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――主文、被告人を証拠隠匿の罪により、懲役二年の実刑に処する――
たかが証拠隠匿ごときで実刑判決を食らった。
裁判員制度で選ばれたド素人の裁判員が、パワハラがどうとか、人ひとりが死んでいるとか、世間に与えた影響がどうとかこうとか騒ぎ立てたのだ。
丸岡商事に入社後、常務の一人娘と結婚し、婿養子になった。見てくれは平均以上だった。こんな俺でも第一印象は良いらしい。これだけは両親に感謝している。
一年後に長女が生まれ、大喜びの義理の親父が、お台場に高級マンションを買ってくれ、幼稚園から大学までの学費も全額出してくれた。仕事上の実績を上げるわけでもなかったが、常務の婿養子ということで、人事評価も勝手に忖度され、出世街道を昇っていった。
努力なんか生まれてこの方、したことがない。大事なのは人を見る目と先見性、力のある奴を見つけて利用する。平たくいえば要領とゴマすりだ。これだけで人生勝ち抜いてきたといってもいい。
友達、親友、恋人、恩人……
俺に取っては無縁のもの、聞いただけでも虫唾が走る。
他人なんて自分のために存在する、タダで使える道具に過ぎん。
大切なのは自分だけ。興味があるのも自分だけ。
――何で、こんな人間になったって?
――遺伝だよ……。
こうやって自問自答するのは俺の癖。
相談する奴などいたことない。
相談相手は自分だけ。
いつも自分に向かって問いかけ、勝手に答えている……。
クソ両親はギャンブルが縁で結婚し、死んで行った。
「勝てば天国、負ければ地獄。世の中ゲームだよ」
競馬で負けた親父の口癖だ。
「人生リセットしたい。生まれ変わったら絶対金持ちと結婚する」
欲深いお袋のセリフだ。
子供ながらに「ゲーム」と「リセット」二つのワードが刻まれた。
二年の刑期のところ、模範囚として一年半で仮釈放された。
脇の甘い所長を手玉に取り、おべっか使っておだて上げ、いい気持ちにさせてきたからだ。利用できる奴はとことん利用する。これが俺のやり方だ。
刑務所を出て自宅に向かった。
エントランスに入ると、郵便受けの表札が違う名前になっていた。
管理人に尋ねると、マンションは一年前に売却され、妻と娘は出て行ったという。
――売却だと!
人の財産を勝手に。
怒りが込み上がる。そういえば、獄中に離婚届が送られてきた。
――金づると縁を切るわけにはいかねえんだよ。遺産が転がり込むまではな!
心の中で罵声を浴びせ、破って捨てたことを思い出す。
それにしても許せない。俺の財産を勝手に売却するなんて。バカ妻の考えそうなことだ。
怒りが収まらぬまま常務の家に向かった。
ここは俺をピンチから救ってくれる魔法の砦。これまで失敗したときは必ず利用した。
通いなれた松濤の屋敷の前に立つ。高級住宅が並ぶ中、ひときわ目立つ門構え。いずれ自分のものになるかと思うと、にやけてしまう。
インターホンを押して、猫なで声で名乗る。
誰かが聞いている気配があった。
――バカ妻か?
反応がないので、もう一度押してみた。
聞き慣れたスリッパの音が少しずつ近づいて、玄関の向こうでピタリと止まった。
「帰れ、二度と来るな!」
魔法の砦から、今まで聞いたことのない常務の冷たい声が返ってきた。
「待ってください。私のマンションが売却されているんです」
「いつお前のマンションになったんだ? 誰が金を出したと思ってる! 元々お前の物になどなっとらん!」
この三十年、全てを注いだ砦が崩れ去った。
失って初めて気がついた。
俺には何もないことを……
高一のとき、クソ両親はゲームに負けて死んでいった。
借金抱えて、全財産を失った。
闇金に手を付け、追い込まれて家に火をつけた。
燃える炎の中で、最後にお袋が言っていた。
「母ちゃん天国行って人生リセットするのさ。お前も来るかい?」
俺は怖くなって逃げだした。
燃える火の中で、最後に交わした会話だった。
その後俺は、金持ちの親戚に引き取られ、大学まで行かせてもらって、丸岡商事に入社した。
あの日、お袋と一緒に人生リセットすればよかったのか?
高一の記憶が甦る。
金も財産も失った。
地位も名誉も失った。
最後の望みであった、魔法の砦も失った。
残ったのは、世間に付けられた最低人間のレッテルだけ。
――俺もリセットしようかな……。
身体から力が抜けた。
なんか疲れたな、もう少しだったんだけどな……。
――母ちゃん、俺もそっちに行くよ。
自問自答しているうちに踏ん切りがついた。
でも、ただ死んだって面白くない。これではただの負け犬だ。
負けたままの人生なんて、俺のプライドが許さない。
やり残したことはなかったか……。
――そうよ、仕返しだ!
