14
熱戦と乱闘の余韻に浸りながら、郷原は適当な雲っ子をさがして歩いていた。
今日は朝から快晴だった。こんな日はなかなか雲っ子がつかまらず苦労する。なべつる岩を通り越し、少し山側に入ったところに『田中屋』という暖簾が目についた。地元の食堂のようだ。地元開催の試合を見て、興奮冷めやらぬ人たちが集まって宴会をやっているようだ。店の外まで賑やかな声が漏れていた。懐かしい匂いが郷原の魂に溶け込んだ。
――何だろう、この匂い……。
いつもそばにあったような懐かしい匂いだった。
忘れてしまった現世の匂いだろうか……。
天国では、山菜を採ったり、畑で野菜を育てたり、川や海で魚を釣ったりしながら自給自足で質素な生活を送るのが原則だ。ただ天国にも、特別に許可を得て、公務として修行者に食事を提供する小さな食堂が存在していた。もちろん金はかからない。天国には利益や儲けといった資本主義の考えがなく、金自体が存在しないのだ。ここもそういう類の食堂だろう。
郷原は懐かしい匂いに誘われて、思わず食堂の暖簾をくぐっていた。
ドアを開けると、カウンターの中からドスの利いた声がした。
「ここはおくしり専門じゃ。一見さんは帰ってくれ!」
店の大将らしき、ねじり鉢巻きの男が、顔も上げずに刺身包丁で魚をさばいていた。
びっくりした郷原は慌てて外に出かかるが、
「田ちゃん、今日ぐらいえーじゃねーか。この兄さんもきっとツネゴンズの応援にきてくれたんだよ」
奥に座る四十代ぐらいの日焼けした半袖シャツの髭面男が郷原を見て相好を崩した。店の壁にはツネゴンズの手書きのポスターが貼ってあった。
「長さんに言われちゃしゃあねえな……。じゃ、そこ座んな」
ねじり鉢巻きの親父が刺身包丁で奥のテーブル席を指した。
髭面男が向かいの席に手招きした。男の斜め前には、スナックママ風の派手な顔立ちの女が座っていた。三十代の半ばぐらいだろうか。
郷原はなんとも居心地悪いが、仕方なくスナックママの横に座った。
厨房の向かいがカウンター、真ん中に大きな丸テーブル、奥に四人掛けのテーブルが四つあるこぢんまりした食堂だ。厨房の中では、ねじり鉢巻きの大将と割烹着の女将が、刺身の盛り付けをしていた。
「兄さん役所の人か、それ脱いでそこ掛けな」
長さんが白装束を見て言った。
「この店のルールなの」
スナックママが壁際を指差すと、黒装束がコートのように掛けてあった。
「田ちゃんがな、ここ来るときぐらい、修行のこと忘れてくつろいでほしい言ってな」
――なるほど、そういうことか……
あらためて店内を見渡した。みんな黒装束を脱いで、てんでに飲んだり食ったりしていた。そういえば、厨房の二人も割烹着だ。
大将と長さんのさっきのやり取りに一瞬凍り付いた店内も、何事もなかったかのように賑わいを取り戻し、大テーブルでは若者グループが、丸ちゃんが星野に見事な回し蹴りを食らわせた場面を再現し盛り上がっていた。
「兄さん、さっきはごめんな。あの頑固おやじ、田中だから田ちゃんって言うんだけどな……。ま、気を取り直して一杯」
郷原に徳利を傾けた。一口飲んで驚いた。
――日本酒だ。ものすごく旨い。
ここでも丸ちゃんのように、米から発酵させて日本酒を作っているのだろうか。でも出来栄えがまるで違った。
「ワシら三十年前にこっち来たんじゃが、現世のころからこの店の常連でな、死んだときは七十五歳さ。顔がいかりや長介に似とるから長さんって呼ばれとるんよ。現世いるときゃあ、漁師やっとった。あ、こっちでも修行の合間に漁師やっとるがな。兄さん、このウニ食ってみろ。今が旬だ」
長さんが、棘の付いた大きなウニを慣れた手つきで二つに割った。とれたてのウニのようで、まだ棘が動いていた。長さんの見まねで、オレンジ色のウニを中指ですくって口に入れた。海水がちょうどいい具合に混じり合い、絶妙の旨さに驚いた。
「今日は珍しくイカがかかったんだ。こっちの醤油につけて食ってみい。遠慮せず、そーめんみてーに、ごっそり食ってみい」
透き通るような透明のイカを贅沢に口に入れてみた。コリコリした歯ごたえがあった。現世でもこんな旨いイカは食ったことがない。しかも醤油があるなんて……。
「醤油はどうしたんですか?」
