!』と、続きを書いていますから……。いやだなぁ、そんな怖い顔して、誤解ですよぉー」

「はあ~~。貴様、何たわけたこと言ってんだ! 仕事もなんでも中途半端なところで終わらせやがって! その下書きのせいで、オレはお前を自殺に追い込んだ張本人になっているんだぞ。そうなることぐらい予想できなかったんか!」

「ま、まさかぁ……。えー、す、すみません。そ、そのときは死ぬつもりもなかったんで……」

頭を抱えて蹲る。困ったときのいつものポーズだ。

「シャレにならんぞ。どうしてくれるんだ。だったら聞くけど、お前結局、何で死んだんだ?」

「あの日は律子と母の喧嘩がいつにも増してエスカレートしたんです。――あなたは私とお母様のどっちの味方なの? ――(ゆたか)ちゃん。私の言うことが聞けないの? っていう感じで……」

妻と母のセリフを交互に繰り返す。

「ぼくは母も律子も大切で、どっちも裏切ることができないんです。ぼくは一人で屋上に行きました。喧嘩がエキサイトすると、いつもそこに逃げるんです」

屋上には給水用の貯水槽や電気系統の配電施設が並んでいるが、入口のカギが故障していたのでいつの間にか住人の喫煙スペースになっていた。

「窓が開いていたので二人の喧嘩が屋上にもはっきり聞こえてきました。食器を叩きつけ、割れる音が響きました。妻が何かを叫びながら駆け上がって来るのが聞こえてきました。屋上の手摺りに腰を付けていたぼくは、ドアが開き、妻の怒り狂った顔を見た瞬間、びっくりして後ろにバランスを崩してしまいました。そのとき、魔がさしたというか、どうでもよくなったというか、このまま死んだら楽になれるよな。という気がして、体勢を立て直す努力をしなかったんです」

「お前っていうやつは……」

それを聞いて力が抜けた。吉田は仕事でも追い込まれると一人で抱え込むことが多かった。

「オレはな、お前の中途半端なメモ書きのせいで、すっかりパワハラ課長の犯罪者になっちまったんだぞ。その上、それを苦にして電車に飛び込んだ、責任逃れのクソ課長って、きっと明日のワイドショーは持ちきりだよ」

「ぼくのせいで課長が犯罪者のパワハラ課長だなんて……。とんでもない誤解ですよ。ぼくは何てバカなことを。このままじゃ課長の名誉が……」

吉田がまた頭を抱えて蹲る。

「それよりお前の日記ってどこにあるんだよ」

「それが……」

いたずらをした子供が親に問い詰められているかのように口ごもる。

「何だよ、はっきり言えよ」

「妻や母にも言えないことを書いていたので、見つからない場所に隠してあります」

「何処にだよ」

「見かけは百科事典なんですが、中に隠し場所があって。その中に……」

「しょうがねー野郎だな。何でそんなわかりづらいところに隠すんだよ」

「すみません……」

申し訳なさそうに項垂(うなだ)れた。

「でも少しだけホッとしたよ。オレは自分の指導のどこが間違っていたのかわからなくなって、悶々としてたんだ。今まで自信を持ってやってきたことが崩れてしまってな。このまま本当のことを知らないで生きてても、一生悩みながら十字架背負っていくしかなかったものな」

倒れかけていた自分の信念が、ギリギリのところでバランスを取り戻した感じがした。ただ、それに続いて投げやりな気持ちが溢れ出た。

「オレはお前と違って独身だし彼女もいない。オレが死んだって悲しむやつなんて一人もいないのさ。ワイドショーや週刊誌で、パワハラクソ課長って叩かれたって、今更どうでもいいことよ」

「でも、課長のご両親がいるでしょう」

「本当の親は子供のころ死んじまったのよ。オレは養子で育ったのさ。誰にも言ってなかったけどな」

初めてきく話に吉田が真顔になった。

「両親と二つ上の兄貴の四人家族で育ったんだけど、中二のとき戸籍謄本見たら、オレの本当の名前は田中剛(たけ)()で、六歳のとき、郷原家の養子になってたのよ。しかも生みの親は二人とも同じ日に死んでいた。オレが何で養子になったのか、生みの親は何で死んだのか、何度か聞こうとしたけど、複雑な事情がある気がして聞けなかったのよ」

