プロローグ
北海道の南西部、北緯四十二度九分の沖合に、ポツリと浮かぶ島、奥尻島がある。
透明度の高い海に囲まれ、ウニ、アワビ、イカなど豊富な海の幸に恵まれたこの島は、太古から海岸に絶え間なく荒波が打ち寄せ、島の周囲に奇岩を形成する。島の面積百四十三キロ平方メートルと、道内では利尻島に次ぐ大きな島だが、知名度はさほど高くなく、この離島へ向かう航空機やフェリーの便数の少なさも相まって、七月下旬から八月中旬の短い観光シーズンが終わると、訪れる者はめっきり少なくなる。
港から徒歩で二十分のところに『なべつる岩』という、ドーナツ型の穴の開いた岩がある。ちょうど、囲炉裏の上から吊るす、鍋の取っ手のような形をしているのでこう呼ばれているようだ。遠くから見るとちっぽけでユーモラスなその岩も、近づくと高さ二十メートルはある大岩で、ごつごつとした岩肌は、どこか不気味で怖い印象もある。
島のシンボルと云われるこの岩も、地元のものか、この島を訪れたことのあるもの以外、知る者は少ない。
二〇九一年――
九月下旬の昼下がり、北国の短い夏が過ぎ、すっかり涼しくなっていた。
なべつる岩のてっぺんに妙な男が座っていた。両膝を抱えて空を見上げていた。擦り切れだらけのボロを纏い、黒頭巾のようなものを被っていた。逆光で島に背を向けているので、顔の表情も齢もわからない。小柄で猫背のシルエットはどことなく身軽そうにもみえた。
文明の発展から取り残されたのどかな孤島の湾岸に、昔と変わらぬ磯船のエンジン音だけが心地よく響いていた。
「とうとうこの日が来た、この日のために全ての手筈を打ってきた」
男は独り言ちながら、空に向かって伸びをした。
「この日を、どんなに待ち焦がれてきたことか……」
背中に視線を感じた。
振り返ると、向かいの小さな砂浜に、車椅子に乗った老女がこちらを見つめていた。
「ばあさん一人かい、そんなところでなにしてるんじゃ? 寒いじゃろう、風邪ひいちまうぞ」
誰もいない砂浜で、一人海を見つめる老女に問いかけた。
「曾孫に、毎日ここさ連れて来てもらって、ひなたぼっこしとるんじゃ。あたしゃあ、ここが好きでな。日が暮れるまで、毎日ここで、なべつる岩さ見とるんじゃ。それにしても、あんたあ、そんなとこさ上って、危ないじゃろうが」
丸まった背中を少しだけ起こし、人差し指で愛嬌のある小さな目をこすっていた。
「あっしは大丈夫じゃ。それよりばあさん、あっしの姿が見えるんかい?」
「そげな妙な格好で、そんなとこさ座っとったら、危なかしくってすぐにわかりおるよ。でも、あんたあ、島のもんじゃねーな。見慣れん顔してっから」
珍しい動物でも見つけたような面持ちだ。
「不思議じゃのう、この日に限って、あっしが見えるお人に会えるとはなあ」
「何じゃって? あたしゃあ、すっかり耳が遠くなってなあ」
「ん。いいんじゃ、いいんじゃ。今日のめでてぇ日に、ばあさんみてーな人に会えて、あっしは嬉しいんじゃ」
「だども、どうやって、そげな高いとこさ上ったんだ? えらい骨折ったべさ」
何の警戒心もない、つぶらな瞳がこっちを向いていた。
「ばあさん、あっしのこと怖くないんかい?」
「百年以上も生きとっちゃあ、怖いもんなんて何にもねーさ。津波さ来たときは、いまだに忘れられんがな……。あんたが今腰かけとる岩がすっぽり見えなくなるまで、おっきな波が襲って来てなぁ。みーんな波さ飲み込まれてあの世に行っちまって……。あたしゃ寂しくて、早く迎えがこんかと、毎日ここで海さ見とるんよ……」