「もちろん手作りよ。女将さんが、大豆と小麦、それと塩使ってこしらえとるんよ」
長さんがお猪口を飲み干しながら話を続けた。
「そんでこいつが田中屋の隣でスナックやってた明美。ワシとは内縁関係じゃ」
「あら、いつ内縁になったのよ。現世じゃ七十五歳のジジイだったくせによく言うわ」
スナックママが肉厚のカレイの唐揚げを郷原と長さんに器用に取り分けた。
「あんただって、今でこそ若くなったが、ここ来たときは六十五歳のババアだったじゃろうが」
「まあ失礼な。あんただって、今でこそ毛があるけど、ここきたときはつるっぱげでしょ」
「それいうなら、あんただって、今でこそピチピチしておるが、ここきたときは、しわくちゃの乳したバーサンだったじゃろーが」
二人は下ネタを応酬した。三十年も毎日ここで飲んでいるお決まりのやり取りなのだろうか。
「そういえば、さっき大将がおくしり専門って言ってましたけど、ここは奥尻島ですか?」
郷原は下ネタから話題を変えた。
「あら兄さん、今頃気づいたの? なべつる岩、見なかった?」
「見ました。見た瞬間、なべつる岩ってわかりましたが、奥尻島とは結びつきませんでした。一度も来たことがなかったので」
「ほんとに来たことないの? なべつる岩なんて、奥尻の人以外、知らない名前だと思うけど」
スナックママが手慣れた仕草で郷原のお猪口に酒を注いだ。
「今回、奥尻が被災から三十年たった記念行事で、アマテラス様が優勝決定戦を開催してくれたんよ」
――奥尻が被災……そういえば聞いたことがあった。
被災地で試合を行い、地元の修行者を元気づけることも、野球チームの重要な役割だ。それで今回、奥尻での試合が開催されたのだ。
「三十年前の大地震で、わしら揃ってここさ来たってわけよ」
「ここって……」
「見りゃあわかるだろうよ、天国だべさ。みーんなあの日、天国ロードを一緒に昇って来たんだよ」
西暦一九九三年七月十二日、午後十時十七分に発生した「北海道南西沖地震」は、島民二百人の命をたった一晩で葬り去った。この地震は、マグニチュード七・八。日本海側で発生した地震としては、近代以降最大規模の地震だ。つまりここは、同じ日に、同じ場所から天国ロードを昇ってきた魂が、集団で修業している場所なのだ。
あとで聞いたところによると、奥尻島は震災の際、臨時の天国ロードが突貫工事で作られて、役場やホスピタル、天国の出口、クリームハウスなどはここにはなく、現世でいうと札幌あたりのS556が管轄しているそうだ。
「それで、おくしり専門って言ったんですね」
「田ちゃんは、奥尻で食堂やっとったんよ。そんで、こっち来ても、公務員さなって、同じ『田中屋』の屋号で食堂やっとるのよ。こっち来ちまったみんなに、せめて現世と同じもん食わしたい言うてな。みんな、そんなことせんでえーって反対したんだけど、責任取らせてくれって頑なに言い張って。夫婦二人で食堂やっとんのよ」
「責任取るって言ったって、地震なんて予測できないし、誰のせいでもないでしょう」
「わしらもみんなそう言うとるんじゃがなぁ……」
ここから先は飲まずには語れないといった様子で、長さんはお猪口を湯飲みに変えた。
「一人息子の誕生日だったんよ。確か六歳だったかな……。それで、わしら近所の常連や島の仲間、三十人ぐらい招待して大宴会をやったんよ。そうそう、ちょうど今日みたいな感じでな。地震が発生したのが夜の十時過ぎで、いつもは十時で店閉めとったんだけど、その日に限って、息子の誕生日だからって引き留めたのよ。田ちゃんもえらいご機嫌でな。そんで、この食堂も海岸線に建っとったもんだから、一気に津波に飲み込まれ、みんなでここに来ちまったってわけよ。ほら、向こうの大テーブルの連中も、ここさきたときは五十歳ぐらいのオッサンで、常連だったんよ」
長さんは静かに目を閉じ、当時を思い出しているようだ。
「一週間研修の最後の日にね、――ワシがみんなを引き留めたから、こんなことになっちまった――って、夫婦二人で土下座して泣き続けるのよ……」
スナックママがハンカチで目頭をおさえていた。
テーブルの横の壁に、小さな額縁があるのが目に入った。手作りの額縁の中に、ボロボロでしわくちゃの写真が入っていた。
――なぜここに写真がある?