「複雑な事情って?」

「そりゃあ想像つくだろ。家が火事になってオレだけ助かったとか、家族で心中してオレだけ生き残ったとか、考えれば考えるほど、悪いことばかり想像しちまうんだよ」

「そんなぁ……」

温室育ちの吉田は、こんなときどう答えてよいか分からないようだ。

「オレな、養子になる前の田中剛志の記憶って、まるっきりねーんだよ」

「記憶喪失ですか?」

「ものすごい恐怖とか、思い出したくないような出来事があると、自衛本能が働いてその記憶を脳のどっかに鍵かけて、出てこねえように閉じ込めてしまうのよ」

「聞いたことがあります」

「高二のときにな、唯一好きだった養父が病気で死んじまったのよ」

「お母さんや兄さんとは仲良くなかったんですか?」

「兄貴なんか冷たいもんよ。中一のときだったかなぁ……、兄貴の同級生に因縁つけられてボコボコにされてるのに、遠巻きに見てるだけで知らねーふりよ」

頭の中に、思い出したくない過去が回りだした。

「母は目が怖くてな。顔だけ笑って目の奥で監視しているような感じだよ。本人は意識してなくても子供ながらに感じるもんよ。まあ、優しい両親に育てられた(ゆたか)ちゃんじゃわからんかもしれんがな」

「すみません……」

「成績は良かったのよ。田舎の学校だったけど学年で一番取ったこともあったしな。とにかく早く家を出たくて、学校推薦で丸岡商事の内定もらって、卒業式の日に荷物まとめて東京出てきたんだよ。それ以来一度も連絡してないし、向こうもしてこない。きっとせいせいしたんだよ。どこの馬の骨とも分からん子供を高校まで出したんだから、十分責任果たしたって思っているんだよ」

「課長にそんな過去があったなんて……」

自分のことのようにショックを受けたようだ。仕事の出来は良くないが、こういう憎めないところが吉田にはあった。

「こんな辛気臭い話、誰にも話すつもりなかったけど、死んじまったから解禁よ。お前にはいつも偉そうなことばかり言ってたけど、本当は意気地なしで、ひねくれもののしょうもない男なのよ。その上、友達も少ないし、上司や信頼してた部下にも裏切られた。オレが死んだって悲しむ奴なんかいねーのさ……」

話している途中で悲しくなってきた。


「そう言えば課長、ぼくは先程レクチャーを受けてきました」

「レクチャー?」

「これから行く天国のことを色々と教えてくれるんです」

「やっぱりあの白い天体は天国なのか?」

「ええ、ほんとびっくりですよ。あんなところに天国があったなんて……。小部屋に行って、DVDのようなものを見せられるんです。天国に行ったら修行がどうとか、なんやかんやといろんなことを説明してきます」

「なんやかんやって何だよ」

相変わらず吉田の話は要領を得ない。

「ぼくたちはここから天国ロードを昇って、天国に入るんです。天国の入口は直径三十センチぐらいの小さな穴なんです。そこを通り抜けられたら天国に行けて、ダメだったら地獄に落ちてしまうんです」

「そんな仕組みがあったのか。驚きだな。でも直径三十センチは小さすぎないか? 太った人間じゃとても無理だぜ」

両手を広げて直径三十センチをイメージした。

「身体の大きさは関係ないんです。魂が通過できれば良いようです」

「そうか、そんなら何とかなるだろう。オレもお前もせいぜい十センチぐらいだな」

「それがそうでもないんです。ここをよく見てください」

吉田の魂をよく見ると、五十センチぐらいのアーチェリーの矢のようなものが、串団子のように貫通していた。

「なんでそんなもんが刺さってるんだ?」

「自殺した人間は刺さるんです」

「オレにはないぞ」

「課長は自殺じゃありません。事故ですから……」

「まあ、確かにな……」

酔っぱらってクツヒモを踏んでしまった状況を思い出していた。

「天国に入るとき、矢の向きが重要だと言われました。向きが悪いと入口の扉に引っ掛かってしまうのです」

「折ったり、抜いたりできんのか?」

「ダメみたいです」

「厄介だなあ……」

「でもぼくの矢は、背骨のようにまっすぐ刺さっているから、このままの姿勢で昇っていけば問題ないそうです。身体が傾いたりすると、扉に引っ掛かってしまうので、そこだけ注意が必要だと言われました」