今年百三歳になった老女は右手を額の上に当て、まぶしそうに太陽の光を遮った。
「たいへんじゃったのう。それにしても、ホントにあっしのことが見えるんかい?」
「さっきから妙なこと言いよるな。そこにはっきりおるじゃねーか」
トンボをつかまえるときのように、人差し指をクルクル回していた。
「そうかあ……。じゃあ、驚かんでくさせえな。実はあっし、とうの昔に死んじまってるんですよ」
出来るだけ驚かせないようにと、お道化た調子で声を出した。
「死んどる? あんたあ、そうかあ、死神さんですな。とうとう迎えに来てくれたんですな。お待ち申しておりましたわ。これで、みんなのとこさ行けるんじゃな。いやあ、遠いとこ、ご苦労さんでしたなあ、ありがたや、ありがたや……」
予想に反して笑みを浮かべると、両手を細かくすり合わせ、何かのまじないを唱えだした。
「いやいや、あっしは、死神ではございません」
「う? 何じゃあー、あたしゃあ、てっきりお迎えが来たのかと……」
肩を落として手を止めた。
「何か、すんまへんなあ。ご期待に沿えんくて……」
ポンポンポンと磯船のエンジン音だけが青い空の中に溶けていく。
老女は黙って下を向く。
――困ったなあ、そんなにがっかりせんでもいいのになあ……。
男は沈黙に耐えられなくなり、余計な話を語りだす。
「人間死んじまったら、成仏して天国行ったり、ロクでもないことばかりやってたら地獄へ落ちたりするけど、あっしのような半端もんは、どっちにも行けなくて、こうして現世をうろうろ彷徨っているんです。まあ、俗にいう、彷徨い幽霊っていうやつですわ」
老女は半分目を開け、なべつる岩の先の遠い海を見つめていた。
「でもばあさん、自慢じゃねえが、あっしは彷徨い幽霊の中じゃあまともなほうなんですよ。何故って? そりゃあ、天国で世話になった恩人に教えてもらった魔法の言葉、――ちゃんとやれば、ちゃんとなる――これを知っとるからですよ。この言葉、あっしの宝物なんです……」
老女は無表情のまま海を見つめていた。
「そうそう。たまに、ばあさんみてえに、あっしの姿が見える人に出会うんですよ。この間なんか、かわいらしいお嬢ちゃんが、あ、黒いおじさんだ。なんて、指差して言いよるんですわ。ハハハ……」
男は夢中になって話を続けていく。
「わけあって、ちょいとだけ天国に行く機会がございまして、そこで恩人に出会ったんです。でも、天国なんてところは肌が合わず、結局、彷徨い幽霊になっちまったんですわ……」
見上げるとウミネコの群れが空を舞っていた。太陽はまだ南西にあり、恩人が来るには時間がある。男は、もっと話を聞いてもらいたくなった。
「彷徨い幽霊は人間に憑りつくことができるんです。憑りつくと、その人のことはもちろん、親兄弟や友人知人、関わりのあった人達との出来事が全て見えるようになるんです。何でこんなことができるのかは分かりません。もしかしたら、成仏できずに時間だけが与えられ、せめて真っ当な人間の生き方を見習えと、反省させるためなのかもしれません。それであっしは恩人に憑りつきました。もしも生まれ変わることができるなら、恩人のようなお人になりたい。そう思ったのです。そして今日、その恩人が天国での修業を終え、ここに戻ってこられるのです。あっしはここで恩人をお迎えし、やらなければならない大仕事があるんです。それが、あっしにできる唯一の恩返しなんです」
男は真っ青な奥尻の空を見上げていた。
「郷原はんって言うんです。あっしの恩人。まだ時間もあるし、せっかくですから聞いてもらえますか? もう七十年以上も前の話になりますが……」