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天国の歩き方  作者: 三田村 保歩
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郷原剛志はまもなく六歳になる。

三十三歳で天国に来て、伊藤に指導教官の職を譲ってから二十七年が過ぎていた。魂の色もきれいになり、残り六年となったヒストリーも薄くなっていた。

昨日、一週間後にクリームハウスの迎えがくるとの連絡を受けていた。ここで修業をするのもあと少しだ。

酩酊して井の頭線のホームに飛び込んでしまったところからスタートしたヒストリーは、丸岡商事での十四年間を経て、函館の高校、中学、小学まで遡り、そして今日、一九九七年七月十二日のヒストリーは、これまで見た中で一番壮絶で重たいものだった。

その日、田中屋に常連客が集まり、六歳の誕生会が開かれていた。

夜の十時過ぎに、何の前触れもなく発生した地震による大津波は、あっという間に田中屋を飲み込んだ。島の沿岸が次々と高波に襲われ、たくさんの島民が海の中を彷徨っていた。真っ暗で何も見えない空に悲鳴が反響した。船の壊れた破片に死にもの狂いで摑まるもの。あっという間に遠くに流され波の中へと消えゆくもの。海に沈んだまま浮かんでこない子供に対し、気が狂ったように泣き叫ぶ母親。力尽きてうつ伏せのまま海を漂う老女……。地獄絵図のような場面に剛志は慄いた。

そんな中、父ちゃんが店の常連たちを救おうと、必死にもがいているのが目に入った。常連客は皆、完全に酔っぱらっていて何が起こったのかわからないようだ。父ちゃんはあちこちから流れてくる木材を拾い集めては、みんなにあてがっていた。俺のせいだと、喚くように謝っていた。

母ちゃんの割烹着にしがみつく自分がいた。ちょうど流れてきた救助用の大きな浮き輪を手に取ると、しっかりと身体に縛り付けてくれた。

――母ちゃんが付けておくれよ。

――母ちゃんは泳げるから。絶対に離しちゃだめよ。

見たこともない、吊り上がった目の母ちゃん。

次の瞬間、海底のドロを巻き込んだ真っ黒な高波が、なべつる岩を飲み込むように襲ってきた。奥尻の港から山の中腹までの一帯を、あっという間に覆いつくし、すべてを壊滅させていった……。


翌日。

昨日のヒストリーの衝撃が癒えぬまま、剛志はヒストリーを開いた。

地震前日のヒストリーだ。海中メガネをつけた海パンの剛志が、なべつる岩の周りの浅瀬に何度も潜っていた。バケツ一杯になったウニとアワビを田中屋に持ち帰り、自慢げに父ちゃんに渡していた。

「ター坊、えらいぞー。ちゃんとやれば、ちゃんとなるんだよ」

――この言葉、父ちゃんから教わったんか……

いつの間にか自分のポリシーとしてきたこの言葉は、子供の頃、父ちゃんから教えてもらったものだった。

明日(あした)の誕生会で、みんなにごちそうしましょうね」

母ちゃんがバケツのウニとアワビを大切そうに取り出して、店の水槽に移していた。

父ちゃんと母ちゃんに無性に会いたくなった。

――オレのこと、何で嫌いになったのかはわからない。

でも、最後に父ちゃんの目を見たとき、泣いていたようにも見えた……。

剛志は居ても立ってもいられなくなった。

現世に戻る前に、自分を産んでくれ、六歳まで大切に育ててくれたお礼だけでも言っておきたかった。これだけは、ちゃんとやる。ちゃんとやらねばならないことだ……。

でも、どうやったら会えるだろう。五日後には施設行きの迎えがくる。ここから奥尻まではかなりの距離がある。ツネゴンズの応援に行ったときは、公務員だったから雲っこに乗れたけど……。