「だったら、バンザイしながらまっすぐ昇って行けばいいだろう」

「そうなんです。ただ……、ぼくの矢は他の自殺者より長いので、バランスを崩さないように注意しろと言われました」

「何でお前の矢は長いのよ?」

「若くして自殺してしまったのと、母に対する親不孝、妻や生まれてくる子供に対する責任の放棄もあって、罪が大きいのだと言われました」

「罪の大きさが矢の長さに現れるということか……。それで、大丈夫なのか?」

「ぼくの場合、扉に引っ掛かる確率は、せいぜい五パーセント程度だと言われました。普通に昇っていけば大丈夫だから、あまり心配しなくても良いと言われました」


三十二番の呼び出しがあった。

郷原のレクチャーがはじまるようだ。

個室に案内されると、さっきの白装束の女が待っていた。

「天国はご覧になりましたか?」

「ええ、双子の地球みたいに浮かんでいたのでびっくりしました」

「今日は雲が少なかったので、よく見えたと思います」

「いつからあったんですか? 全く気がつきませんでした」

「地球ができたころからあるのです。生きているときは、見ることも、触れることも出来ませんが……」

天国なんて三途の川の先にあるものだと勝手に思い込んでいたが全く違うようだ。

女は郷原の驚きなど意に介さず、淡々と説明を続けていく。

「これからあなたは、天国で魂を浄化する修行に入ります」

「今更修業って……。それに、浄化って何のことですか?」

女の言葉がまるで理解できない。

「映像をご覧なさい」

女は感情のない声でそう言うと、スタートボタンを押した。


映像は『天国とは魂の再生システムです』という説明からはじまった。

魂の再生システムなどと言われても、さっぱりピンとこない。仕方なく一方的に流される説明を聞いていく。

『現世で過ごすうち、魂には穢れが蓄積していきます。天国は修行によって穢れを浄化し、もう一度ピカピカの魂に再生し、現世に転生(リインカネーション)する場所なのです』

――転生(リインカネーション)って、また、生き返るのかよ。

心の中で絶句した。

『ほとんどの魂は、天国で修行をして現世に転生しますが、永久に天国に残って天国運営のサポートをする道もあります。修業を行い魂を浄化するのを“修行コース”、天国に残って公務に就くのを“公務員コース”と言いますが、どちらかを選ばなくてはなりません』

どこかの専門学校の選択コースみたいな名前が付いていた。

『修業は現世で過ごした同じ年月を行い、修業を終えると背中に羽の生えた天使になって、現世のどこかに新しい命として転生(リインカネーション)するのです』

――現世で過ごした同じ年月? それじゃあ、オレは三十三年間も修行するのかよ。

気が遠くなった。

『今、あなたがいるこの場所は、現世と天国の中間地点にあるプラットフォームという場所です』

天国と地球の中間に、無数の(かたまり)が薄く集まった場所が映っていた。これがプラとフォームか……。その場所に立つとよくわからないが、映像を見て今自分がいる位置関係がイメージできた。

『順番がくると、プラットフォームから天国ロードを昇って天国に入ります』

透明のチューブのような天国ロードに入り、プラットフォームから天国の入口まで昇っていく様子が映っていた。

『天国の入口では、“ストロー隊”が待機し、なかなか昇って行かない魂を迎え入れるようサポートしています』

――ストロー隊?