自給自足の天国に文明の利器はない。ここには産業革命もなければ明治維新もなかったはずだ。
「これって、写真ですか?」
郷原が写真に顔を近づけた。
「そうよ。オレが撮ったのよ。良く撮れてるべ。息子の一歳の誕生日に撮ったんよ」
目を凝らしてよく見ると、大将と赤ん坊を抱いた女将さんが二階建ての建物をバックに写っていた。入口の暖簾に「田中屋」と書かれているのが何とか読み取れた。ここの食堂と同じ柄だ。海岸線にはドーナツ型のなべつる岩がちょこんと佇んでいた。
「現世の写真ですか?」
「不思議だべ。普通、死んじまったら、現世のものは持ってこれないべ。なしてか知らんが、これだけはここにあるんよ」
「田ちゃん、海に投げ出されたとき、宝物のこの写真だけ手に取って、お守りみたいに胸の懐で握り締めてたんだって」
明美が大将から聞いた話を披露した。
「んだ。この写真だけ田ちゃんの魂と一緒に、天国ロードを昇って来たんだよ」
長さんが壁から額縁を外して、写真の右下を見せた。
「ここ見てみぃ」
『一九八八年七月十二日、剛志一歳の誕生日、田中屋前で』手書きで書かれていた。
――剛志!
郷原の下の名と同じ剛志の二文字、田中屋……。
中二のとき、戸籍謄本で見た『田中剛志』とつながった。全身に雷が落ちたかのような衝撃が走った。酔いが一気に醒めて、心臓が高鳴った。身体が冷たくなった。頭の奥底に無理やり閉じ込めておいた記憶が、じわじわ漏れてきた。決して開けてはならない、パンドラの箱を開けてしまったような……。
「この写真に写っているのは誰ですか?」
なんとか平静を装い問いかけた。
「田中さん夫婦や。厨房にいる二人だよ」
「いや、女将さんが抱いている赤ん坊です」
「ああ、これは剛志、ター坊よ」
身体じゅうの毛穴から一気に汗が噴き出した。
「でも、ター坊はここに来てないから、きっとどこかで生きてるのよ。でもその話をすると、田ちゃん怒るからね……」
「捜してやりたいんじゃがなぁ……、兄さんも知ってるじゃろ? 『アマチャン・アマチャン・なんとかかん』とかいうやつ。わしらみんな田舎もんだべ、ああいうの使えんくてな。細かい操作ができんのよ。白装束の人さ頼んで、もう一度教わろうとしたんじゃが、田ちゃん、余計なことせんでくれって、すごい剣幕で怒りおるのよ」
「私もね、ター坊がここにいないってことは、きっと奥尻で元気にしてるのよって、励ますつもりで言ったんだけど、認めようとしないのよ。どこか遠くに流されて、別の天国ロードから天国行ったんだって。みんな死んじゃったのに、息子だけ生きてたら示しがつかないって……。それ以来、この話禁句なのよね」
二人の話を聞きながら郷原は全てを思い出していた。途切れていた幼少の記憶が次々と湧き出てきた。人間は戦争など、あまりにも恐ろしい体験をすると、本能的に記憶を閉じ込めることができるという。生きるための防衛本能が働いて、悲惨な記憶が出てこないよう大脳皮質にロックを掛けるのだ。でも、そのロックは何かをきっかけに外れることもある。
大切そうに赤ん坊を抱く割烹着の女性、テーブルに追加の酒を運んできたときの女将の手。頭の奥底に固くロックされていた鍵が、音を立てて外れたのが分かった。
――そうだよ。海岸線のなべつる岩は、オレが子供のとき、いつも遊んでいた場所だよ。あそこから海にもぐって、ウニやアワビ採ってきたら、父ちゃんがいつも褒めてくれたんだ。
――そうだ、そうだ! オレはあの日、大津波に飲み込まれ、海に放り込まれたんだよ。
七月とはいえ奥尻の海は冷たかった。父ちゃんが必死で溺れている人たちを助けていた。自分のことは構わず必死に助けていた。流れてくる木材を見つけては、周りの人にあてがっていた。パンドラの箱から次々と記憶の波が溢れ出てきた。
「長さん、これにつかまれ! 大丈夫か? 元気出せ!」
父ちゃんの叫び声がはっきりと甦った。
――思い出したよ! ここにいる長さんは、いつも食堂でオレを膝の上にのっけて、昼間っから酔っぱらってクダまいてた漁師のおっちゃんだよ。