――雲っこ……。

そうだ、丸ちゃんに頼んでみよう。

剛志は手紙を書いた。

施設の迎えが来る前日の朝、雲っこに乗ったユニフォーム姿の丸ちゃんが現れた。久しぶりの再会だ。

「六歳になるとこんなかわいい顔になるんだね」

懐かしそうに剛志の顔を見回した。丸ちゃんは、相変わらずの気風の良さで、ツネゴンズのマネージャー姿が益々板についていた。

「奥尻の父ちゃんと母ちゃんに会いたいんだ」

「いいわよ、ター坊のお願いなら」

丸ちゃんが二つ返事で了解すると、ユニフォームのポケットから、かっこよく笛を取り出した。

「奥尻まで送ってちょうだい。超特急でね!」

丸ちゃんは剛志を抱えて雲っこに乗せた。

「あたしも、こんな子供が欲しいなぁ……」

ちょっとだけ寂しそうな顔をした。

「ほれ、行ってきな。父ちゃん、母ちゃんと仲直りしてくるんだよー」

下を覗くと丸ちゃんが、あの日見た三塁コーチャーのように、両手を大きく回していた。


あっという間に奥尻に着いた。

早速、田中屋に向かった。なべつる岩の手前にあると覚えていたのですぐにみつかった。見覚えのある暖簾が掛かっていた。

――今頃、どの面下げて現れるんじゃ――

忘れもしない、あのときの父ちゃんの言葉が頭を過った。

勇気を出してドアを開けた。

「準備中だよ」

――あれ、父ちゃんの声じゃない……。

恐る恐る暖簾をくぐると、見覚えのある二人と目が合った。

「……。タ、ター坊か?」

驚いた長さんが固まった。両手で口を押さえた明美さんも声が出ない。

「おーおー、よく来たなー、待っとったよー」

ようやく長さんが厨房から飛び出した。

「父ちゃんと母ちゃんは?」

剛志が田中屋を見渡した。

「父ちゃんと母ちゃんなー、この間、六歳になって施設に行きおったんじゃ~」

長さんが申し訳なさそうに切り出した。

「あんた、そんなこと言ったって分からないでしょ」

明美さんが慌てて出てきて剛志を抱き寄せた。

「あのね、あたしたち、ター坊の父ちゃん、母ちゃんの代わりに、田中屋を引き継いだの。奥尻の人、みんなの署名集めて、修行コースに転換してもらったの。分かるかしら?」

「うん、ぼくも署名集めてもらって修行コースになったから……」

「そう言えばそうね。子供のター坊になってるものね。あんまりびっくりして気がつかなかったわ」

「ほんとじゃ、昔のター坊じゃ。ワシがいつも膝にのっけてたター坊が来たもんじゃから、びっくらこいて、何が何だか分からんかったよ」

二人は懐かしそうに剛志を見た。

「田ちゃんたちが施設ば入るとき、送別会ここでやったんだけどな、ター坊も呼ぶか迷ったのよ。でも、田ちゃんも奈美ちゃんも六歳じゃあ、何にもわからんべ。かえって混乱しちまうかと思って止めといたのよー。いやー、悪かったかなぁ……」

長さんが頭をかいた。

「でも、ありがとな、わざわざ来てくれたんだよな。それにしてもそっくりだな、あのときのター坊と……」

「そんなのあたりまえでしょ。時間が戻るんだから」

「そうか、そうか、そうだったよな……」

長さんと明美さんが、代わる代わる剛志を抱き寄せた。

剛志は嬉しかった。生みの親に会えなかったのは残念だったが、こんなにも温かく迎えてくれたことが堪らなく嬉しかった。

「あ、そうそう。ター坊が来たら渡そうと思ってさ」

明美さんが厨房の戸棚から大事そうに紙袋を持ってきた。

「これね、ター坊の忘れもの。覚えているかしら……」

紙袋から綺麗に洗濯された白装束を取り出した。公務員のときに着ていた白装束だ。あの日、田中屋を飛び出したとき、忘れたことに気づいたが、悔しくて取りに帰らなかったものだ。

「田ちゃんと奈美ちゃんがね、いつか取りにくるんじゃないかって……」

――待っててくれたんだ……。

「ター坊出て行ったあとな、ここで田ちゃんと大喧嘩しちまったのよ……」

長さんが決まり悪そうに切り出した。

「あのとき、ター坊が不憫でな。思わず厨房さ入って、思いっきりぶん殴っちまったのよ……」

「ほんとよ、あんな狭いところで派手にはじめちゃうもんだから……」

明美さんが小さな厨房を見ながら当時を思い出しているようだ。剛志もあの日のことは忘れない。大きな傷となって今でも心の奥に刻まれていた。

「でも田ちゃん、いつもなら殴り返してくるのにな、あんときは、――勘弁してくれよ……って、ズーッと肩震わせておるんよ。俺も、それ見て何にも言えんくなってな……。反省しとるんよ」

「それで、奈美ちゃんが、お店飛び出して、泣きながらター坊を追っかけたのよ」

そう言えば、後ろから女の人の声が聞こえたような気がした。

――ボクのこと、嫌ってたわけじゃなかったんだ……。

それが分かっただけで救われた。来た甲斐があった。白装束に母ちゃんの匂いが染みていた。

「そうだ、あれも渡しておかんとな」

長さんが店の奥から額縁を持ってきた。

「志津乃ちゃん覚えとるか。これ、ター坊と一緒に撮った七五三の写真だよ」

田中屋の向かいの履物屋の女の子だ。同じ齢で、津波の日、田中屋のテーブルに並んで座っていた女の子だ。

そう言えば、志津乃ちゃんはまだ奥尻にいるのだろうか、ここには来ていないけど何歳になっているのだろう……。

白装束と七五三の写真はここに置いてもらうことにした。施設に持っていくことができないからだ。長さんと明美さんは残念そうにしていたが、志津乃ちゃんがきたら見せればいいかと言って最後は納得してくれた。

長さんに、せっかくきたんだから、泊まっていけと何度も引き留められたが、明日、施設の迎えがくるということで、ようやく帰りの雲っこを呼んでくれた。


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