白装束を着た十人一組の鼓笛隊のようなチームが、先端にラッパがついたピアニカのホースのような管をくわえて、息を吸い込み魂を吸い上げる様子が映っていた。


十五分ぐらいの説明が終わり、部屋が明るくなった。

どれもこれも初めて聞く話で、頭の中が消化しきれず爆発しかけていた。

「今見た映像は、ほんのさわりです。実際に上に行くと、もっと驚くことがたくさん出てきますので覚悟しておいてください。それともう一つ。気をつけてほしいことがあります」

頭が消化しきれない郷原に、追い打ちをかけるように注意事項を補足した。

「最近この周辺に死神が現れます。魂を売ってくれと言って誘ってきますが、相手にしてはいけません。彼は魂を奪って天国へ行こうとしているのです。魂を渡してしまうと、代わりに死神になってしまいます」

「オレが死神になってしまうのか?」

「死神もたくさんいて、担当地区があるようです。この地区を担当している死神は、百年以上、同じ死神です。きっと今の仕事に飽き飽きしているのでしょう。いろいろと誘ってくるので気をつけてください」


待合所に戻ると、下から新しい魂が昇ってくるのが見えた。三十三番だ。野球チームのユニフォームと帽子をかぶっていた。魂はちょうど野球ボールぐらいの大きさで、ところどころ泥が染みついているような色合いだ。三十代に見えるが、どこか少年のような目をしていた。  

続いて三十四番が昇ってきた。二十代のキャバ嬢風の女だ。病院の手術着のようなものを羽織っていた。黒目がちな瞳に、長いつけまつげ。イチゴ模様のネイルを見ながら昇ってきた。小柄な体型に、まだあどけなさの残る顔がのっていた。小ぶりの魂には、ところどころシミのような模様がついていた。


そろそろ天国ロードに入る順番が回ってくる頃、黒いローブに包まれた不気味な男がフラフラと現れた。

「旦那はんや……」

地の底から這い出てきたようなしわがれ声だ。

「誰だ!」

黒ローブを頭から被り、顔の表情がわからない。

顔の一部が微かに見えた。灰褐色の骸骨のような肌。真っ黒な目は底なしの空洞のようだ。黒いローブに対して、歯だけが蛍光塗料でも塗っているかのように白く光っていた。

――こいつが例の死神か? 気味悪い野郎だ……。

「旦那はんの魂は年の割にえらいきれいですなぁ。現世では、まっとうに生きてこられたのでしょうな。あっしなんか、悪事しすぎて魂が重くなり、天国ロードの途中で地獄の底に真っ逆さまですわ。閻魔さまも呆れ果て、あっしをこんな姿にしてしまったのです」

死神がゆっくりとローブを閉じて近づいてきた。

「ところで旦那、そのきれいな魂を、あっしに売ってはくれまへんか?」

「断る!」

レクチャー通りの問いかけにきっぱりと否定した。

「天国なんかへ行ったって、どこもここも真っ白けっけのつまらん世界でっせ」

聞こえないふりをしていたが、死神は遠慮なしに話を続けていく。

「地獄ときちゃあ、真っ赤っかのエキサイティングで刺激的な世界でっせ。パワハラ課長でならした旦那には、地獄の方がお似合いに思えますがなぁ……」

「余計なお世話だ!」

パワハラのことまで知っているのにドキリとした。死神はフラフラと漂いながら話を続けていく。

「ところで旦那。あんたの部下、三十一番の。奴の魂に突き刺さったあの矢はちょっと厄介でっせ。あのまんまじゃ、入口の扉に引っかかって地獄落ちじゃろうなぁ」

「そんなことはない! 背筋を伸ばして昇って行けば大丈夫だと説明を受けている」

「おーっと、それはずいぶん楽観的な考えでっせ。丸岡商事の課長さんにしちゃぁ、もうちょっとリスク管理を勉強なさったほうが良いでっせ」

「貴様にリスク管理ができるんか! リスク管理が出来たら死神なんかになっていないだろうが」

「まあまあ、そんなにピリピリせんで聞いてほしいんじゃが、旦那と三十一番が天国ロードに入るのは、一週間後じゃが、天気予報ちゃんと聞いてまっか?」

昨日白装束の女から、天国ロードに入る日程が一週間後との連絡を受けていた。

「そんなもん聞くか! テレビもラジオもないんだぞ」

「それは、それは。秘密の情報網がご自慢の課長さんらしくもない。一週間後は大型台風直撃でっせ」

――何でこいつは、丸岡商事のことや秘密の情報網のことまで知っているんだ!