俺を陥れた奴、最低人間のレッテル貼りつけた奴。
奴ら全員、心の底から後悔させてやる。
――さて、どうするか……。
何もかも上手くいっていた。あと一歩だった。
俺はどこでへまをした?
思い出した。
あの二人だ。吉田とかいう、使えない部下の母と嫁。
あいつらが日記なんかを見つけ出し、余計なことをしやがった。
あれさえなければ、今頃俺は役員で左団扇のはずだった。
あいつら殺して人生リセットすればいい。
マンション行ってぶっ殺し、そのまま、飛び降りて死んでやる。
そう言えば、吉田もあそこから飛び降りたんだよな。
同じ死に方をしてやる。
当てつけにはちょうどいい。
世の中、戦慄するだろうな。
バカなマスコミが面白がってあれこれ書き立てるだろうな。
俺をクビにした会社の奴ら、俺の狂気に恐れおののくだろうな。
想像しただけでもおもしれえ。
そうと決まれば今日しかない。
仮釈放の日に殺人犯してやる。
所長もクビだろうな。
頭抱えて真っ青になっているのが浮かんでくるぜ。
恩を仇で返すって最高だな。
考えただけでわくわくする。
それと、常務! バカ妻! クソ娘!
お前ら三人セットで殺人犯の身内のレッテルつけてやる。
一生消えないレッテルをな。
俺だけ死んで、お前らだけのうのうと生きてられちゃあ不公平だからな。
一石三鳥じゃねーか。
どっかのセット販売みたいで得した気分だな。
俺を見捨てた罰だぜ。いい気味よ。
俺は死んで楽になる。つまらん人生こっちからおさらばさ。
でもお前らには、これから一生、生き地獄を味わわせてやる。
ざまあみろだ!
ホームセンターで刃渡り二十センチの出刃を購入した。
薄汚れたコートに忍ばせ高井戸のマンションに向かった。
八階に上がり表札を確認した。
ババアと嫁。
さて、どっちから殺る?
どっちでもいいか、先に出てきたほうから殺ればいい。
なんだかロシアンルーレットみたいだな。
昔、「ディアハンター」という映画を見て興奮した。
自分に向かって引き金ひくのはごめんだが、人にやるのは最高だ。
ゲームオーバーの前に、こんなクライマックスがくるとはな。
神様からの餞別か、それとも日頃の行いか……。
何だか笑えてきた。
――でも、不思議だな……
男って、死ぬ前にお袋の顔を思い出すっていうけどホントなんだな。
急に浮かんできたよ。あんな最低な奴でも、やっぱり思い出すんだな。
――俺、今からそっちへ行くよ。
母ちゃん言ったよな。人生リセットできるって。
それ本当だよな?
俺、信じるからな。
ポケットの中でナイフを握り直した。
インターホンを押した。
さあ、ロシアンルールとのはじまりだ!
ドアノブが回る金属音がした。
どっちが出てくるか!
嫁だ!
宅配便でも待ってたような、無防備な面して出てきやがった。
包丁を見た瞬間、固まって声も出ないでいる。
バカな女だよ。てめえが余計なことするからよ。
両手で持った包丁を、胸元目掛けて身体ごと飛び込んだ。
脇から黒い塊が飛び出し、俺の右手に噛みついた。
足元にナイフが落ちる音がした。
黒い塊が流れるように喉元目掛けて飛んできた。
低い唸り声が聴こえてきた。
俺は八階建ての手摺りにのけ反った。
上半身が大きくふらついた。
――何が起こったんだ!
首から真っ赤な血が噴き出した。
息ができない。
全身の力が抜けていく。
黒い塊は容赦なく体重をかけてきた。
身体がふわっと宙に浮く。
俺は黒い塊に噛みつかれたまま、重なり合って落ちて行く。
スローモーションのように、ゆっくり落ちて行く。
ズシンと肉体が叩きつけられる音がした……。
「どうしちゃったのかしら。ドアを開けたら飛び出しちゃったの」
開けっ放しの玄関に、困惑顔の隣の老女が現れた。
「ドアを開けたら、目の前にナイフを持った男がいたの……」
律子は力が抜けてその場にへたり込んだ。
「刺されそうになったとき、お宅のワンちゃんが飛びかかかって助けてくれたの……」
マンションの下で犬が吠えていた。
遅れて義母がきた。
「待って! いまここに、豊ちゃんの匂いがする……」
霊感の強い義母が言う。
外に出てあたりを見渡した。
一階の芝生の上で、ハスキー犬が別れを惜しむかのように、ジーっと空を見つめていた。
名残惜しそうに、ク――ンと、空に向かって一吠えした。