――母ちゃんはいつも割烹着だった。あの日オレは、必死で母ちゃんの割烹着にしがみついていた。漁船が海岸線の鉄筋の建物にぶつかって粉々になるのが見えた。救助用の船の浮き輪が一つ流れてきた。母ちゃんがそれを手に取り、頭からかぶせてくれた。大人用でぶかぶかだったが、外れないようにとロープで何重にもオレの身体に固く縛りつけてくれた。
「母ちゃんが着けてよ。ぼくが母ちゃんにつかまるから」
「大丈夫よ、母ちゃん泳げるから。ター坊はこれにつかまって。絶対放しちゃダメよ!」
手がかじかんで震えていた。寒さのせいか、恐怖のせいか分からなかった。心細くて浮き輪を被ったまま、母ちゃんの手を握り締めていた。
「怖いよ~」
「泣くんじゃない。男の子でしょ」
母ちゃんと交わした最後の会話だった。
次の瞬間、なべつる岩を飲み込む大波が押し寄せ、母ちゃんの手が離れていった。父ちゃんや木材につかまっていた人たちも一塊になって波の中に消えていった……。
翌日、身体にウキを縛り付けられた郷原は函館沖の海上で漁船に助けられていた。
人工呼吸と心臓マッサージを繰り返し、口から噴水みたく海水を吐き出し意識が戻ったと、船長から聞いた。
――あと数時間遅かったら、間違いなく死んでたな……。
船上でだれかの声が聞こえてきた。
「母ちゃん……、母ちゃんのおかげで、オレ助かったんよ。あんとき、ウキのロープ、固く縛り付けてくれたおかげで……」
写真を見ながら声が出た。
「え……?」
長さんと明美が同時に郷原を見た。
「……あんた、……ター坊か?」
長さんが唾をのみ込んだ。
「待って! 目元がそっくりよ」
明美の言葉を聞いた長さんが、血相変えて郷原の背中のシャツをまくり上げていた。
「やっぱしじゃ、間違いねー、このあざじゃ。ワシはお前さんを子供のころから風呂に入れとったんじゃ!」
興奮した長さんが立ち上がった。
「田ちゃん! ター坊だ! ター坊だ! ター坊が帰ってきた。心配かけよって、このクソたれボーズメがぁぁぁ‥‥」
最後の方は涙声で何を言っているのかわからなかった。
賑やかな食堂が一瞬、水を打ったように静まり返った。窓から潮の香りのする風が、波の音と共に心地よく流れてきた。
女将が厨房から飛び出そうとするのを、大将が腕を掴んで制止した。
「そいつは、剛志じゃねー」
誰もが予想だにしない言葉に驚愕した。
「田ちゃん、そりやぁ、あんまりだぁ。この子は間違いなくター坊だ。こっちきて背中のあざを見てくれよ。一発でわかりおるよ」
「前も言ったろ。剛志はあの日、ワシらと一緒に死んだんじゃ! どこか遠くに流されて、別のロードで天国行ったんよ。この話はもうせんでくれ!」
大将が刺身包丁をまな板に突き刺した。傍らで女将が顔を覆って泣いていた。
「田ちゃん……、みんな死んじゃったのに、息子だけ生きてたら示しがつかないって、わからなくもないけど……。けど、そんなこと、ここのだれも思っちゃいないわよ」
明美が諭すように言った。
「剛志はあの日死んだんじゃ。死んだらこんなに大きくなってるわけがねえ。万一、剛志だとしても、今頃、どの面下げて現れるんじゃ。あんた、さっさと出てってくれ!」
大将は郷原に向かって出口を指さした。そのとき郷原は初めて大将と目が合った。両目から涙がこぼれかかっているようにも見えた。
郷原は店を飛び出した。
「いくら何でも、あの子が不憫じゃよ! そんなつまらん意地、いつまで張りよるかあー」
長さんの怒鳴り声が聞こえてきた。
郷原は構わず駆け出した。思いっきり駆け出した。店に入ったことを後悔した。
――オレは拒絶された。実の親に拒絶されたんだ……
悲しいというより悔しかった。
――あんな奴、二度と会うもんか! 親なんかいらねー。元々いなかったんだ。
自分に言い聞かせた。背中に、食堂の引き戸がガラガラ開く音が聞こえてきた。遠い昔、耳にしたような女の声を背中に感じた。長さんが何か叫んでいるがよくわからなかった。
ふと、我に返った。
――白装束を忘れてきた!
構うもんか、あんなもん何とかなる。
郷原は全速力で走り続けた。両目から涙が溢れ、奥尻の夜風に飛び散った。