郷原は死神に自分の行動を全て覗かれていたような気がして恐ろしくなった。それと、確かにいつ台風が来てもおかしくない季節であることが、死神の言っていることがまんざら嘘でもないような気がして不安になってきた。

「台風が重なったときの地獄落下率を知ってまっか? あーんな長い矢が刺さってちゃ、そりゃあ、確実に引っかかってしまいますでぇ」

死神が腕を組み、いかにも心配だという素ぶりで言い切った。

「さっきから、適当なことをほざくな!」

「適当とは失礼な……。死神歴百三十八年のあっしが言うんだから間違いないでっせ。あれじゃぁ、きりもみみたいになって、確実に入口の扉に引っかかってしまいますなぁ」

「そんなもん、天国ロードに入る日を変更すれば済む話だろ」

「天国ロードに入るのに、天候など一切考慮せん。地球の自転と同じで、寸分の狂いなく順番が回ってくるのじゃ!」

死神がぴしゃりと否定した。

「じゃあどうすればいいんだ。何か方法はないのか?」

思わず死神に聞いていた。

「まあ、ないこともないんじゃがなぁ……」

勿体ぶったように言いよどむ。

「知ってるなら、さっさと言えよ!」

「簡単ですよ。あっしのこの大鎌で奴の矢をぶった切ればいいのよ」

「そんなことできるのか? あの矢は、切り落としたり、抜いたりできないはずだ」

吉田の言葉を思い出す。

「ひっひっひ。ところがどっこい、この死神様の大鎌で切れないものはないんじゃよ」

そう言って郷原の目の前で左右に大鎌を振り回す。

「だったら、今すぐ切ってくれ」

「いやなこった。ここで百万回土下座されたってお断りでっせ。吉田とかいうクソガキなど、あっしにとっちゃあどうでもええ話や。でも旦那。一つだけ、取っておきの方法がありまっせ」

悪代官にすり寄る越後屋のようなセリフで顔を近づけた。

「どんな方法だ……」

「簡単ですよ。旦那が死神になって、この大鎌で奴の矢をぶった切ればよいのですよ」

――オレが死神になる……。

白装束の言葉を思い出した。奴の誘いにのっちゃいけない。

「まあ、即答できる話でもないですな。もしその気になったら、いつでもお声を掛けて下さいな。パワハラ課長さんよ」

それだけ言い残し、死神はどこかに消えていった。


一週間後の朝が来た。天国ロードのスタンバイは三十一番の吉田が夜の十時、三十二番の郷原は十時十五分との連絡があった。

郷原の後ろには、三十三番の野球選手、三十四番のキャバ嬢が続くのだろう。

死神が現れ、後ろで様子を窺っていた。

死神のラジオから天気予報が聞こえてきた。それによると、台風の速度が予定より遅く、風の影響が出るのは明日の朝だということだ。

ここから天国の入口までは五時間だ。なんとか大丈夫そうだ。ちょっと安心したが、午後三時を過ぎた頃、天国ロードの中間ポイントにトラブルが発生し、修理が必要だと案内があった。

――なんでこのタイミングで。早くしてくれよ……。

固唾をのんで修理を待った。

結局六時間遅れで天国ロードは再開した。

風が強くなってきた。台風が速度を上げて近づいて来たようだ。横殴りの雨が容赦なく降り続き、雲の中で雷が光った。吉田が慎重に天国ロードに入った。

「行ってきます」

片手で敬礼のポーズを取り、緊張の面持ちで郷原を見た。

「大丈夫だ。背筋を伸ばしてな。バンザイの姿勢を崩すなよ」

天国ロードは透明のチューブのようなもので、幽体離脱した魂を天国に運ぶ専用空間だ。死んで初めて見えるもので、現世には存在しないもの。よって、現世の雨風などは容赦なく中に入ってくるので雨除けにもならない。

中に入ると微かな上昇気流で吉田の身体が宙に浮く。これは天国と現世との気圧差と、ストロー隊の吸い上げによるものだ。

吉田はアドバイス通り、両腕を上に伸ばしたバンザイの姿勢で上昇していった。郷原がエントランスで吉田の後ろ姿を見守り、その斜め後から死神が様子を伺っていた。

雨が更に強くなってきた。それでも風がいくぶん弱くなったのには助かった。

郷原は天国ロードに入り、吉田の後ろを昇っていく。中間地点を通過した。少し遅れだした吉田が、郷原のすぐ上をまっすぐに手を伸ばしバランスを保ちながら上がっていく。

「うまいぞ、気を抜くな!」

あと少しで吉田の手が入口の扉に届くときだった。

目の前で強烈な閃光が瞬いた。郷原の頭の中が真っ白になった。ものすごい圧力が全身にかかり、数十メートルほど落下した。続いて、『ドドーン』と、ものすごい爆音が鼓膜をつんざいた。

見上げると吉田の身体が大きく横に傾いていた。ぐったりして動かない。吉田の矢に雷が落ちたのだ。

「吉田あぁぁぁぁ―――」

ありったけの声で叫んだがピクリとも動かない。気絶しているようだ。ストロー隊が統制の取れた鼓笛隊(こてきたい)のように号令を掛け合い吉田を吸い上げる。横に倒れた吉田が少しずつ上昇しはじめた。だがこのままの体勢では扉に引っかかる。

「吉田あぁぁ――、目を覚ませ――、 身体を起こすんだ――」

やはり、横向きになった矢が扉に引っかかる。

ストロー隊が、ひょっとこのようにほっぺたを膨らませ、吸ったり吐いたりを繰り返す。横向きの体勢を戻そうと、一度吉田を十メートルぐらい落下させてから、反動をつけて一斉に吸い上げるがうまくいかない。必死の形相の隊長が、十人の白装束を、素早く五人二組に分け、頭側五人で息を吸い、足側五人が息を吐いてみたが、これもうまくいかない。

吉田は気絶したまま、扉の真下でぐったりと横になっていた。

とうとう郷原が吉田のすぐ下まで近づきストップした。その更に下には野球選手の姿も見えてきた。

「残り時間はどのくらいだ?」

扉の奥から緊迫した声が聞こえてきた。

「限界です。三十二番が止まってます。三十三番も見えています。次がラストチャンスです」

――これはまずい!

「ちょっと待ってくれー」

天国の入口に向かって叫んでいた。天国ロードの気流が止まった。

傍らでニタニタ見物している死神に合図を送った。

「お呼びでしょうか?」

死神の嬉しそうな声が不気味に響いた。

「例の取引に応じよう」

「え、ほんまかいな」

「本当だ。どうすればいい? 早くしてくれ」

「えーっと……」

予想外の展開に、死神はあわてて自分のローブを脱ぎだした。

「オー、なんとラッキーな! 死神はじまって以来の大奇跡じゃ~」

死神は郷原の魂を胸から奪うように抜き取ると、かわりにローブと大鎌を放り投げ、サッサっと天国ロードに入ってきた。

「クックック……。これさえあれば夢にまで見た天国じゃ。さて旦那、そこの大鎌でとっとと奴の矢を叩き切るがよい」

全身黒のタイツになった死神が、気味悪い笑みを浮かべていた。

郷原は急いで大鎌を手に取った。

「そのまま動くなよ」

いけ好かない矢を叩き切った。そして天国の入口に向かって叫んだ。

「これで大丈夫だあ~ 早くこいつを入れてくれ――」

ストロー隊が一斉に吸い上げた。

間に合った。

ホッとして全身の力が抜けた。

吉田が白装束の隊長に抱えられ、頬をたたかれていた。

扉の周りに集合したストロー隊が一斉に立ち上がり、死神になった郷原に礼をした。

「吉田あぁぁぁ~~ 元気でな―――」

大鎌を振り上げ、左右に振った。

ぐったりと白装束に身を預けた吉田が、うつろな目を開けた。

――よかった。これでよかったんだ……。

自分に言い聞かせた。

同時に身体が反転し、真っ逆さまに地の底に向かって落ちていった。



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